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 そういえば、あの貝はどうしたろう、と梓はスコップを持つ手を止めて、ぼんやりと思った。中身は確かにトイレに流した。だけど、あの黄色く塗られた貝殻はどうしたのだったか。腹と一緒に流してはいない。だが、ゴミ箱に捨てた記憶もないし、どうしても思い出せない。

「終わったのか?」

 手が止まったことに気が付いたのか、男がゆっくりと聞いた。

「まだ、もう少し」

 男は足を伸ばして、ラジオのスイッチを入れた。


――帰宅途中で行方不明になってから二日が経過しました。届いた脅迫状には具体的なことは何も書かれておらず


 男はラジオのスイッチを切った。陽気な歌謡曲が流れればよかったのにと思う。男は落ち窪んだ眼窩の下から梓を見る。疲れの色の濃い、乾いた目をしていた。ヤドカリの目は真っ黒で光っていた。だから、男はヤドカリではない。

 ふいに、またあの青紫が閃光のように脳裏に浮かんだ。それが何物であるかを理解するまで見上げて首が痛くなった。ちょうど、穴を掘るために俯きつづけている今のように。


 暑い日だった。そう、九月十日だ。梓は中学生になっていて、もう自分が殺したヤドカリのことなど何も思い出さなくなっていた。職員会議かなにかで下校が早い日で、パートに出た母はまだ家に帰っていないだろうから、と恵梨の家に立ち寄ることにした。

 恵梨はピンクのハート模様のついた白いヤドカリにはとっくに飽きていて「シロちゃん」の入った緑色の水槽は玄関に放置されていた。シロちゃんはいつみても同じ場所に居るから、もう死んでいるのかもしれない。

「こんにちわ、梓ちゃん」

 部屋に入るとすぐに、恵梨の母親がカルピスを出してくれた。氷がグラスにあたってカラコロと涼しい音を立てる。

「お父さんは、おうちにいるの?」

 努めて何でもない事のように恵梨の母は聞いた。梓ではなくカルピスの氷を見ていた。

「居たり……居なかったり……です」

 梓は静かに答える。恵梨の母親は昔からぽっちゃりとしていたが、今ではしっかりと肉が付き、頬が垂れ、目じりに深い皺が寄っている。梓の返事を聞くと一瞬だけ、そうゆうことじゃないのよ鈍い子ね、という視線を投げたが、それはすぐにいつもの笑顔に変わった。

 梓の父が経営していた会社は、資本の大きな同業の企業が街に移転してきたことで半年前に潰れた。梓には難しいことはわからなかったが、腕の立つ社員や職人たちが全てその大会社に引き抜かれたからだという。恵梨の父もその一人だった。

「そう、お仕事に行ってるのかしら?」

「……仕事はまだ見つからないみたいです」

 目の前の垂るんだ中年女が欲しがっているだろう答えを、なるべく悲愴そうな顔を作って梓は言った。

「まあ、大変ねえ。でも、梓ちゃんのお父さんは優秀だから」

 愉悦の浮かんだ、今日一番の笑顔で恵梨の母は笑う。梓の父がまだ自分の夫の会社の社長であった頃にも見せたことのない、曇りのない笑顔だ。

「ママ、用が済んだら出てってよ」

 返答に困って黙っていたら、恵梨が大声を出した。

「はいはい、もう、恵梨ちゃんは怖い怖ーい」

 震える真似をして、恵梨の母親は部屋を出て行った。パタン、と安そうな音を立ててドアが閉まる。

「ばばあのくせにキモ。死ねばいいのに」

 恵梨はそう言って、はははっと笑った。「ひどいな。恵梨のママ、優しいのに」と梓は小声で言って、それでも一緒に笑った。

 カルピスを飲んで、アイドルの話をして、流行りの漫画を少し読むと、恵梨の家を出た。わざとゆっくり歩くが、二人の家はそんなに距離があるわけではない。風水だと言って数年前に父が塗り替えた自宅の黄色い壁が見えると更に速度を落としたが、五分も経たずに着いてしまった。

 父の会社が潰れてから始めたパートに通うため、母親が使っている銀色のママチャリはまだなかった。梓は静かに門扉を開けて家に向かう。ドアノブを回したら開いていたので、梓はほっと肩を撫でおろした。閉っていたら呼び鈴を鳴らさなくてはいけない。呼び鈴を鳴らせば帰宅したことを父に気づかれてしまう。梓は長い息を吸ってから、音を立てないように玄関を開けた。

 もう暗くなってきていたから、その見慣れぬものが何なのか気づくまでに時間がかかった。浮かんで揺れる青紫。いや、揺れているのは自分の体かもしれない。

 父は全裸だった。梓に向かって舌を出している。社員に捨てられた父は、ちぎり取られたヤドカリの腹のようになって、ローンが二十年も残る家の階段の手すりにぶら下がっていた。  


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