第9話 エウゼビアの洗礼
船はほどなくして対岸の桟橋に辿りついた。当たり前のことだが、左門たちが船に乗り込んだ桟橋はもう見えない。
「到着でさぁ。足元に気をつけて降りてくだせぇ」
船頭の言葉を合図に、前の客から順番に立ち上がる。そんな中、外套と女だけがもの凄い勢いで立ち上がり、最後尾から桟橋に飛び出していった。
眉を顰める者、声を荒げる者、ただただ呆れる者。
反応はさまざまである。
「はてさて、どうなることやら……」
左門は誰に言うでもなく呟いた。
船を降り、桟橋からしばし歩くと、こちら側にも町が広がっていた。国境を越えたことになるが、町並みに大きな変化はない。
「こっちもメルンなんですよ」
とはストレアの言である。どうやらメルンは二つで一つ。大河を挟んだ巨大な都市であったらしい。
しかしながら、町並みは同じであっても、決定的に違う光景も存在した。
明らかに男に対する扱いが違うのである。
女は立派に着飾っているが、それに従う男は粗末な衣服。おまけに散歩後ろを歩き、ふとした拍子に罵倒されている。
中には男女ともに着飾り、仲睦まじい様子で歩いている者もいたが、どうやらそれは婚姻を交わした夫婦のようだ。
ただ、それでも男が一歩引いている感は否めないが。
こうした光景は左門にとって結構な衝撃であった。
武家社会とは男尊女卑である。
家督は男児しか継げず、女は家に利をもたらす家へ嫁ぐことになるのだ。そこに拒否権はないし、子を産めなければ「石女」などと蔑まれて実家へ追い返されることもあった。
そもそも、武家の女は一人で外を出歩くこともないのだ。
もちろん、江戸のすべてにそれがまかり通っているわけではない。
庶民などはかかあ天下で、夫が尻に敷かれていることも普通にあるのだ。
「おなごの尻に敷かれているのとは趣が違うの」
「そりゃあそうですよ。信頼の上に成り立っているわけじゃないですから……」
ストレアの言葉は言い得て妙であった。
左門もこれまでに女房の尻に敷かれた職人の夫というものをいくつか見てきたが、大きな不満を抱えている者はいなかったように思える。
それはきっと信頼の上に成り立つものだからこそなのだろう。
おなごにはまるで縁のなかった左門であるが、それくらいは理解できた。
「ここから先は進めば進むほど、国是という名の差別が深刻化しますからね」
「なんと。これはまだ序の口か」
ある意味、目の前の光景は左門が想定していた通りのものである。が、まだまだ温いらしい。エウゼビア女王国の入り口でこれなのだから、王都において男たちは一体どんな仕打ちを受けているのか。
想像するだけ鳥肌が立った。
まだ見ぬ未来の心配はそこそこに、二人はやや速足で町の中央を歩く。町中では何があるかわからない。ストレアとて、実際にエウゼビアを訪れるのは初めてなのだ。
その点、街道に出てしまえば人の数は極端に減る。トラブルに巻き込まれる可能性も減らすことができた。
「すとれあどの、王都までどれくらいかわかるかの」
「確か14、5日くらいだったと思います」
「ぎるどの地図を見たときにはもっと近いかと思うたが、そうでもなかったのじゃな」
歩いて15日程度となると、江戸から京までと同じくらいである。
距離にして126里6町1間。495キロと少しだ。
左門が距離を見誤っていたのは、地図の縮尺が違っただけのことである。
「まあ、近くはないですね。それでも、帝国や王国に比べたらだいぶ近いですけど……」
大陸は広いのだ。狭い日ノ本とは比べ物にならなかった。
「そういえば、メルンを出る前に一度冒険者ギルドに寄りたいんですが」
「なんぞ用でも?」
「はい。せっかくですから――」
とストレアが言いかけたところで、突然通りに怒声が鳴り響いた。
「ふざけるなっ!」
人よりも耳の良いストレアは、びくっと身体を震わせ、左門の陰に隠れる。
大声を出したのは、王都ブラガ行きの馬車近くに立つ男のようだ。よく見れば、同じ船で大河を渡った男である。。
「何やらもめておるようじゃの」
「王都行きの乗合馬車みたいですね」
「ほう。馬車か。我らは乗らずともよいのか」
「はい。国境を越えましたから、もう急ぐ必要もありませんし、わたしは左門さんに稽古をつけてもらいたいです。それに……あれに乗ると不愉快な思いをすることになると思いますよ?」
「不愉快とな?」
「見てればわかります」
ストレアの言葉が気になったので、ひとまず行方を見守ってみることにした。周囲には早くも野次馬が集まりはじめているので、悪目立ちすることはなかろう。
「ふざけてなどいない。それがこの国の国是だ。それが嫌ならばとっとと出て行けばいい」
どうやら男は馬車に乗り込もうとしたらしい。
男の怒声に対し、静かな声で返したのは鉄の胸当てをつけ、腰に細剣を差した女であった。金糸のような髪を後ろで束ね、赤いリボンで結わいている。
細身だが華奢ではない。しっかりと鍛えているのだろう。その立ち姿は凛々しいの一言に尽きた。
ややつり目ががちであることも一役買っているのだろう。怜悧な印象はまるで研ぎ澄まされた太刀のようである。
女は騎士であった。
エウゼビア女王国に存在する騎士は女性のみで構成されているのだ。
一般的に、魔術への適性は女性の方が高いと言われている。それが確たる事実であるかどうかはさておき、エウゼビアの騎士は優秀な魔術遣いが多いことで知られていた。
国防や治安を担う騎士が優秀な者揃いであればあるほど国是が助長されるのだから皮肉なものである。
もっとも、当の彼女たちはそのようなこと、露ほども考えていないのだが。
「ちっ! 調子に乗りやがって!」
馬車に乗ろうとしただけで追い出され、あまつさえ暴言を吐かれれば怒り狂うのも当然であろう。ところが、左門はまったく別のことを考えていた。
(郷に入っては郷に従え、というのだ。いくら騒いだところで立場を悪くするだけであろうに……)
ところ変わればルールも変わるのだ。左門は早くもこの国に適応し始めていた。これも度重なる廻国修行の賜物であった。ただでさえ余所者は目につきやすいのだ。
逆らうのは悪手であった。
「調子に乗る? それは違うな。私はただ事実を指摘しているだけだ。そして、それに対する解決策を提示している」
「その態度が気に入らねぇって言ってんだよ!」
ついに男の忍耐が限界に達する。捨て台詞とともに地面を蹴り、女騎士に襲いかかった。さすがに得物は抜いていないが、手加減などするつもりはなさそうである。
「これだから野蛮な男は……」
対する女騎士は呆れたようなため息を吐く。まるで焦っている様子はなかった。
迫る男の拳を掴み、足を払う。
男は愕然とした表情を浮かべながら宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。
「がはっ」
肺の空気が強制的に吐き出され、苦悶の声が上がる。だが、女騎士は容赦しなかった。
仰向けに倒れた男の腹を踏み抜き、さらには顔面を数度殴打したのである。重い打撃音が鳴り響き、男の身体から力が抜けた。
男の方も決して弱くはなかったはずだ。かなりの手練れである。
「きゃぁぁぁ!」「ラピス様ぁ!」
女騎士はラピスという名らしい。周りを囲むように見守っていた野次馬たちから黄色い声が上がる。ラピスという女が人気なのか、あるいは男が打ちのめされたのがよかったのか、判断に困るところだ。
とそのとき、左門とラピスの視線が交錯した。
(む。しくじったかの……)
じろじろと見すぎたかもしれない。左門の身に緊張が走る。だが、それも一瞬のことだった。ラピスは何も言うことなく視線を外し、馬車に乗り込むと、そのすぐのちに馬車が出発したのである。
「危なかったですね」
「すとれあどのも気づいておったか」
「ひやひやしましたよ」
「ふむ。あの男を助けてやるか」
気づけば周囲の野次馬たちは解散しており、その場に残っていたのは左門たちと、男だけだった。自業自得とはいえ、このまま放置するのは憚られたのである。
「じゃあ、回復法術をかけますね」
そう言ってストレアは男に手をかざし、法術を発動した。
淡い光が男の身体を包む。すると、ほどなくして男が意識を取り戻した。
「う……。回復してくれたのか。すまねぇな嬢ちゃん。まったくえらい目に遭ったぜ」
「エウゼビアで女性に手を上げるなんて無謀もいいところですよ。奴隷にされなかっただけでも感謝したほうがいいです」
「ああ、そうだな。ついカっとなっちまった。こんな依頼、受けるんじゃなかったぜ……」
考えなしの無鉄砲かと思っていたが、そうでもないようだ。ただ、左門の琴線に触れたのは別のことだった。
「依頼?」
「ああ。荷物をブラガに届けてくれってな。割りがよかったもんだから引き受けたんだが……」
左門とストレアは互いに顔を見合わせる。口は開かずとも意思の疎通ができた。自分たちが受けているクエストに酷似している、と。
「あの。その依頼はどこで?」
「ボールズだ」
左門は首をかしげたが、ストレアには伝わった。左門に説明するのはあとでよかろう。
ボールズはアストラ=ヴィズ都市同盟を構成する都市だ。
位置は央都ダブリスの遥か東。神聖レイチェスター皇国が浮かぶ、大陸中央のレイチェスター湖のほとりにあった。
ボールズからブラガを目指すなら、ダブリスを通らず、国境の大河沿いの街道からメルンに入るのが一般的であるから辻褄は合う。
「へぇ。わたしたちも――」
ストレアが何を言おうとしているかに気づき、左門は素早く口を手で押さえ、代わりに適当に話を逸らした。
「儂らもブラガを目指しておっての。奇遇じゃな。それで、依頼の方はどうするつもりかの?」
「このまましらばっくれてやりたいが、ペナルティは勘弁だからな。歩いてブラガを目指すか、国外の商人の護衛も兼ねて、馬車に乗せてもらうことにするよ」
どうやら不振は持たれなかったらしい。
「そうか。息災でな。運が良ければ王都で会うこともあろう」
「じゃあな。助かったぜ」
男は別れを告げると背中を見せ、通りの人込みに紛れた。
「うううう……」
小さな唸り声を上げながら、ストレアが左門の手をぺちぺちと叩く。口を覆ったままであったのを忘れていた。
「ああ、すまぬ。とっさのことで嫌な思いをさせたの」
「いえ。口が滑りそうになったのを止めてもらったわけですし、それに……」
最後の方はもごもごというだけで、まるで聴き取ることだできなかった。が、それでよかったようだ。心なしかストレアの顔も赤い。
「じゃがやはり気になるの」
「依頼のことですか?」
「うむ。それもあるが、先を行った馬車の方もな」
「さすがに馬車に追いつくことはないと思いますから大丈夫じゃないですかね」
「見事に男を見下しておったの。まあ、あの実力があれば無理もないが、儂を見ておった目、あれは虫けらを見る目じゃった」
「ほんとひどいですよ」
「なぜすとれあどのが腹を立てておるのだ」
なぜか腹を立てるストレア。左門にはいまいち理解できなかったが、ただ単純に左門を見下していたことが気に入らなかったのだ。誰だって師を莫迦にされれば腹が立つものである。ストレアの場合はそれだけにとどまらぬようだが。
するとストレアは意を決したように口を開いた。
「サモンさん。やっぱりわたしの旦那様になってください」
突然のことに左門は口をあんぐりと開けたまま、固まってしまった。