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ネタバレになるため、詳しくはここで書きませんが、人間の暗い部分にスポットを当てた陰鬱な物語です。後味は悪いと思います。

耐性の無い方は、どうかお読みにならないでください。


読んだ後の苦情はお受けできません。

 ああ、まただ。

 

 また、ヤドカリが来た。


 脳に強く浮かんだ記憶は、きつく閉じたまぶたの裏に反対色の残像を焼きつけた。

 とても不安定であるはずなのに、しっかりとした重みを持った黒紫色がぶらあんと揺れて……いや、揺れなかったかもしれない。よく、思い出せない。思い出そうとすると写し絵のように不明確な輪郭をもってしか浮かばないくせに、ときおり閃光のように鮮明な像を結び、まぶたに白い残滓を残すのだ。

 あのヤドカリの腹は白かった。


 ふう、と大きく息をついて、梓は顔を上げた。玉のような汗が頬を流れ、黒くカビ臭い土の上にポタポタと落ちる。

 何時だろう。薄暗い板張りの納屋の中に、唯一明かりを漏らしている節穴を見つめる。篠笹の葉が風に揺れるのが見えた。明るさと気温から考えて、恐らく正午を過ぎたあたりだろうか。

 納屋の床板を一枚外して、床下の土を掘り始めたのは昨日の晩だった。床板を外すことに苦心して、実際に掘り始めた時には真夜中を回っていた。

「まだ掘るのか?」

 寝ていると思っていた男に声を掛けられて、梓はビクリと肩を揺らした。一瞬だけ送った視線の先で、男はだるそうに目を細めた。からからに乾いた声は、小屋に紛れ込んだ落ち葉が立てる音に似ている。梓は男に向かって静かに肯いて、作業を再開した。

 湿った土の匂いが、梓に薄汚いプラケースを思い出させた。あれは何だっけ……と記憶の糸を辿り、ああ、ヤドカリの入ったプラケースだ、と思い出して小さく舌打ちをする。小学校……恐らく五年生か六年生の時だったから四・五年前のことになるだろう。下校中の道でカラフルなヤドカリが売られていたのだ。思い出したのは、そのヤドカリの入っていた、ところどころが緑色の薄汚れたプラケースであった。

 確か暑い日だったと思うが、暑いと思った記憶はない。


 いつもの通学路の一角で、子供たちが集まって何かを覗き込んでいる。

「ねえ。あれ、なんだろう? あーちゃん、いってみよう!」

 恵梨がランドセルをカタカタと鳴らして走り去るのを見て、梓は内心ため息をついた。梓は走るのが好きではない。かといって、遅いと文句を言われるのも面倒なので適当な速度で恵梨の後を追った。

「見て、あーちゃん、ヤドカリだって」

 恵梨はつま先立ちになって、子供で出来た垣根の中を覗いて言った。

「そうなんだ」

 身長の低い梓ではつま先立ちになっても見えないだろう。それにヤドカリなど別に見たくない。恵梨が早く飽きてくれればいいと人垣の後ろにぼんやりと立っていたが、子供たちは一人減り、二人減りして、とうとう最前列に辿り着いてしまった。

 すぐに座り込んだ恵梨の隣にゆっくりと腰を下ろして、梓もプラケースの中のヤドカリを見た。貝殻に油性インキで安っぽい模様を描かれ、カサコソと動き回っている。こんなものの何が面白いのだろうか。梓は顔あげてヤドカリ売りの老人を見た。

 老人の口は開きっぱなしだった。ヤドカリを売り込む声をあげるでもなく、子供があれこれ言っているのも聞かず、目を細めて遠くを見ていた。いや、目を瞑っているのかもしれないし、眠っているのかもしれない。開いたままの赤い咥内には歯がほとんどなかった。かろうじて残っている茶色く変色した歯も、もう少しで老人を置いていなくなるように思えた。

「あーちゃん、どうする? かう?」

 夢中でヤドカリを眺めていた恵梨が、梓を振り返った。

「あ、どうかな」

 梓は慌てて、汚いプラケースの中に目を落とした。カラフルな模様が描かれた貝殻を見ていた友人に、売り子の老人の抜けそうな歯を見ていたことがばれていないといいと思う。

「これ、可愛いよねえ」

 恵梨はひと際大きくて、真っ白な貝殻に入ったヤドカリを指さした。白い貝殻にはピンク色でお粗末なハートがいくつか描かれていた。

「どうしようかなあ。かおうかなあ」

 恵梨は指先でヤドカリを突きながら繰り返す。買う、なのか、飼う、なのか発音だけではわからない。小さいヤドカリは百円で、恵梨の気に入った大きなヤドカリは五百円だった。

 そうこうするうちに沢山いた子供たちは、一人、また一人と居なくなり、とうとう梓と恵梨だけになった。

「ねえ、あーちゃん。家に帰ってお金貰ってくるから、ここで待っててくれない?」

 恵梨は意を決したように言って立ち上がった。お金を持っていなかったのか、と梓は呆れた。自分が居ない間に売れては困るが、少し気味の悪い老人に「戻るから売らないでくれ」と言えなかったのだろう。暗に老人に念を押しつつ、売れぬよう梓に見張っていろと言うことなのだ。

「わかった」

 梓がその場に残ることを約束すると、恵梨は嬉しそうに走り去った。

 梓はもうとっくにヤドカリにも老人にも興味がなくなっていたので、老人とは少し離れたところに座り込んだ。誰かが来たら、行けばいい。

 俯いていると、ツツ、と汗が滴って、パタと道路に落ちた。アスファルトにぽつりと落ちた汗の染みの隣でアリが芋虫を運んでいる。芋虫はまだ生きていた。動いているように見えた。どうするでもなく、梓は芋虫と蟻に手を伸ばす。

「あんたあ」

 もがもがという声が聞こえて、梓は手をとめて顔を上げ、あたりを見回した。ずっと前を向いていたヤドカリ売りの老人が目を開いて梓を見ていた。白目は黄色く濁っていて、片方の黒目の中が白い。老人がそれきり何も言わないので、梓は芋虫に目を戻した。

「あんただあ」

 また声がして梓は顔を上げる。老人は今度は片手を梓に向けていた。だるまさんが転んだみたいだなあ、と梓は思う。最初はまっすぐ前を向いていて、次にはこちらを見ていて、今は片手が上がっている。

 その手がちょいちょいと震えた。うーごいた、と梓は心の中で唱える。老人は少し手の振りを大きくした。どうやら、来いということらしい。

 梓が近づくと、老人はプラケースの中に震える手を入れて小さな黄色いヤドカリをつまんだ。老人は実にモタモタと片手でPP袋の口を開けて、ヤドカリを入れる。袋に付いているピンク色のビニール紐を引いて、巾着のような形にすると、少し満足そうな顔をした。

「ほれ」

 老人にヤドカリの入った袋を差し出されて、梓は戸惑った。貰っていいのかということより、梓はヤドカリが欲しくなかった。それに、黄色は梓の嫌いな色だ。

「ほれ、あれが戻って来ちまう」

 あれ、とは恵梨のことを言っているのだろうか。確かにタダで貰ったことがばれたら面倒だ。恵梨はそういう気性の子なのだ。目を開けているのか閉じているのかもわからず、呆と口を開けていたくせに、ヤドカリ売りは子供のことをよく見ていたらしい。梓は仕方なく袋を受け取った。

 間もなく恵梨がのんびりと歩いて戻ってきた。手には炭酸水のペットボトルを持っていた。

「あれ、あーちゃんも買ったんだ」

 少し疑わしそうな顔で見られたような気がして、梓は、まあね、と適当な相槌を打つ。

「それにしたんだ。へえ」

 恵梨の声は「趣味が良くない」と言っているように聞こえたが、どうでも良かった。これが欲しかったわけではない。別にどのヤドカリも欲しくはなかった。

「これ、ください」

 そうして、恵梨はお目当ての、梓は欲しくもないヤドカリを手に入れて家に帰った。恵梨はPP袋を目の前に持ち上げてヤドカリを見ては「可愛い可愛い」と言い続けていた。

 セミが、激しく鳴いていたような気がする。

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