第7話 国境の町
「怖がるでない! もっと踏み込め!」
「はいっ!」
ストレアはゴブリンソルジャーの攻撃を紙一重で躱すと、懐深くに踏み込み、顔面に拳を叩きつけた。
「グォォォォ」
ゴブリンソルジャーが苦悶の声を上げる。だが、浅い。一撃で命を絶つには至らなかった。すぐさま返しの一撃が襲いくる。
ストレアは背後に跳んで、一度距離を取った。
「力がないから仕留められなかったわけではないぞ。拳を止めるな! 敵のはるか後方を打ち抜け!」
「はいっ!」
すかさず左門から指導の声が飛ぶ。
二人の周囲には魔物の死骸が転がっていた。群れで現れた魔物を左門が間引き、残った魔物を相手にして、ストレアの指導をしているのだ。
かなりの荒療治である。
しかし、左門が手取り足取り教え、組手をしたところで、畳の上の水練でしかない。結局のところ、人というのは痛みやリスクを負うことで覚え、実践を通して成長するものなのだ。左門はそれを感覚的に理解していた。
その上、ストレアには法術の使用を禁止している。
特殊な力があるのはいい。が、それに頼るのはいざというとき窮するものだ。まずは地力をつけねば話にならなかった。
「ガァァァ!」
手負いのゴブリンソルジャーが手に持った棍棒をデタラメに振り回しながら、玉砕覚悟で突っ込んでくる。
ストレアは棍棒の動きを見極め、手元を蹴り上げた。
「ギィィィ!」
悲鳴とともに、棍棒が手から滑り落ちる。慌てたゴブリンソルジャーが飛び退くのとほぼ同時、ストレアは思い切り踏み込んで拳を振りぬいた。
「やぁっ!」
重い手応え。さっきまでとは明らかに違った。
首だけが明後日の方向を向き、力なく倒れ込んだ。
「うむ。最後のはいい一撃だった。あの感覚を忘れるでないぞ」
「はい!」
ストレアに稽古をつけながら戦闘をこなしたのはこれが初めてのことではない。もう数度に渡って行われていた。そのおかげもあってか、幾分、動きが滑らかになっている。
(もとより心得があったとはいえ……)
左門は久方ぶりに指導者としての歓びを感じていた。まだ、大したことをしたわけではなかったが、ストレアの呑み込みは驚くほどに早かった。加えて、法術などなくとも元々の身体能力が抜群に高い。
魔物という敵が恒久的に存在するせいか、力を振るうことにも、殺意に立ち向かうことにも慣れのようなものが感じられた。実のところ、それは得難いものなのだ。
鍛えればものになる。
左門の脳裏にはそんな予感があった。
「ところで、あまりに当たり前のように湧いてくるで聴きそびれておったが、この魔物というのはなんなんじゃ? 動物にしてはいささか獰猛すぎるように思うが」
狩って食料にする辺りはだして動物と変わらない。が、山でもない平原にまで平気で姿を現し、人に襲いかかるなど、考えられないことだ。
「魔物はですね、もともとは動物だった、と言われているんです。それが、とある存在の強大な邪気を受けて変質し、いつの間にか繁殖して、大陸中に生息してしまったらしいんです」
「とある存在とな?」
左門が反問すると、ストレアは大きく頷いた。誘導されているような気がするが、ストレアが満足そうなのでよしとする。
「魔人や魔獣。俗に魔族と言われる存在です。彼らは遥か昔に、堕ちた神――暗黒神に魂を売り渡した人や獣人だと言い伝えられているんですよ」
「物騒な名じゃの」
「ですよね。わたしもそう思います。でもですね、おそよ2000年前に起こった古代大戦において、魔人や魔獣は救世主様の手によって、大陸から一掃され、終焉の滝の向こうに追い出されたんです。そのときに、暗黒神も力のほとんどを失いました」
ストレアは煌々と目を輝かせながら言った。
不思議に思って聴いてみると、古代大戦をモチーフにした救世主の冒険譚や英雄譚が無数にあるらしく、ストレアもそれが大好きなのだそうだ。
「あ、終焉の滝というのはですね、世界の果てにある終焉の地です。世界の終わりでは海の水が果てのない奈落に落ちているんです。そのずっと向こう側――目では見えないくらい遠い場所にあると言われている暗黒大陸に魔族は逃げ帰ったんですよ」
「それは興味深い話だな。きっと人知を越える強さであろ。手合わせ願いたいの」
「やめてくださいよ。ここ最近、里に来る行商人の方が言っていたんです。どこかの国で魔人が出たって噂があるって。魔物が活性化しているのも事実ですし、気にならないと言えばウソになりますし……」
「ほう。とはいえ、2000年の空白があるのだ。さすがに何らかの対策は準備しているのじゃろ?」
人の恐るべき点は「学習する」ということである。現実に存在する危機に対し、対策を怠っているとは思えなかった。江戸の火事のように対策すれども防げぬことが存在するのも確かではあるが。
「魔族に対する備えは神聖レイチェスター皇国に頼っているのが実情らしいですね。実際のところはどうかわかりませんけど……」
神聖レイチェスター皇国には古代大戦時代に用いられた、救世主召喚の秘術が継承されているのだ。
大陸中央の湖上にある小国家だが、絶大な影響力があるのは、そういった事情も影響していた。
「ただ、もしも魔族が大陸に戻っているのなら、救世主様もご降臨されているはずですから、心配することはありません! といっても、わたしなんかには雲の上のお話ですけど……」
救世主関係の物語が好きというだけあって、絶大な信頼を寄せているようだ。それがあまりに眩しすぎて、左門の胸の裡にちくりとした感情が湧いたのは内緒である。
(ううむ。詳しいことはわからぬが、魔物の活性化と魔族の出現には因果関係がありそうじゃの……)
魔物からしてみれば、魔族は急にいなくなってしまった親分のようなものだ。帰ってくるとわかればそわそわするだろうし、帰還を察知すれば騒がしくもなろうというもの。
いずれにしても無関係とは考えづらい。
そんなこんなでしばらく歩くと、街道沿い最初の町、アロンに辿りついた。
町の外観はダブリスに酷似しているものの、堀もなければ跳ね橋もない。
最初の宿場町、と思えば相応の規模であろう。だが、石造りの街並みは見事というほかなかった。
「こういう都市っぽい都市はだいたい人族の管轄になります。亜人の町や里は自然と一体化していることが多いですね」
ストレアの言葉通り、町往く人々の多くが人族である。ここはまだ都市同盟の内なのだ。
「どうする? 今日はここで宿をとるか?」
ダブリスを出てからまだ二刻(約四時間)までは経過していない。日は多少中天を過ぎているものの、暗くなるまでまだそこそこの時間があろう。
「あのアロンから国境の町メルンまではそれほど遠くありません。せっかくですし、もう少し足を延ばしたいのですが……」
ダブリスからアロンまでの距離よりも、アロンからメルンまでの距離の方が短い。
旅に無理は禁物だが、ストレアにもまだ余裕がありそうだ。言うまでもなく左門は余裕。二人は協議ののち、先へ進むことを選択した。
今日のうちにメルンまで辿りつけば、明日の朝一で国境を越えることができる。
追手は撒いたと思えるが、ストレアは一応追われる身なのだ。国境を越えるまでは急いだとしても不思議ではなかった。
旅慣れた左門はいささか以上に健脚である。廻国修行で過酷な旅を何度も経験しているのだから当然であろう。しかし、里から出たばかりのストレアにそれを求めるのは酷であった。
その上、ストレアは魔物相手に体術指導を受けながらの旅路である。
最初のうちは初めての旅にテンションが上がって、疲れを感じなくなっていたものの、それも長くは続かない。
アロンとメルンの中間点ほどまで達した頃、疲労はすでにピークに達していた。
あれほど高くにあった日も、いつの間にか黒龍山脈の向こうに消えようとしている。夜になれば魔物もさらに活性化すると言うし、もたもたしていられない。
そこで左門は一旦体術の指導を切り上げ、疲れ果てたストレアをおぶった。
「そそそ、そんな! 申し訳ないです! 頑張って歩きます!」
ストレアはそう言って自らの足で歩こうとしたが、左門は聴き入れなかった。
「これは欲張って指導を続けた儂の落ちじゃ。嫌でなければ素直におぶさってくれると助かる」
「嫌じゃないですよ! ただ……汗かいてますし……」
「なあに。おなごの匂いは気にならぬよ」
「わ、わかりました。よろしくお願いします……」
そんなやり取りののち、ストレアをおぶった左門が走り出してからは速かった。魔物と戦っていないこともなるが、まるで速度を落とすことなく走り切ったのである。
もはや化け物としか言いようがなかった。
とはいえ、本人からすれば、若返った身体の試運転くらいにしか思ていないのだから末恐ろしい。
ともあれ、二人は夕方過ぎになってようやく国境の町メルンに辿りついた。
メルンはダブリスに次ぐ大都市である。国境を前に宿をとる旅人も多いため、宿の数は多い。
ところが、である。夕刻という刻限が悪かったのか、どこを訪ねても満室であった。
たまらずストレアが事情を聴く。
「あの……。夕方だからでしょうか」
「いやね、ここのところは特別なんだよ。エウゼビア女王国とライトネール帝国の緊張状態がピークらしくてね。商人たちが脱出してきてるんだ」
「そういうことですか……」
どうやら特別な事情があるらしい。左門にはよくわからなかったが、ストレアは得心したようだ。
その先も何度か断られ、諦めかけたとき、ようやく当たりを引いた。
ただ、問題点が一つ。空き部屋は一つだけだったのだ。
男女が一晩を共にするなど、ストレアを傷モニにしたも同義である。が、だからと言って疲労困憊のストレアを野宿させるわけにもいくまい。
「ここにすればよい。儂は野宿するでな。明日の朝に合流しよう」
左門はそう言って別れようとしたのだが、ストレアは頑として引かなかった。
「サモンさんも一緒です! これだけは譲れません!」
なんだかんだ言ったところで女には滅法弱い左門である。結局押し切られ、ここで宿をとることになった。
(いや、まさか……)
首を振って変な妄想を振り払う。何とも危険な一夜になりそうだ。
試練は意外にも早く訪れた。
宿で飯を食ったのち、旅塵を落とすため、風呂を頼んだのである。驚いたことに、頼めば水の魔術でお湯を用意してもらえるシステムであった。もちろん別料金を取られる。
しかし、自分自身で水の魔術が遣える者は無料らしい。
よくできたシステムであった。
風呂と言えば蒸し風呂の左門である。水の悪い江戸において真水は貴重。それゆえ、湯屋は多くの水を遣わずとも済む、蒸し風呂なのだ。
「覗いちゃだめですよ?」
部屋と浴場は薄い戸板一枚で仕切られている。いざ入ろうとしたストレアは悪戯っぽく微笑んだ。
「あああ、当たり前だ。安心いたせ、儂は少し出て参る」
からかわれていることくらい百も承知だが、どうしても焦ってしまう左門。このままではまずい。鍵をかけ、早々に部屋をあとにした。
宿の中庭に出て一心不乱に太刀を振る。煩悩退散。ただそれだけを考えていた。
昂った心が落ち着いていく。
こうして太刀を振るのも何だか久しぶりのような気がした。
実際には三日ほど開いただけなのだが、それでも左門にとっては人生で最長のブランクなのだ。
それからしばらくすると、ストレアが呼びにきた。
「探しちゃいましたよ」
「それはすまなんだ」
振り返った先にいたのは湯上りのストレアだ。やや湿った髪と耳、上気し、赤みがかった肌。なんだか甘い、いい匂いまで漂ってくる。
落ち着いた心は一瞬で吹き飛んだ。これはまずい。
「で、では、次はそ、それがしが……」
早口でまくし立てるように言い、左門は早々に部屋へ戻り、風呂場へ駆け込んだ。
(ううむ……。こんなんで大丈夫かの、儂……)