六
陽介は不安な目で梓を見上げる。梓はスコップを置いて、ぬるくなったペットボトルの水を陽介に飲ませた。
「多分、すぐ終わるわ」
梓は優しく微笑んで、黒い土をゆっくりと陽介にかけていった。陽介は何も言わなかった。顔だけが出るようにして、床板を元に戻す。陽介が座っていたところに敷いていた布をバサバサと振って畳んだ。
小屋の外に出て小さな南京錠に鍵をかけようとポケットの中をまさぐる。鍵にはキーホルダーが付いていて、潰れた父の会社の名前が油性マジックで書かれていた。
父の工場だった建物の裏山にあるこの小屋は、今でも売れずに荒れ放題で放置されている。民家は遠く、表の工場は騒音を立てながら二十四時間稼働しているから、どんなに叫んでも誰にも聞こえないだろう。
小屋の鍵とお揃いのキーホルダーの付いた鍵で、銀色の自転車のロックを外した。山の中の坂道を一気に下ってアパートに戻り、音をたてないようにして自転車を止めた。今日のパートは夕方からだと言っていたから、梓が自転車を使ったことには気が付いていないだろう。ペットボトルの水を口に含み、ガボガボと漱いでドブに吐き出した。
玄関のドアノブに手をかけると、中から細い喘ぎ声が聞こえた。梓は一瞬だけ顔をしかめて構わず部屋に入る。あの日から、母はわざと梓に見つかるようにリョウと行為を行うのだ。二人は一瞬動きを止めたが、梓を見ることもせずにそのまま続けた。
汚れたリョウの古いTシャツとズボンを脱いでゴミ袋に詰める。ゴミ袋の中には切り裂かれた下品な雑誌が入っていた。母が職場から持ち帰ったもので、梓が切った。脅迫状を作るためだ。
「カゾクヲコロシタツミハ、カゾクニツグナッテモラウ」
出来上がった脅迫状は、学芸会の小物のようでとてもバカバカしく、梓は封筒に入れて投函する前にひとしきり笑ったことを思い出して口元を緩めた。洗濯機に小屋から持ち帰った布を入れて回し、狭い浴室でシャワーを浴びて、爪の中まで泥を丁寧に流す。
梓が出るのと入れ違いで、リョウの匂いを充満させた母が裸で洗面所に入ってきた。梓は自分の顔を携帯に映して確認した。布団たたきで切れた傷がまだ薄く額に残っている。烙印のようだと思った。
「ねえママ」
久しぶりに自分に声を掛けた娘を、母は訝しそうに見つめる。ヤドカリの目で見られているのがわかったが、梓は携帯から目を離さず前髪を整えているふりをする。
「仕方ないでしょ。私の方が若くて可愛いんだから」
「なに?」
母は聞こえなかったように聞き返した。聞こえない筈はない距離なのに。
「リョウ、私の方が可愛いって。好きだって。ママが捨てられないのは私のおかげなんだよ」
言い終わると同時に平手が飛んだ。梓は携帯を握りしめたまま、洗面所の床に倒れた。
「ふざけるな!」
最初の一言の後は言葉になっていなかった。梓は何度も腹を蹴られてくの字に丸まった。
「やめとけよ。構ってほしくて嘘を言ってるんだよ。ほら、仕事に遅れるよ」
リョウが裸のままやってきて、仲裁に入った。
「だって!」
「俺が好きなのはお前だって何度言えばわかるの。信じてくれないなら俺は出ていくしかないよ?」
リョウは母を抱きしめてなだめる。
「なんで嘘つくのかしら。嫌な子なのよ、昔から」
母は甘えるように言い、シャワーを浴び始めた。リョウは梓をちらりと見て肩を竦めて洗面所を出ていく。シャワーを終えた母はまだ倒れている梓を跨いで出てパートの制服を身に着けた。
「でも、私はリョウよりママが好きだよ」
抑揚のない声で言うと、母は一瞬黙り込み、舌打ちをして出て行った。銀色の自転車がキイキイと走り去っていく。その音が消えないうちに、リョウが梓にのしかかってきた。
「やめて!」
梓は初めてリョウを拒絶した。
「ねえねえ、今日はどうしたの?」
リョウは面白がるように笑いながら、梓の体に手を這わせる。
「本当に、やめてください」
梓が携帯を握ったまま、身を捩って逃げようとすると、しびれを切らしたようにリョウは梓を殴りつけた。母の手よりも重いけれど痛くはないなと思いながら、諦めてされるがままにする。冷たく固い洗面所の床に背中が痛んだ。
「ごめん、だって、梓が、言うこと、聞かない、から」
リョウは、二度殴られて腫れあがった梓の頬を撫でながら、腰を動かし、果てると全てに興味を失ったように洗面所を出て行ってTVをつけた。
――犯人からの連絡はないようです。……安否が心配されますね
部屋の引き戸のモールガラスに映った歪んだテレビの中で、メガネをかけた訳知り顔のニュースキャスターが夕方のニュースを読み上げている。怨恨か身代金目的か、と議論は進んでいった。
「これ、死んでるよな。お前の親父の会社を潰した奴の息子だろ? ざまあみろだな」
リョウは嬉しそうに言った。リョウにとって藤間は転がり込むアパートを作ってくれた相手だ。感謝こそしても、何の恨みもないだろうに。恵まれたものが被害にあっただけで喜ぶ負け犬の思考だ、と思う。
リョウはしばらくニュースを見ていたが、突然立ち上がって、何も言わずに左右で色の違うゴムサンダルを履いて出て行った。コンビニに酒を買いに行ったか、パチンコ屋にでも向かったのだろう。リョウに蹴られた梓のローファーがドアに挟まって、ドアは開きっぱなしになっている。
梓は重い腰を動かして洗面所を出て、自分のリュックを引き寄せる。中から薬の入った小瓶を取り出した。ノロノロと立ち上がると、内股をどろりとした液体が流れた。そのまま玄関脇の台所に向かい、コップに水を汲み、冷たい台所の床に座り込む。
「ねえ、ママ、早く」という子供の甲高い声が聞こえて、梓はすぐそこで開いている扉の外に目をやった。今は夏休みだから一緒に買い物にでも行くのだろう。
ふいに涙が零れた。
「ママ、さようなら」
自分でも感傷的すぎると思う一言を呟き、梓は泣いた。何故、泣くのか。自分でも信じられずに頬を触り、濡れている感触に不思議な気持ちで納得する。私は今、泣いているのだ。
「ママ……ママ、ママア」
自分がどうしたいのかもわからなくなる。泣き終わるともう、何も残っていなかった。瓶に入っていた薬を全て飲み込む。裸のまま横になり、リュックを引き寄せて抱いて丸まった。