第2話 異世界の少女
草原沿いの街道を歩くこと1時間ほど。
左門はようやく最寄りの都市に辿りついた。
「おお! これはこれは……」
石造りの城壁に囲まれた都市を目の前にして、自然と感嘆の声が漏れる。近くの川から水を引いているのか、城壁の手前には堀があり、跳ね橋が架けられていた。
その先には観音開きの鉄城門。
堀こそ千代田の御城――江戸城に軍配が上がるが、城壁や門に関してはこちらの方が上手だと思える。攻め落とすには相当に苦労するだろう。
さらに驚くべきは、城壁の規模であった。
城を囲むどころの話ではない。都市一つを丸ごと囲っているのだ。左門の感覚からすれば、江戸の町をそのまま城壁で囲っているようなものである。驚くのは当然だった。
ともあれ、左門は人の流れに沿うようにして、跳ね橋を渡り、開け放たれた鉄城門を潜る。関所かとも思ったがどうやら勘違いであったらしい。顔は確認され、肩をとんとつつかれたが、それだけ。手形を要求されることも話しかけられることもなかった。
実のところ、これだけの行為によって法術で出入を記録されているのだが、左門には知る由もないことである。
「これは凄いな……」
鉄城門を抜けたの先、大きな噴水の広場まで歩き、左門は足を止めた。
見渡す限り石造りの巨大な町である。
家屋と思える建物はすべからくレンガによって組まれ、足元は石畳で覆われていた。砂埃の舞う江戸とはえらい違いだ。
かといって、生活感がないかと言えば、そういうこともない。
通りの左右に並ぶ露店や屋台。そこから発される威勢のいい客引きの声は江戸となんら変わらなかった。
商人というのは武士よりよっぽど逞しいのだ。それはどこでも同じらしい。
「にぎやかだな」
左門はぽつりと呟いた。行き交う人の数も多く、活気に満ち溢れている。これほどの巨大な都市は江戸以外に見たことがなかったのだ。
ただし、道行く人々の毛色はだいぶ異なっている。
「赤毛人……とも違うか」
左門が口にしたのは町を歩く者たちのことだった。
羽織袴に二刀を差した左門はなかなかに浮いているが、それはこの際気にしないことにする。言い出したらきりがない。
それよりも特筆すべきは周囲の人々の容姿だった。
廻国修行の折、長崎にも立ち寄ったことのある左門である。唐人はもちろん、赤毛人というものも見たことがあった。
もっとも、赤毛人とはある特定の人種を指すものではなく、外国人全般を指す言葉であるし、唐は1000年近く前に滅びて清国になっているのに、唐人と呼ぶわけだから、その認識も怪しいものだが。
ともあれ、左門にとって外国人などどれもそう違わない。にもかかわらず、赤毛人ではないと判断したのは理由があった。
町を歩く者たちの多くは赤毛人と見紛わんばかりの容姿をしている。しかし、その中に混じって、尻尾があったり、獣のような耳をしている者がいたのだ。
さらには、犬や猫のような体毛を全身に生やしている者までいる。
これはさすがに驚いた。
それだけではない。皆一様に人語を解しているのだ。斯くいう左門も人々の言葉を理解できていた。といっても、左門は日本語を話しているだけのつもりである。
気づいたのはしばし茫然と立ち尽くしたのちのことだったのだが。
そんなこともあって、左門は「神ののようなもの」を自称する声を思い出した。
確か、世界が違うとかなんとか言っていなかったか。あのときはさっぱりだったが、今なんとなく理解できたような気がする。
「獣の耳を生やした者など日ノ本におらなんだしの。きっと海の向こうも同じだったのであろう。ともかく、言葉が通じるのはありがたい」
『ああ、それは僕が気を遣ってあげたんだよ』
また声が聴こえる。まだいたのか。
「む。去ったのではなかったのか」
『少しの間見守っるって言ったでしょ? せめて町に入るまで待ってたんだよ。まあ、適応できそうでなにより。それじゃ、僕は行くよ。こう見えて忙しいから。じゃ、せいぜい二度目の生を楽しんでね』
一方的に言うだけ言って、どこかへ行ってしまったようだ。もしかしたら、もう二度とあの声を聴くことはないのかもしれない。
とちょうどそのとき、
ぐぅ
左門の腹が飯を所望する声を上げた。
よく考えてみれば、ここ2、3日は体調を崩していたために、白湯くらいしか口にしていなかったのである。なにも腹の具合まで生前と合わせなくともよさそうなものだが、過ぎたことを言っても仕方あるまい。
日ノ本とは大きく異なるこの地の食い物にも興味はあった。
「この匂いは……」
すんすんと鼻をならせば、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。一体何の肉だろうか。
過去には熊肉や猪肉、果ては蛇肉や蛙肉も食った経験がある。そのどれもがうまかった。肉にはずれはほぼないのだ。
期待は膨らむばかりである。
左門は匂いに導かれるようにして、人の波を巧みに避けながら歩いた。
通りのあちらこちらから、食い物と思える匂いがする。そのどれもが食欲をそそるものであったが、まずは初志貫徹。肉の匂いだけを追った。
「いらっしゃい。あんた、見ない格好だな。さては東大陸から流れてきたのか?」
屋台の前に立った途端、主とおぼしき男が話しかけてきた。何のことかさっぱりだったが、勝手に勘違いしてくれるならそれで構わない。どうせこの場限りの関係なのだ。
「まあそんなところじゃ」
「何にする? この辺で獲れる魔物の肉なら何でも揃ってるぜ。どれでも一串80イェンだ」
目の前には透明の板で囲われた串焼きの肉がいくつかの山に分けられて並んでいる。その前には文字らしきものが書かれた紙が張ってあった。読めないが、肉の種類でも書いてあるのだろう。
左門は知らぬことだが、それはまるでケーキ屋さんのショーケースのようであった。
その向こう側――ケースと店主の間で網の上に乗った肉がじゅっと音をたてている。店主は慣れた手つきで串を回転させ、肉を裏返しながら、左門の注文を待っていた。
「主、80いぇんとは何文になるかの?」
当たり前だが、左門には「イェン」という響きに聴き覚えがない。
貨幣といえば、文、朱、分、両なのである。
屋台での買い食いとなれば、数文から十数文が相場であろう。
左門は尋ねながら懐に手を突っ込み、金の入った巾着を取り出す。
「文? なんじゃそりゃ。80イェンは80イェンだ。それ以外は受け取れねぇよ」
「これではいかんかの」
渡したのは一文銭。寛永通宝だ。「寛永」の元号を冠しているように、江戸時代初期に鋳造されて以来、末期まで通用した銭貨である。もっとも一般的な貨幣と言っていいだろう。
ところが、店主は受け取った一文銭を一瞥すると、眉をひそめて首を振った。
「ダメだな。見たこともねぇ。東大陸じゃこんなもん遣ってんのか?」
「そういうわけではないのじゃが……」
まさか使えないとは。左門はがっくりと肩を落とした。
腹が減っていて、目の前には食い物がある。しかし、金がない。これは由々しき事態であった。なにせ、金を稼ぐ手段がないのだ。
一時のお預けで済めばまだいいが、職を探さねばずっと無一文である。その間も飲み食いできないとなればたまったものではなかった。
こういうときこそあの「声」の出番ではないか。そう思って声を待つが、まるで反応がない。宣言通りどこかに行ってしまったのだろう。肝心なときに役に立たない。
左門が途方に暮れていると、店主もそれを察したらしく、
「なんだ、金がないのか?」
「うむ……」
「そんなに立派なものを腰にぶら下げてるんだ。冒険者ギルドには登録してるんだろ? ちゃちゃっと依頼を片付けて来りゃあいい80イェンなんてすぐだろう?」
「ぎるど?」
左門は思わず聴き返した。金が要るのは今だけではない。生きていく以上、必ず必要になる。しっかりと聴いておいて損はない。
そう思った矢先、背後から別の客がやってきた。
「親父。ソードウルフを3本」
金を持たない左門は正確には客ではない。邪魔しては悪い、と自主的に後ろへ引いた。
ギルド、という単語も気にはなるが、商売の妨げになるのは本意ではない。別に逃げやしないのだ。
そう思って下がったところ、背中に何かがぶつかった。結構な勢いであったが、それに比して痛みの方は大したことない。
「きゃっ!」
「すまぬ」
言いながら振り返ると、大きめの帽子をかぶり、大きなカバンを提げた少女が赤くなった鼻の頭をさすっていた。どうやら顔から背中にぶつかったらしい。
それにしても随分と焦ったような雰囲気である。よほど左門が恐ろしく見えたか、あるいは何かから逃げているのか。そんな印象を受けた。
「ご、ごめんなさい!」
そう言って少女は慌てて頭を下げる。重力に引かれた帽子がぽとり、と地面に落ちた。
瞬間、左門の胸が年甲斐もなく高鳴る。いや、それでは語弊があろう。今の左門の肉体的な年齢は18歳程度なのだから。
ともかく、目の前に現れた少女は左門の好みのど真ん中を打ち抜いていたのである。