七
目覚めたのは病院のベッドの上だった。片方の目が見えないと思ったら、頬に大きなシップがべったりと貼られている。
「梓ちゃん?」
疑問を含んだ声で呼ばれて、ゆっくりと首を回した。
「……はい」
「起きたのね。ほっぺたは痛くない?」
若い看護師が、ナースコールを押しながら笑顔で聞く。美人ではないが、抜けるように白い肌がきれいだった。歯も申し分なく白い。大丈夫です、と呟きながらぼんやり見ていると、中年の女医が入ってきた。
「おはよう梓ちゃん」
女医はにこやかに梓に笑いかけた。若い看護師よりは「どう扱ったらいいのかわからない」という空気が薄くて安心する。おはようは朝だから言ったのだろうか。それとも自分が目覚めたからだろうか。
「いま、何時ですか?」
「朝の七時よ。あのね、体調についておうちの方にも一緒にお話したいんですけど、ちょっと来られないみたいだから」
女医は言葉を濁した。
「一人で聞けます」
「そう、偉いですね」
梓が言うと、女医は感心したように頷いた。何が偉いのかわからずに、梓は心の中で首を捻った。
「飲んだ薬の影響は何も残っていないから安心してね。それと……いくつかの傷があるけれど、大きなものはないから、こちらも後遺症が残るようなこともないし。よく食べて眠れば一週間程度で退院できるでしょう。若いからね。打ち身が多いからしばらくは鈍痛が残ったり、細かい傷跡が目立つかもしれないけど、それも徐々に良くなりますからね」
「はい」
「それ……と、心療内科の先生が午後から来てくれますから、体の事でもなんでも相談して下さい。あとは……明日以降になりますが、市役所のケースワーカーさんが来て、これからの生活のことやなにかを、話し合うことになってます」
女医は書類を眺めながら一気に言って、パタンとファイルを閉じた。
「警察の方が話を聞きたいと言ってるんだけど、今からいいかしら?」
警察……梓が頷くと満足げに頷き返した。何でも話すんですよ、と言って女医が出ていくと、入れ替わりで婦警が入ってきた。
「梓ちゃんですね、初めまして」
笑顔なのに、どこか能面のような顔だ、と梓は思う。
「あ、あの……すみませんお話の前に」
梓がそう言うと一瞬、婦警は嫌な顔をしたような気がするが、書類に目を落としていたからよくわからない。書類には父や母のことが書いてあるのだろうか。
「どうしました?」
顔を上げたときは能面の笑顔に戻っていた。いないいないばあ、のようだ。
「藤間陽介君は見つかりましたか。彼は私の恋人なんです」
梓が言うと、婦警はすうっと目を細めた。
「梓ちゃーん、昼ごはん食べようか」
母やリョウのことをさっと聞いただけで婦警は帰り、ウトウトとしていたところに勢いのいい看護師が入ってきて、梓は驚いて目を開けた。胃の洗浄をしたからと、朝ご飯を食べられなかったのでおなかがすいている。
「ご飯の説明しますねー」
必要以上に大きな声の看護師は、暗記していた文を読み上げるようにして、食事の時間や選べるメニューを説明し、アンケート用紙を差し出した。おかずのメニューを見て、パンがいいかご飯がいいかなどを選べるらしい。
「一人で食べるのが嫌なら、ラウンジで食べてもいいですからね」
点滴の針を抜きながら、看護師が言ったのを聞いて梓は顔を上げる。
「ラウンジで……食べたいです」
「そう? ちょっと待ってね」
ラウンジで食べてもいい、と言ったくせに看護師はナースコールを鳴らした。担当医の許可を取っているらしい。
テレビが見たかった。病室にもテレビはあるがカード式だ。カードはもちろん持っていないし、病室には梓のリュックがあったが、財布の中は空っぽだ。内線を切った看護師が梓に笑いかけた。
「じゃあ、移動しようか。今日は私がラウンジまで案内しながら運びますからね」
看護師は病院の緑色のスリッパを梓の足元に並べてくれた。体はまだとてもだるかったが、どうしてもニュースが見たかった。
昼食のトレイを持った看護師に続いて、重い足を誤魔化しながらラウンジに向かう。角を曲がると、これでもかというようにビタミンカラーで揃えられたテーブルセットに出迎えられた。
「ここでいいかな」
看護師は緑色の天板のテーブルの上に、梓の朝食の乗ったトレイを置いた。椅子は梓の嫌いな黄色である。
「ありがとうございます」
梓は椅子に座って、がっかりして箸を持った。テレビからは昼のお笑い番組が流れていて、夢中で見ている老人はチャンネルを譲ってくれそうにない。
薄い粥に刻んで煮た野菜の味気ない昼食を腹の中に押し込んで、梓はさっさとトレイをワゴンに片付けた。ラウンジを出ようとした時、自分を見る粘っこい視線に気が付いた。気配を辿ると鼻にチューブを差し込んだ車いすの男がテレビカードの販売機の前に居た。ぶよぶよと太っていて白い。
「あの……」
梓が声を掛けると男はびくっと反応したが、そのあとでむっつりとした顔を作った。にやけるのを堪えるためなのだ、と梓にはわかる。前合わせの病衣を着た梓の、胸や足の肌色に吸いつくように男の目が動いた。
「私、いま手持ちのお金がなくて……ママが午後から持ってきてくれるので五百円貸してもらえませんか?」
「なに? テレビカードが欲しいの?」
「はい。携帯もなくて、退屈で。お部屋に返しに行きますから」
男は、仕方ないなあ、という顔でのろのろと財布を取り出して梓に五百円を手渡した。お金を渡したくせに、男は販売機の前を動かない。仕方なく、梓は男にもたれるようにしてテレビカードを買った。
男の手が一瞬、梓の太ももに触れる。
「すみません。お金はちゃんと夜にでも返しに行きますから」
男に小声で言って、梓は急いで部屋に戻った。パタパタと音のするスリッパが煩わしい。ベッドに腰掛けると使いまわされているのか印刷の剥げているテレビカードを、テレビ横の機械に差し込んだ。
画質の悪いテレビの右上には「不明の高校一年生、無事発見」の文字があった。
「ああ」
梓は目を閉じて、ベッドに横になる。涙が一筋だけ流れた。