第94話 サラの決断
「一体……何だったんでしょうか……」
サラ・カナーレスは戦いによって乱れた呼吸を整えながら呟いた。
目の前には物言わぬ肉塊となった同胞が転がっている。致命傷を与えたわけでもないのに、突然崩れ落ちたのだ。最初から死んでいたとしか思えない。
「あれは……」
ふと、観客席の方へ目を向ければ、見覚えのある男が太刀を納めるところであった。
サラからすれば、準決勝で当たるはずだった男である。忘れるはずもなかった。
逃げ遅れた観客たちは、いつの間にか歓喜の声が上がっている。その声はやがて一つの言葉へと収束する。
――クライン。
考えるまでもない。この国の名だ。
サラはことここに至って、初めてこの国が王の圧政から解放されたことを悟ったのである。
「あ、ああ……」
圧政からの解放はサラの悲願。剣や魔術の腕を鍛え、武王祭へと挑んでいたのはそのための手段であった。
革命を考えなかったわけではない。ただ、正当な手段を用いて王政を打倒せねば、それは王の無法と何ら変わらないと思い至ったのだ。
道のりは長く、険しかった。
最大の壁と思われたラシードまで届いたことすらなかったのである。
今年も何とか本戦には手が届いたものの、戦いを見ただけで明らかに敵わないと思った者もいた。だがしかし、何の因果か強者はことごとく戦いに現れず、優勝に手が届いたのである。
正直、今もまだ実感はなかった。ただし、この国が解放されたのだ、という事実は驚くほどすんなりと受け入れられた。歓喜している者たちの姿がそうさせたのかもしれない。
ただ、それを成したのは己ではない。
サラは畏怖を込めて、観客席に立つ絶対的強者を見上げた。
「む……」
すると、不意に目が合う。しかも何を思ったか、観客席から飛び降りると、こちらへ歩み寄ってくるではないか。
サラの身体は勝手に硬直していた。
「おぬしが優勝者で間違いないかの?」
「あ、はい。一応……」
自分はこれほどの強者と準決勝で試合をしようとしていたのか。そう考えると、身震いがする思いであった。
一方の左門がサラを優勝者と断じたのは簡単なことだ。
棗とサラが予選で対戦していたことを覚えており、本戦でも気にかけていたのである。
「次代の王ということになるの。なれば、事情を話しておかねばなるまい」
「お願い……できますか」
それはサラが今まさに知りたいことであった。
悪の元凶と思われたクライン王が突然魔物のような何かになり、それが倒された途端、兵士たちが糸の切れた人形のように動かなくなった。
目を疑うような事態が連続しているのである。サラでなくとも、説明を求めたいところだ。
「うむ。まずどこから話したものか……」
と左門が口を開くと、一人の男がおずおずと近づいてきて、
「あ、あの……。その話、公開しても大丈夫でしょうか」
どうにも見覚えがある。よく見れば、拡声の法術遣いの男であった。
「別に構わぬぞ。むしろ、この国を立て直すのであれば、知っておいた方がよいかもしれぬ」
クライン王の打倒は終わりではなく始まりなのだ。
圧政によって衰弱した民たちを救い、国としての新たな基礎を造り、国として運営していかねばならない。
国境を接する他国からの圧力もあるだろう。
困難の先には新たなる困難が待ち受けているのだ。
それを乗り越えるために、この国にはびこっていた闇を知るのもいいだろう。
「ありがとうございます。それでは失礼して……」
男が拡声の法術を発動する。それによって、左門とサラの声は闘技場、ひいてはその外にまで届くことになった。
「この国は長く魔族によって牛耳られておった――」
左門はゆっくりとした口調で己の知る限りのことを話す。
伝えるべきことはたくさんあった。
ラシードのことやその正体。
すでに亡き王のこと。
城がどのような状態であるか。
そして、左門自身が何者か。
「そんな……」
サラが絶句し、表情を失うのも無理からぬことだった。そのような話を民たちにも聴かせているのだ。その動揺も容易に想像できた。
しかしながら、事実は事実である。受け入れた上で乗り越えていくしかないのだ。
「城で無事なのは第二王女という幼い娘だけであろう。兵は軒並み儂が斬った。それに、らしいどが連れ去った女どもは心を壊されておる。間違っても無事とは言えんな」
武王祭の結果によって、王が変わるわけだから、王女は王女ではなくなる。とはいえ、犯しつくされ、壊れてしまった第一王女も、無力に打ちひしがれる第二王女も被害者でしかないのだ。
民たちを苦しめた王の娘として、厳しい処分を与えるわけにもいくまい。今この場で納得できなくとも、あの惨状を見れば、罰する気など失せるであろう。
「王女様は私が引き取ります。彼女たちに罪を背負わせる気もありません。この国はもう十分なほどに血を流した」
サラの目的は祖国を貶める悪王を玉座から引きずり下ろすことだったのだ。それが果たされた今、これ以上の血を流す必要性を感じていなかった。
「そうか。ともかく、魔人いごおるは去った。目的は不明だがの。そして、らしいどは死に、残された眷属も葬った。もはや魔族の勢力は残っておるまい。傀儡となっておった兵たちが動きを止めたのが何よりの証左よ」
「あなたは……何者なのですか?」
これまで、誰も歯が立たなかったラシードを難なく倒し、かつイゴールという上位魔人までも追っ払ってしまった。それどころか、城に常駐していた傀儡兵を片っ端から斬り、城を制圧してしまったのだ。
どう考えてもまともではない。
もし仮に左門が己を神だと言ったならば、サラはそれを無条件で信じていたであろう。
「儂か? まああれだ。通りすがりの救世主、といったところかの」
「救世主……様……」
「うむ。あちらにおるおなごは救世の巫女じゃ」
救世主と救世の巫女、そして古代大戦に関する記述はこの大陸の各地に残っている。
脚色されたおとぎ話であったり、価値の高い歴史的な資料であったり、代々の口伝であったりするものの、その存在は広く知られているのだ。
もちろん、それが過去本当に起こったことであると認識している者は少ないが。
魔人やその眷属と存在を目の当たりにした今、救世主という存在を否定する材料などなかった。
ただ、そうなってくると、サラの前に立ちはだかる壁が一段と高く、大きく感じられるものだ。サラにとって――否、多くの者にとって左門の存在は偉大すぎたのである。
誰も成しえなかったことをいとも容易く成し遂げ、こともなさげに話すのだ。
サラは大きく揺らいでいた。
己は次なる王の器ではない、と。
適任は他にいる。具体的に言うならば左門だ。国難を救い、魔人をも退けてしまった英雄。これ以上の適任などいるはずもない。
サラは無意識のうちに、じっと左門を見つめていた。
一方の左門はその視線の意味に気づく。
「言っておくが、儂らは所詮よそ者じゃ。多少、力を貸せることはあるやも知れぬ。が、肝心なことはおぬしらのてですべきだろうよ」
クライン王のひいてはラシードの悪行の数々に耐え忍んできたのはこの国の民たちなのだ。であれば、この国をよりよいものへと変えていくのはこの国の民たちであるべきだった。
「でも私は……」
武王祭に優勝したとはいえ、それは自分以外の準決勝進出者が武舞台に現れなかったからにすぎない。
サラはそれを自覚しているために、自分自身が適任であるとはどうしても思えなかった。
「上に立つ者とは初めからそうあるのではない。立場が人を変えるのだ。おぬしはこの国を、祖国を救うべく立ち上がったのであろう。なれば、本当に力を入れるべきはこれからよ。地方に住む者たちは王の打倒を知らず、今も困窮にあえいでおる。それを救うのはおぬしらじゃ」
己に王の責務が果たせるのか。民たちがついてきてくれるのか。
不安はある。だが同時に、なぜ己が武王祭への挑戦を始めたのか、思い出した。
そしてそれは現実となり、今まさに目の前にあるのだ。
サラは覚悟を決めた。
それに呼応するかのように、闘技場が、国中が沸き立ち、サラコールが巻き起こる。サラこそが武王祭の勝者であり、王にふさわしい、と。それこそが民意であった。
「いい眼をしておる。儂らの出る幕はないようだの」
左門は満足げな笑みを浮かべる。
「どこまでできるかわからないですけど、私やります。そして、ここで女王として最初の責務を果たしたいと思います」
一体何のことか。気になってサラの方へ視線を向けると、再び目が合った。
「あなたは祖国を救ってくださった英雄です。何のお礼もせず、帰してしまったとあってはクライン武王国の名折れ。何か望みはありませんか?」
突然の問いに左門は一瞬迷ったが、己らには望むものがあることを思い出した。
「そうじゃな。実のところ、我らには安住の地がない。願わくばそれを世話してもらえると助かるが」
「わかりました。お約束します。後処理がありますから、少し時間がかかってしまうかもしれませんが、受け取るまでこの国にいてくださいね」
そう言われてしまっては断ることなどできない。別段、急ぐ用があるわけでもなし、左門は首を縦に振った。
「承知した。しばらくは、ばあくりい商会の屋敷で世話になっておる。用があるならば訪ねて参れ」
よくよく考えてみれば、マルコとソアラの安全はまだ確保されたとは言い切れない。
クライン王とラシードがいなくなったことで、ベインズ商会の権勢は衰えるだろうが、まだ油断はできないのだ。つまり、左門たちにはまだこの国ですべきことが残されていたのである。
○
その日、クライン武王国首都インビュラは歓喜に包まれた。
武王祭が終わったことによる高揚もあるが、なによりも旧王制が打倒されたことが大きい。しかしながら、クライン王の打倒を歓迎する者たちばかりでないのも事実。
その代表格がベインズ商会代表、グラネロ・ベインズである。王の庇護もなく、ラシードも死んだとなれば、既得権益を失うのも時間の問題なのだ。
それだけではない。権益を得るため、ラシードにすり寄るため、ベインズ商会は風えきれぬほどの悪事を働いていた。
それこそ、人攫いや殺しなどなんでもやったといっていい。それも王の庇護があればこそ、うやむやにできていたのだ。
グラネロ・ベインズは冷静ではなかった。
すべては己の身を守るため。
己の手元の暗殺者を即日サラのもとへ送り込んだのである。が、それは失敗に終わった。というよりも、左門に読まれていたのだ。
殺し屋は始末されるどころか、捕えられて拷問にかけられ、グラネロ・ベインズとの雇用関係を吐いた。
これにより、ベインズ商会は見せしめとして即時解体。
屋敷と財産は没収され、グラネロ・ベインズ本人は王の命を狙った罪科で無一文のまま、国外へと追放された。同時に、サラは旧王制の残した負の遺産の清算の意志を広く国民に示したのである。
マルコとソアラの身の安全が保障された瞬間であった。
さらに、ベインズ商会が跡形もなくなったことで、バークリー商会の重要度は増し、先代の頃と変わらぬ忙しさを取り戻しつつあった。
また、接収されたベインズ商会の屋敷は解体され、その地に左門たちの屋敷が建てられることになる。
ともあれ、一連のできごとにより、左門たちがこの国で成すべきことはなくなった。問題があるとすれば、左門が武王祭の賭けによって、身銭を失ったことくらいか。
イゴールの動きは気になるが、情報がないために動くこともできない。今は様子を見るしかなかった。
そんなわけで左門たちはしばし、クライン武王国に留まることとなる。
それが左門たちに与えられた最後の休息であった。




