四
黙々と掘り続けた穴はかなりの深さになっていた。大人一人をすっぽりと埋めることが出来るだろう。梓はスコップを置いて、男の隣に座り、細い指をその太ももに這わせた。
「……」
何か言おうとする男の口を唇で塞ぐ。男の口の中はざらざらしていた。ベルトを外してジッパーに手をかける。小屋の中にはビールの空き缶やたばこの吸い殻の外に、使用済みの避妊具までが散乱していて、なんとも言えない臭気が漂いだしていた。
男の目に欲情の火がついたのを見て、梓は徐々に頭を下げていった。
父の葬儀が終わるまでの間、母はさめざめと泣いては弔問に訪れた客の涙を誘った。
「こんなに追いつめられていたなんて、少しも気づかなかった。ゆっくり考えればいいと言ったのに」
いつでも梓を隣に座らせて、片時も離れようとしなかった。悲しい妻であり優しい母だった。
弔問客がいなくなり、自殺者の出た家を安く買いたたかれ、狭いアパートと自給八百円のパートの仕事、そして愛想のない娘だけが自分に残されたものだと気づくまで。
安アパートに酒臭い男がやってきたのは父の四十九日を過ぎる前だった。
「梓ちゃん。こんにちわ、は?」
母は愛想笑いを滲ませて梓に言った。幼稚園児にでもいうような口調だった。
「はじめまして。梓です。母がお世話になっております」
「ふーん」
男はにやにやしながら、舐めるように梓を見た。
「俺はリョウ。よろしくね」
リョウは握手を求めるように手を差し出した。梓は躊躇しながらもその手を握った。リョウの手は湿っているのにザラついている。とても嫌だったから、手が離れるまでリョウとはどんな字を書くのだろう、パパの名前と同じ字だろうか、と考えて気を紛らわせた。
ほどなくしてリョウはアパートに転がり込んできた。母はどうしてか「自分に残されたつまらないものコレクション」の中にヒモ男を加えたのだ。生活の掛かりが増えて、母のパートの時間は長くなった。
その日も部活を終え、帰ろうとする友達を引き留めておしゃべりをし、夜の七時を回ってから家に着いたというのに、母はまだ帰宅していなかった。
「梓ちゃん、ちょっとおいで」
宿題をしながら、梓はずっとリョウの視線を感じていた。いや、その前からずっと、母が初めてこの部屋に連れて来た時から感じていた。動かない梓の背中にリョウが静かに擦り寄る気配が伝わった。
無精ひげがざりざりと頬を撫でて、ヤニと酒の匂いがした。梓が抵抗しないことを知ると、汚れた指が梓の太ももの間に滑り込んだ。
ヤドカリの腹だ、と梓は思った。これは、あの日私が殺したヤドカリの腹なのだ。ヤドカリの腹が、裸でぶら下がっていた父になって、母の男の指となって、帰ってくるのだ。
「へえ、初めてじゃないんだ。まだ中学生なのにマセてんなあ」
リョウはがっかりしたのか、馬鹿にするように笑いながら腰を振った。初めてではない。痛くもない。ただ、気持ちが悪い。リョウの機嫌を損ねないようゆっくりと横を向くと、台所の窓からこちらを覗いている若い男と目が合った。顔中がニキビで覆われていて、黒い縁の眼鏡が蒸気で少し曇っている。隣に住む大学生だ、と気づいた。助けて、と梓が声に出す間もなく慌てて逃げていった。
本当に声を出す気があったのかは自分にもわからない。
リョウはその後も梓を求め続けた。それは徐々に大胆になり、母親は娘と自分の男が体の関係を持っている事を、行為中に帰宅するという不運によって知った。梓は中学三年生になっていて、リョウと初めて関係してからもう二年も経っていた。
「なに、してるの……ねえ、なんで」
母は震え声で言った。彼女が家賃を支払うエアコンもない暑いアパートで、お互いの汗を潤滑油にして裸で絡み合う二人を見下ろしている。梓には目もくれず哀願するような目でリョウを見ていた。
若いヒモと中学生の娘をアパートに残していけば、こうなることくらいわかるだろう。本当は知っていたくせに空々しい、と梓は冷めた気持ちで思った。母の視線は梓に移った。
「あんたは! どれだけ私を苦しめれば気がすむの!」
聞き取れたのは最初のこの部分だけだった。母は唾を飛ばしながら意味不明な言葉を喚き散らし、ぎょろぎょろした目で辺りを見回した。ヤドカリの目だ、まだリョウを体の中に入れたまま、梓はぼんやりと思った。
母はプラスチックの布団たたきを見つけて掴むと振り上げた。リョウが両手で自分の頭をかばって、梓と寝ていた布団の向こうに逃げた。母は垂直に振りあげた布団たたきを、裸の梓に向かって振り下ろした。
死んじまうよ、とリョウが笑って止めに入るまで、何度も何度も振り下ろした。