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私は科学者だ。世界一の天才だと呼ばれた男だ。今日も適当に研究してそれを発表した結果、止むことの無い雨のように、称賛が私の元へとふってきた。それこそ、土砂降りの大雨のように。
全知全能とまで言われた私は、しかしながらある悩みを抱えていた。
世界一の天才にも解決できない悩みなどあるのだろうか。そう考える人も多いだろう。
だが、これは世界一の天才であるがゆえ、全知全能であるがゆえの問題である。
研究することが無いのだ。
私は天才だ。百年に一人の天才だ。だからこそ、私にとって適当な研究であっても、それは世の人からしてみれば世紀の大発見なのだ。
適当に研究したとしても評価されるというのは、すなわち熱心に打ち込んで成果を出す一大プロジェクトのようなものが全く起きないと、そういうことでもある。
ぼうっと過ごす青春時代に何のドラマがある? 黙々とデスクワークをこなすだけの会社に何のロマンがある?
無い。少しも、これっぽっちも無い。電子計量器で計った場合、きっぱりゼログラム。何も存在しない。
ドラマはそれ相応の苦難や非日常的なイベントがなければ生まれない。
ドラマが無いのだ。ロマンが無いのだ。心揺さぶられるストーリーが無いのだ。
今の私の、科学者としての人生には。
ああ。
これではつまらない。どうしようもなくつまらない。
世間から見た科学者としては一流かもしれない。しかし、私の中で定義される科学者としては、今の私は三流以下だ。やっとのことでたどり着くことができる研究成果も、苦労の上に輝く栄光も、上手く言い表せない至高の瞬間も、すべて一瞬たりとも味わうことができない。苦労の欠片も無い成果物をただ発表するだけでは、科学者の研究とは到底言えないのだ。
納得いかない。全くもって納得いかない。
私は悩んだ。私はどうするべきなのかを、ただひたすらに考えた。
一体どうすればこの苦難から、退屈な現実から逃れらるのか。
考え、考え、考えた末、思いついた。
そうだ、今日から新しいテーマで研究を始めればいいのだ。今まで一度もしたことのない研究を。
そうすれば何か発見できるかもしれない。ドラマが生まれるかもしれない。
だが毎日研究に明け暮れていた私に、取り組めばドラマが生まれるほどに難しい研究など存在するのか。
無いのではないか?
これでも世界一と呼ばれる科学者だ。今まで生きてきた生涯の中で思いついたテーマは、完全に研究し尽くしていると言っても過言ではない。
私は危惧した。もう私に道は残されていないのかと、心の中に不安がよぎる。
しかし、その危惧は杞憂だった。
感情。私は感情についても科学的に研究を重ねてきた。
正の感情、負の感情。動物的本能による感情。一つの感情から生まれる連鎖感情。普通の人間は持たない例外的に生まれる感情。様々だ。
そしてその中に、私が唯一何度も投げ出してきた研究が存在した。
愛、である。人を愛し、愛されること。
数々の研究に携わってきた反面、私の恋愛経験は全くと言っていいほど無い。私を天才と呼ぶ、そこらの一般市民よりもよっぽど無い。物心ついた時には白衣を着ていたのだから、仕方ないとも言える。
科学者であるからこそ、愛という感情が分からない。
全く理解できないものを研究するのは不可能だ。あたりまえだろう。興味も関心も無い研究に何を求めろと言うのか。
だから投げ出してきたのだ。
しかし今回こそは、何度も投げ出したこのテーマについて研究するべきではないのか。何度も諦めたからこそ、それを乗り越え研究の成果を出した暁には、私の知りえないドラマが待っているのではないか。
そうして私は決意した。
愛の研究を始めることを。
*
私は早速、研究を始めた。
愛について何も分からない現状、私がまず最優先ですべきことは、『愛』について理解を深めることだった。
何も掴みどころのないものからは、何も生まれない。研究物について身をもって体験することは、科学者にとって必須項目である。
私は恋愛を始めることにした。
だが、見も知らぬ人と突然恋愛を始めることはできない。世界の頂点に立って多くの人を見下ろしてきた私であるからこそ、自分の身を危険に晒す行為については理解している。赤の他人との接触は避けたい。
だから今回は、身近な人物と交際することにした。私の研究をずっと手伝ってくれていた補助員の女性である。
彼女ならば、信頼して愛する事もできるかもしれない。
早速、私は彼女を呼び出し告げた。
『私の新しい研究テーマは、愛についての研究だ。今まで一度も成功していない。とても難しいテーマだ。そのテーマを知るためには、この身をもって実際に愛を知らなければいけないだろう。だから、君に、君だけに手伝ってほしいんだ。愛の研究を』
彼女は私の実験を、顔を赤くして了承してくれた。成功だ。
実験は上手くいった。いや、実験と呼ぶのは彼女に失礼かと思われるので、この場合は告白としておこう。
*
彼女と何をするかということで悩んだのだが、私には何をすればいいのか特に思いつかなかった。
であれば研究だ。愛の研究だけをする、という訳にはいかない。
世界は絶えず変化している。その変化を敏感に捉え、研究しなければならない。それが科学者だ。
恋人は恋人同士で同じことをすると聞いたことがあるので、いつものように、彼女と一緒に様々な実験を行った。
白衣を着て、試験管を持って、溶液を注ぎ足しては彼女の手を借りて。
無事に実験は終了した。
何度か彼女と目が合ったが、そのたび彼女は頬を赤くして目をそらしていた。
これが『愛』というものなのだろうか。いや、これは『愛』というより『恋』かもしれない。
私も彼女をじっと見ることができない。この、胸がざわついて揺らぐような、刺激的で、しかしとても心地よい感覚は、とても言葉で表現できるものではない。
彼女の腕の艶めき、首筋に浮かぶ汗の一粒、ほんのり赤みを帯びた頬の膨らみ。その全てが、なぜかいつもより輝いて見えるのだ。いや、見間違いだろうか。視力はずっと二を保ち続けているので、私の目に狂いはないはずなのだが。
やはり『愛』の研究は、一筋縄ではいかないようだ。
*
彼女の提案で買い物に行くことになった。
何を買うのかと尋ねると、彼女はにっこりと笑いながら服を買うと言った。
白衣と研究発表用のスーツばかり持っている私は、正直に言ってしまえばあまりファッションについては興味が無いのだが、とりあえずついていくことにした。
しかし、予想以上に彼女の買い物は長く、私は足の疲れを感じざるを得なかった。まさか、こんなところで彼女に遅れを取るとは思いもよらない結果である。
だが、私は彼女と一緒にいれるだけでも不思議と楽しく、疲れは気にならなかった。
彼女はできた人間だ。
買い物のついでと言って、私に似合いそうな服を選んでくれた。彼女の勧めでハンカチを買ったりもした。
彼女のおかげで、ファッションというものに少し興味が湧いてきたかもしれない。
*
再度彼女の提案で、一緒に映画を見に行くことになった。
とてもいいストーリーの映画で、こんなに興味深いものが世の中にあったのかと私は驚いた。研究ばかりしていたことを少し後悔したほどだ。
途中彼女が涙を流していたので、私はハンカチでその涙を拭いた。
私にもなぜ拭いたのか分からない。だが、彼女が涙を流していたら、その涙を拭い取りたくなったのだ。
そうすると、彼女は驚いた表情を見せた後、笑ってからキスをしてきた。
分からない。
キスをされた瞬間の感情は、私には理解しがたいものだった。
けれど、温かい、幸せなものだった。とても心地よいものだった。世界に一つだけしか無いようなとても大切なものだと直感が訴えた。
まさか、これが恋というものなのだろうか。
私はその日、初めて『恋』を知った。
*
私は彼女と一緒に旅行に行った。
私は世界の地形をはほぼ全て把握している。
だから、旅行に行こうと彼女に誘われた時は、そんな行為に何の意味があるのかと思った。
そんな私を彼女は半ば強引に旅行に連れ出した。
渋々同行した私は、しかし不覚にも、感動してしまった。
山を登って見た雲海はとても綺麗だった。
夕日が沈んでいく海はとても美しかった。
彼女と見る絶景は、写真にとってずっと保存しておきたいと、永遠にその時間を味わいたいと思えるほどに、私の目に焼き付いて離れなかった。
夜になり、ホテルに帰って同じ部屋に泊まった。
一緒に美味しい夕食を食べ、一緒にワインを飲み、一緒のベッドで寝た。
彼女から伝わる声が、気持ちが、温度が、とても心地よかった。
彼女の寝顔が、とても愛おしかった。
これは実験をしていても出ない結果だと、そう思わざるを得なかった。
*
その日、私から彼女を誘って、夜に食事に行くことにした。
研究所の近くにある高層ビルの、一番上の階にあるレストラン。夜景が綺麗なところだった。
個室に入り、他愛ない話をしながら共に食事をする。
出会った日からずっと見ていたが、毎日、毎日、時が経つにつれて少しずつ彼女が綺麗になっていくのを私は感じていた。
それは嘘なのかもしれない。最初から何も、彼女は変わっていないのかもしれない。
だが、私が彼女を愛おしく思う気持ちは大きくなっている。それだけは確実に言えた。
大体の料理を食べ終えたところで、私は自分の気持が抑えられず、彼女に言った。
『この夜景よりも綺麗な君に、私は恋をしてしまった。君はもう、私の中では捨てることのできないかけがえのない存在だ。君無しでは私は生きていけないのだ。実験は失敗かもしれない。だけれど、失敗しても、君を想う気持ちは永遠に変わらない。私は君を愛し続ける。これからもずっと一緒に、君のそばにいさせてほしい。結婚しよう』
彼女は涙を流した。
嬉しさの涙だったと、私は思った。
彼女がゆっくりと頷く姿を、私はじっと見つめていた。
私はその日、初めて『愛』を知った。
彼女との結婚式は、一ヶ月後に行われた。
*
私は幸せだった。
彼女との間に子供もできて、世界一幸せ者だった。これほど幸せなら天才と呼ばれずともいいと、少しだけ思えた。実験が成功したときより、研究が称賛されたときより、ずっと嬉しかった。
だが、彼女は病にかかっていた。
世界一の天才科学者である私の知能をもってしても直せない、俗にいう不治の病にかかっていた。
最悪だった。それを知った時、私の世界は崩落した。彼女のいない世界を想像するだけで怖かった。私は、彼女の病気すら直せない自分の非力を恨んだ。
そんな私に、彼女はたった一つだけ、願い事をしてきた。
タイムマシンを使ってみたい、と。
それは、私の研究の一つだ。タイムマシンは作ることができるのか。適当に研究した結果、作成できた。
だが本当に使うことができるのかは、タイムリープした瞬間に人が消えてしまうので分からなかった。
私はその願いを叶えてやりたかった。せめて彼女が死ぬ前に、一つだけでも願いを叶えてやりたかった。
だから、私は使ったのだ。
誰も怖くて使うことのなかったタイムマシンを。
彼女と一緒に乗って。
起動した――
*
私は過去に戻った。
彼女に出会って間もない、まだ告白もしていない私に、私は戻った。
そして。
彼女の記憶は引き継がれていなかった。