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小屋の中にはセミの声が溢れかえっていた。だから、あの日もセミが鳴いていたような気がしたのかもしれない。
記憶は驚くほどに鮮明なシーンと、ぼんやり消えかかったシーンで構成されている。漫画の中でしか見たことのない、穴の開いたチーズのように。
梓は黒い土の付いた手で顔を擦りそうになり、思いとどまる。穴はだいぶ大きくなったが、困ったことに土が固くなってきていた。砂利が混ざっていて、なかなか掘り進めないのだ。しかも、ダボダボの男物のTシャツとジーンズを着ているので、動きづらい。
考え事ばかりせずに手を動かさなくては、と黒い土に目を戻すと、目の前に黄色いヤドカリが浮かび上がった。梓はため息をついて思い出を追い出すことを諦めた。
家に帰り、梓は仕方なく持ち帰ったヤドカリを机の上に置いて観察した。貝からもじゃもじゃした何かが、ただ節操もなく付き出しているように見えたヤドカリは、よく見るときちんと目があって鋏があった。それは何とも言えない愛嬌があって、今更になって可愛く見えなくもないと思った。
手に乗せると貝の中に引っ込んでしまう。机に置いてしばらくするともぞもぞと這い出てきて動く。黄色い点がうろうろと机の上を歩くのを眺めて、落ちそうになると助け舟を出して真ん中に戻した。
ヤドカリはいつも同じ方向に向かった。ヤドカリが向かう方向には海があるのだろうか。誰かに聞いてみたいと思ったが誰の顔も浮かばなかった。
動きの観察に飽きてしまうと、次に頭をもたげたのは「中って、どうなってるんだろう」ということだった。この疑問は誰に聞かなくとも解決できる。出してみればいいのだ。
だが、引き出そうとしてもヤドカリは強硬抵抗して出てこなかった。梓はコンパスの針を、小さな貝の穴に捻じ込み、無理やりに引っ張り出した。固い鎧のような手足に比べて、腹部はブヨブヨと白く、嫌に生々しいと感じた。
自分で出したくせに、気持ちが悪いから早く貝の中に戻ってくれればいいと思った。ヤドカリのそばに貝を置いたが、なかなか戻ろうとしない。
「もう」
梓は貝とヤドカリを持って、無理に捻じ込む。それでも上手く入らずに何度も繰り返すうちに白い腹がちぎれて落ちた。
「あ」
ヤドカリの白い腹がスカートから除いてた太ももの隙間に落ちて、梓は小さく声を上げた。ぞっと悪寒が這い上がって、キャスター付きの椅子に座ったまま後ろに下がる。
払いのけようとすると、ヤドカリの腹は梓のまだ細い足の隙間にするりと入った。
「やだ!」
涙目になって、梓は立ち上がって逃げた。ピンク色の布が貼られた椅子の座面の上で、ヤドカリの腹はてらてらと光っている。梓はトイレに行って少し吐いた。吐き気がおさまると、ヤドカリが滑り落ちた足の間をゴシゴシとタオルで擦り、手を丁寧に石鹸で洗った。
タオルをカゴに放りこむと、とんとん、と階段を降りる音がして、ベランダから洗濯物を取り込んだ母が、洗面所の前の廊下を通りかかった。
「あーちゃん、何してるの?」
そう聞いた母の目は黒かった。梓の顔、擦って赤くなった太もも、カゴに放りこまれたタオルへと視線が移動する。その目はヤドカリの目に似ている、と思った。
「何にも」
梓は首を捻って、何故そんな事を聞くの? という顔で笑った。母の目はヤドカリの目のままだ。
「パパを見なかった?」
「……さあ」
梓はそれだけを言って部屋に戻った。
ヤドカリの腹はまだ椅子の上に居る。梓は意を決して、ティッシュペーパーでヤドカリの腹を包んだ。ティッシュごしにも何かが指に伝わって来るようで気持ちが悪い。なるだけ体から離して持って、まだ動いている上半身とともにトイレに流した。
足の間にヤドカリの白い腹が挟まっているような感覚は、それから長い間消えなかった。トイレからヤドカリが……まだ動いていた上半身ではなく、腹が這い出してきそうな気がして、梓は自宅のトイレに流してしまったことをしばらくの間後悔した。