遣る瀬無い事故
遣る瀬無い事故
年が明けた一月四日の夕方。
「新年会をやりましょう」という部下達の誘いに、「先約が有るから」と断り、多治見は新宿駅から埼京線に乗り、三役会を行う蕨駅を目指した。
三役会は午後八時からで、まだ時間的には余裕はあるが、早めに現地へ行き初めて訪れる『蕨の街』を散策しようと思っていた。
電車内は三箇日を過ぎても、冬休みの所為か家族連れが多い。多治見が子供の頃と、大きく時代は変わったが、電車の中には和装に身を包む娘達の姿が、家族連れの間にちらほらと見えた。
それを見て何故かホッとし、まだまだ日本も捨てたものでは無い。昔の良き風習は間違いなく、受け継がれてきているのだと確信した。
赤羽で京浜東北線に乗り換えのため、一度階下に降り連絡通路に入る。
連絡通路――といっても、多数の商店が並ぶ地下名店街になっていて、美佐江と奈美が生きていれば、土産を探しに覗くところだが、今の多治見には、そういった小さな楽しみとも無縁になっていた。
多治見はその通路を乗り換え客の流れに合わせて通り、京浜東北線のホームの階段を登り始めた。
階段の中ほどまで来ると、ホームから呂律が回らない所為か滑舌も悪い、男の野太い大声が聞こえてきた。
「酔っ払いかな?ホームで騒ぐのは危ないな」
多治見は少し急ぎ足で階段を登りきった。ホームは電車を待つ客でそれなりに混んでいる。しかし階段を登りきった多治見の視界には、その大声の主は入らない。
階段を裏側に回ると、自販機の陰に三、四人の男が罵声を浴びせ合い、いがみ合っているのが見えた。
JRの二人の駅員が間に入り仲裁役をしていた。
「危険ですから、ホームでの喧嘩は止めてくだい!」
若い駅員が男達に言う。
「うるせぇ!てめぇも、こいつ等の身内か!」
どうやら一人の酔っ払いが、二人連れの男へ因縁を着けたらしく、二人連れの片方が、酔っ払いと一触即発の状態になっていた。
「何だ!」その男が酔っ払いに突っかかる。
「電車が入って来ますので危険です。さがって下さい。」
ホーム上にアナウンスが流れると、年配の駅員は息巻く男を抑え、もう一人の若い駅員は酔っ払いを抑えた。少しずつだが、二人は間を空け始めた。その時、ホームの先に電車が来るのが見えた。
「電車が入って来ますので危険です。さがって下さい。」
二度目のアナウンスが、大きな声で注意を告げると、ホームにいた人々の殆どが、電車に気を取られた。しかし酔っ払いだけが、電車に気が付かないのか、ヨロヨロと歩きホームの白線を越えた。
電車はブレーキを掛けてはいるが、教科書通り、ある程度の速度が乗ったままホームへ入って来ている。
瞬間、その酔っ払いはホームから姿を消した。そこに居合わせた誰もが『落ちた』と確信した時、電車は急ブレーキを掛けて、大きなキーと言う甲高い金属音を立てたが、無残にも間に合わなかった。電車はホームの中央付近でやっと停車した。
ホーム上に居合わせ、一部始終を目撃した者達は皆、各々に酔っ払いの死を連想した。多治見ですら、右手で両目を押さえ両肩を落とした。
若い駅員は慌てて電車に駆け寄ると、車輌とホームの隙間に向かって大声を張った。
「大丈夫ですか!」
ホーム上の人々は皆、静観していた。さっきまで怒鳴っていた男ですら、両目を見開き固唾を呑んで、呆然と突っ立ていた。
年配の駅員が若い駅員へ近寄り、一緒に声を掛けた。
「お怪我はありませんか!」
酔っ払いの安否を心配して、何度も声を掛ける。
多治見はゆっくりと車輌へ歩み寄ると、車輌と車輌の連結部から下を覗いた。
「警察と救急車を早く!」
多治見が若い駅員を見て言う。年配の駅員が多治見を見る。
「警察と救急車を!」
多治見は年配の駅員へ首を横に振り、同じ事を告げた。
若い駅員はその場で両膝を着き、右手で帽子を取ると、左手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回し「おー!」と声にならない、大きな泣き声を上げた。騒ぎを聞き付けた、別の駅員が五人程駆け寄ってくる。若い駅員を抱えお越しホームにある駅舎へ連れ込んだ。
「只今、当駅の京浜東北線下りホームにて、人身事故が発生いたしました。お急ぎのところ恐れ入りますが、他の電車又はバスにご変更いただけますようお願いいたします。」
ホームに同じ放送が何度も流れる。
怖いもの見たさで車輌に近付く者、SNSに上げようと写真を撮ろうとする者。全てを駅員が遮り、近付く人を車輌から遠退ける。それでも寄ろうとした若いカップルへ多治見が恫喝した。
「人が!今までここに居た人が亡くなったというのに、いい加減にしなさい!」
「てめぇ何様だぁ!」
カップルの女の方が逆切れして、多治見へ突っかかる。
「こういう者だ」と仕方無しに警察手帳を見せた。
「すげぇ。本物の警察手帳じゃん」
そういって携帯を多治見へ向けた。
「ふざけるな!公務執行妨害で連行するぞ!」
慌てて男が女の袖を掴み逃げ出した。
逃げてゆくのを見ながら「いったいどうなっているんだ。この末はどうなるのか不安だな」と愚痴が口を吐いた。
しかしそのカップルが逃げて行くのが切っ掛けになり、大勢のやじ馬も少しずつ減りだした。
幾つものサイレンが駅に近付き停まる。赤色灯が回っているせいか、ホームからは駅のロータリーが華やかに映った。
ホームは乗降客に警察関係者と、JR事故管理者などで、溢れんばかりの人間でごった返していた。
「こりゃ。バラバラだな。」
赤羽署の刑事らしき一人が、多治見が覗き込んだ車輌の繋ぎ目から下を見てぼやいた。
「それはそうだろ。電車に轢かれりゃ、手足どころか内蔵までぶちまける。全部を拾うのは大変だ。新年早々、厄日だな。」
同僚がうんざり顔で応える。
「だのに、死にたがりは電車に飛び込む。――まぁ、てめぇの死体など見る訳じゃないからな。」
「これは自殺ではありませんよ。」
二人の刑事の会話に、多治見が割り込んだ。
怪訝な顔で両刑事は多治見を睨む。
「あんたは?」
「新宿南署生活安全課の多治見です。」
警察手帳を見せながら身分を告げた。
「あっ。これは失礼をしました。」
恐らく二人の階級は巡査部長なのだろう。署は違うが階級の上下は不動であった。
「私用でね、偶然居合わせて」
人懐っこい多治見特有の言い回しで、二人の刑事は肩に入った力が抜けた。
「そうでしたか。事故とは?」
「あそこの二人の男」そう言って先程転落した酔っ払いと、口論をしていた男を指した。
「二人のうち背の低い方がね、転落した男とそこで揉めてさ。あっちの二人の駅員が仲裁に入って――」
今度は駅舎の入口に居る二人を見やった。二人の刑事がつられて駅舎を見る。駅長なのか、二人の駅員が説明をしているところが見えた。
「年配の方がそこの男を抑えて、若い方が転落した酔っ払いを抑えた。抑えられると、二人とも落ち着いたのか静かになったな。そこに、電車が来るというアナウンスが入って、若い駅員は白線の外側の客を見付けて、白線の内側に入るよう周りの客達へ声を掛けた。手を大きく振っているのが見えたよ。多分その時に、酔っ払いから手を離してしまったんだな。」
多治見は見ていた事を、細かく且つ手短に伝えた。
「酔っ払いはふら付いてはいたけど、一人で立っていたから、僕はもう一人の方が気になって、そっちへ目を向けた。僅か数秒だったと思うよ。彼はまだ気が治まっていないようだった。だけど、彼の驚く目を見てね。その先を見ると、酔っ払いが、ふらふらと白線の外に向かって歩いていた。危ない!って怒鳴ったけど、アナウンスや他の喧騒で声が届かなかった。」
多治見はやり切れないと、俯き首を振った。
「ホームから落ちて直ぐに電車が入ってきた。急ブレーキの音が聞こえたけど……。後は現状の通りだよ。」
「ありがとうございました。調書を取りたいのですが、ご協力願えますか?」
「用事が有るけど、僕も警察官だからね。協力するよ。でもその前に、約束の相手に遅れると連絡はさせてもらう。」
そう断ると携帯を出してメールを送った。その後多治見は、現場の捜査責任者という、赤羽署刑事課課長の室永と先程の二人の刑事に二人の駅員、口論をしていた二人の男と駅長の総勢九人で駅長室に入った。
別の捜査員がホームの防犯カメラを調べ、多治見や駅員、口論の男達から聞いた情報と照らし合わせ、事故と断定した。
その間もバラバラになった遺体の回収作業は進められていた。