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鏡の先生

作者: 多川想人

小学校の教師になってから10年が過ぎたころだった。私は街のとある病院で子供達の補修授業のヴォランティアをすることになった。

そこの病院いわゆる精神病院で、子供は全員脳に障害を持つ者で、私はその一クラスを担うことになった。クラスといえど生徒はたったの一人だけで、黒川という14歳の女の子だった。

本当ならもっと多くの生徒を持つはずなのだが、病院側からの配慮らしく、障害を持った子供を教える経験のない私に慣れさせるためらしかった。私が勤めていた学校まで、病院で教えるという特殊な環境に慣れるため、新学期とともに有給休暇という名目で私を病院のほうに専念させた。そんなの必要ないと私は言ったのだが、無理はするなと両側から言われ、半ば強引に説得された。実際私も自分がそこまで器用じゃないと理解していたので、納得せざるをえなかった。

何はともあれ、私は自分の新しい(仮)の職場をなかなか気に入っていた。黒川は全く問題がありそうにも見えず、普通の子と何も変わらないように見えた。普通障害のある子どもは長く接していれば、他の子と異なる所が見受けられるのだが、彼女からはそういったものが全く伺えなかった。

何故彼女が入院しているのかわからなかった。もしかしたらこれも私に経験を積ませるために病院側が症状の軽い子を宛がってくれたのかもしれなのかとも推測した。けれど憶測はそこでやめることにした。病院側の意図など私とは関係ないことだし、私はただ彼女の得られない教育を他の子供と同じように与えてやればいい、そう思っていた。

そんなある日、一日の授業を終え、報告書をまとめ終わった私は患者が時間を潰すコミュニティルームに赴いた。そこで黒川が窓際の丸テーブルで、一人何かを書いているのが見え歩み寄った。教師として宿題をやっていれば喜ばしかったのだが、彼女は絵を描いていた。風景絵のようなもので13歳の子が描いたとは思えないくらいの出来栄えだった。

「うまいじゃないか」

私が言うと黒川はゆっくり振り返り私を見つめた。もともと長い髪で顔を隠し、鋭い目をしている彼女は不機嫌そうな顔をしているように見えるが、そういうわけでもないらしい。

「どこの絵だい」

「…先生も知ってる場所」

彼女はぶっきぼうに答え、私は思わず苦笑いをこぼした。確かにこの絵の風景に見覚えはあった。

子供の頃、それこそ彼女と同じくらいの年の時に親と行った旅行先の風景にそっくりだったのだ。彼女もそこに行ったことあるのかと話題を膨らませようと思ったのだが、彼女はそれきり口を開けなかった。

そういえば彼女は何で私が昔行ったところを知っているのだろう。

私は疑問に思ったがそのとき院長の呼ぶ声がして思考を一旦止めた。


「どうですか調子は」

見上げるくらい背丈をした院長は訪ねてきた。自分も割と背が高いほうだと自負していたので、こうやって見下ろされるのは少々不気味だった。古傷のような皺が目立つ顔に、眼鏡を掛けた顔が遠くに感じる。

「ええ、とてもいいですよ」私は言った。

「それはよかった、何か変わったところとかはありませんか」

「いえ全然。授業もきちんと聞くし、とても素直でいい子ですよ。ちょっとコミュニケーションが下手なところはありますが、何で入院しているのか不思議なくらいです」

私が何気なく言うと院長の瞳が眼鏡の奥で一瞬見開くのが見えた。驚いた顔、に近いものだった。そしてすぐに平静を取り戻した。

「そうですか、いい子ですか。それはよかった、それはよかった」

そして私の肩に手を置くと声を低くして言った。「ではまた」

そのまま振り返らず、去っていった。

一体あの顔が何だったのかはわからない。私はコミュニティルームのほうに目をやった。黒川はもうそこにはいなかった。




「先生、ここの方式なんだけど…」

翌日、私はいつものように黒川に勉強を教えていた。

「この前やったばかりだろう、ほら教科書のここに書いてある、この通りにやるんだ」

黒川はそれでもわからないようで、眉間にしわを寄せた。この顔を作るともう勉強をしたがらないことは私にもわかっていた。

「少し休憩しようか」

かれこれも3時間はやっている。昼飯の時間に丁度いいだろう。

私は教材を片付けて、弁当を取り出した。

黒川はそれを見ると席を立ち部屋を出ようとする。彼女は勉強以外の時は私と一緒にいない。

「黒川、たまには一緒に食べないか」

私は何気なく言った。彼女はその鋭い目を向けたが、素直に座り直した。

「そんなに私と一緒にいるのが嫌か」

黒川は首を横に振る。

「じゃあ何でいつもどっか行っちゃうんだ」

彼女は何も言いたくないというように顔を背けた。そしてぼそりと、聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。「一緒にいるよ、いつも」

私は首を傾げた。どういう意味なのかわからなかった。

「そのお弁当、恋人さんが作ったの」

「ん、ああそうだけど」

「綺麗な人だよね」

「会ったことあるの」

彼女はそれには答えず、じっと弁当を見つめた。

「食べる?結構おいしいぞ」

彼女はまたしても首を横に振った。以前昼ご飯は食べないと言っていたが、本当らしい。

「きちんと食べないと身体に毒だぞ」

「大丈夫」

しばし沈黙が流れた。時々、本当に時々だが私の言葉が彼女の口から発せられているような感覚に陥ることがある。それは不思議で奇妙な感覚だった。

「そういえば、この前の絵だけど…」

「あれ、僕が昔行ったところだと思うんだ」

「だと思う?」

「あまりよく覚えてないから」

「子供の頃の記憶なんて曖昧だもんね」

そしてまた沈黙が流れた。こういった時間も好きな私は彼女といるのは決して苦痛ではなかった。

「ねえ、先生。昔の話をするなら、教えてくれる。何で先生が先生になったのか」

「ん、ああ、唐突だな」

私は記憶を遡った。あれは私がまだ小学生低学年だったころの話だ。

「昔、憧れの教師がいてね。どんな子にも優しく接してくれて、当時本ばっかり読んで友達のいなかった私にも普通に話しかけてくれたんだ。そんな教師になれたらいいなぁって思ったのが最初かな」

「私にもそんな教師が昔いたよ」

「そうかい。教師と親に恵まれた子供ほど幸せなものはないからね。もっとも私は少々妄想癖がひどくてね」私は昔の自分につい笑ってしまう。「その教師の私生活までいろいろ設定を作っちゃったんだ。全部自分の人生に沿った、都合の良いようにね」

今思い出してもなかなか恥ずかしいことをしたと思っている。けれど黒川はそんな私の顔を見てふと微笑んだように見えた。そこに少し哀しさの色が見えたのは気のせいだったろうか。

昼食を済ませ、私は少し目を瞑ることにした。昨夜一晩中授業内容を考えていたので眠れていなかった。休憩は一時間と決めていたので、まだ15分ほどあった。

私は一応黒川に詫びを入れたが、彼女は全く気にすることせず、前日の画材道具を出し始めた。それを横目に、意識の糸が途切れた。



何分経っただっろうか。部屋のドアが開き院長が入ってきた。大人にしては背の低い、好々爺を思わせる院長。

「こんにちは、調子はどうですか」

「とてもいいですよ」私は院長のことは見ず、目の前に座る人物を見ながら言った。

「彼は今眠っています」

「例の先生ですか?」

私は自分の眉間にしわが寄るのを感じた。

「バカみたいですよね、自分の幻覚に設定を作るなんて」


数か月前の話である。小学生のころ世話になった先生が私の中で明確な人格を作り出して浮かび上がるようになった。本物の先生の私生活など知っているわけでもないが、私の中での彼は綺麗な恋人と暮らし、お弁当を作ってあげて、時間があるときはヴォランティアで普通の教育を得られない子供の面倒を見てあげていた。その人格に沿って私はもう一人の自分を作り上げた。


「多重人格とは本などでよく見ますが、対面するのは私も初めてです。しかも新しい人格のほうが本体のほうを知らないというのはますます稀なケース、ひょったしたら世界に黒川さん一人だけかもしれません」

「支配欲が強かっただけですよ。私はいつも周囲に馴染めなかったから、先生だけは私のものにしたかったんです。そのためには彼に私の先生のままでいてほしかった、それだけです」

これから私がもう一人の私に自分のことを告げようとは思わない。それは改善したくないと言っているのと同じかもしれないけれど、それで構わなかった。

「何はともあれ、君にこれ以上の異常が発生しないのであればこちらとしても安心です」院長は私の前の空白の席に視線をやる「では、彼によろしく言っといてください」

そしてドアを閉め、出て行った。


それからちょっとして、私は目を覚ました。









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