09 美味しい食事④
「そうそう、アレルギーとか嫌いな物ないかしら?あれば厨房の方へ言っておくけれど」
「いえ、特にありません」
嘘ではない。美味しいかどうかは置いておいて、今までに食べられない物はなかったし。
両手に持つ湯呑の上のほうが少し冷えたことによりお茶の残りが半分以下になっていることを気づかされる
・・・・・これを飲みきったら庭に行く。その不安から無意識に湯呑を持つ手に力が入る。
「あら、偉いのね。うちの子なんてピーマンは嫌いだし人参も苦手なのよ。もう20歳なのに味覚が小学生みたいでしょ?」
「そう、なんですか」
「貴方を見習わせたいわ。あ、コーヒーも甘くしないと飲めないのよ?砂糖を3杯にミルクも入れるの。ほんとお子ちゃまよね」
自分の子に対しての言い様に思わず小さく笑う。こんなにも優しい女性なのに自分の子に対しては厳しいのだろうか。
湯呑の中身を口の中に流し、美味しいと感じる気持ちを楽しむ。
この感覚を忘れたくないので一口一口を身体に刻み付けるように、丁寧に胃に運ぶ。
「本当に、美味しそうに飲むわね。食事の時にも淹れてもらうように頼んでおくわ。林さんも喜ぶわよ」
「・・・・・ありがとうございます」
まだこのお茶が飲めるなんて、そう思うだけで心躍る気分になった。
この人はきっと福を呼ぶ人。
今日、ここに来て良かった。昨日、この人に電話をかけて良かった。昨日、ぶつかったのがこの人で良かった。眼鏡が、割れて良かった。
最後の一口を飲み干すと、さっきまでの不安が少し、ほんの少しだけ薄れた気がした。
「さあ、行きましょう。早く案内したくてしょうがないのよ」
「はい、楽しみです」
人をはっきり見ないようにすればきっと大丈夫。眼鏡がなくても今もこうしてこの女性と話していられるわけだし、マスクをして飴さえ口に入れていればきっと・・・・。
(あ、れ・・・・・?)
そういえば私、今口の中に飴がはいっていない。なんで、どうして、いつから?飴を舐めていなかったことに今まで気が付かなかったなんて。
私は飴を必要としていなかった・・・・?そんな事がありえるの?こんなに近くで人と話していたのに?最も苦手な一対一でいる時間だったのに?
そう気が付いた今でも、私は飴を必要としていない。
―――だって、全く感じないのだ。人に対するあの感情を・・・・・。
こんな事は初めてだ。今日はなんて素敵な日なんだろう。
女性と共に席を立ち、本当は必要ないけれど口の中に一つ飴玉を転がして、不安と少しの期待を持って女性に続いて部屋を出る。
ポケットにはいくつか飴を忍ばせて。
口に転がした飴も、今はなんだか美味しく感じた。
「飴、好きなの?よく食べてるわよね」
「えっと、はい」
好き、というか何か口の中に入れていれば誤魔化せる。それに一番都合が良いのが飴だったのだ。色々な味があるし、安くて持ち運びも便利。噛み砕くことでより一層、感情を誤魔化し気持ちを落ち着かせることができる。他のものも色々試したが、飴が一番だった。
「私も好きよ、虫歯になりやすいから控えているけど」
廊下を歩きながら女性と話をする。と、言ってもまともに人と言葉を交わしてこなかった私の会話能力なんて無いに等しいのだけど。
うまく言葉を返せない私に対して何度も言葉を投げかけてくれるこの女性は流石接客業と言ったところか。それともこの人だからなせる業なのか。
「そう、ですね。虫歯は嫌です」
こうしている今もあの感情を感じない。それがこんなにも嬉しいことで、安心することで、そして普通な事。あの美味しいお茶には魔法でも掛かっていたのだろうか。
「そうよね、まともに食べられないし、歯医者は苦手だし。どうもあの音と空間は落ち着かないわ」
「痛いですしね」
「そうそう、あれどうにかならないかしら。手を挙げても結局痛いのよね」
「ですね」
想像しただけでも痛い。コロンと口の中を転がる葡萄味に今日は念入りに歯を磨こうと誓った。
一階に降り、行きに来た道とは違う方へ進んでいく。いくつかの部屋を通り過ぎたそこには小さな中庭があり、綺麗に彩った紅葉と名前は分からないが緑の葉を付けた背の低い木がある。地面に置かれた様々な大きさの岩には美しく苔がついており、一際大きな岩の横には小さな池を跨ぐように赤い橋が架かっていた。
小さな中庭がこんなにも素敵なのだから今から行く庭はどんなに素敵なんだろうと、期待に胸が膨らむ。
「あら、あらぁ?」
ふと、独特の強弱のついた声が耳をかすめた。
「女将さぁん、その子ぉ」
やはり、独特な喋り方をする、少し高めの女性の声。
どうやら私達が居る方とは中庭を挟んで反対側に居たようで、そちらから徐々に足音が近づいてきた。
「あら、知り合いだったかしら?」
その女性は私達の目の前までやってくると足を止め、女将さんと言葉を交わす。話しぶりからするとこの二人は知り合いのようだ。この女性も従業員かなと思ったが、視界に私服と思われる膝丈の裾に白いレースが施された黒いスカートに黒いタイツの恰好が映り込みその考えはすぐに消えた。
(仲の良いお客さん、かな?)
「・・・・・知り合いじゃあ、ないわよぉ。まだ、ねぇ」
ねぇ?お嬢さん?と話を振られるもなんと返したらいいのか分からない。
「えっと・・・・」
「新しい従業員さん、かしらぁ?」
女性が再び女将さんに話を振る。なんだか不思議な空気を纏った女性だ。話し方のせいだろうか。
「違うわよ、私のお客さんなの。今から庭を案内する所なのよ」
「あら、あらぁ、そうなのぉ。お庭は素敵だもねぇえ。・・・・・・そう、今日、だったのぉ」
(・・・・・・・・・・?)
いまいちこの女性の話が分からない。それは女将さんも同じようで、今日・・・?何が?と言葉を発していた。
「これ、あげるわぁ?特別、おまじない付きぃ」
不思議な女性から差し出される何かを握られた手に思わず手をだし、受け取ると手の上で小さな巾着がチリンと音を立てる。巾着を縛る紐に小さな鈴が3つ付いていて、これが音の正体だという事がすぐにわかった。
「えっと、」
知らない人からいきなり物を貰うなんて、どうしたらいいものか。貰っていいのかな?そもそもどうしてこれを私にくれるのだろう?
「きっとぉ、大丈夫よぉ。貴方は善い子、だものぉ」
「良い、子・・・・?」
・・・・私が?この、私が?
良い子であるはずがない。そんな事、絶対に。
――――有り得ない。
「そう、善い、子」
受け取った巾着を強く握りしめると、ふわりとした香りが鼻を刺激する。マスクをつけているのに匂いを感じるなんて、余程強い香りなのだろう。
「良い香りね。それ、匂い袋かしら」
「そうよぉ、ワタシの特製ブレンドぉー。それじゃあ、邪魔してごめんなさぁいねぇ?」
そう言って女性は踵を返して中庭も通り過ぎ、建物の奥へと歩いて行った。
女性にお礼を、言いそびれてしまった。というか本当に貰ってよかったのだろうか。
「さ、行きましょうか」
そういう女将さんに続いて私も止めていた足を再び動かす。
「あの方はここの常連さんなのよ」
「そうなんですか」
やっぱり、といったところか。
とても親しそうに話していたし、かなり頻繁にここに来ているのだろう。
「彼女、少し怪しい感じがするけれど、とても優しい人よ」
「そう、なんでしょうか」
正直私にはよく分からない。この匂い袋はくれたけれどその理由は分からないし、意図も分からない。少なくともさっきの会話で優しそうとは感じなかった。
だけどきっと、この人が優しい人と言うのならそうなのだろう。あの不思議な女性の事は信用できないが、女将さんは信頼できる。そう思った。
まだまともに会話もしていないし、昨日会ったばかりの女性の事を信頼できるなんて、きっとこの人は私にとって特別な人間なのだ。
「足元、気を付けてね」
「はい」
女将さんにそういわれ、廊下にある小さな段差を二つ降りる。歩くときは足元ばかり見ているので女将さんに言われる少し前から段差には気が付いていたが、前を見て歩いていれば気が付かずにいたかもしれない。
知らずに通ってしまっても段差に驚くくらいで転びはしない程度の変化しかないが、気を付けるに越したことは無い。
段差を過ぎて、突き当りを右へ。
そこから少し歩くと左側に両開きの大きな扉が見えた。
扉の周囲の床は石畳で出来ており、廊下とは段差があることから、容易にここが旅館への入り口であることが分かった。
「この草履をどうぞ」
「ありがとうございます」
室内用のスリッパから下駄箱から出された履物に履き替える。本来は自分の靴で出ればいいんだろうけど、私の靴は裏口に置いてきたままだ。
「さ、どうぞ」
扉を開いてくれる女将さんに軽く会釈をして外に出る。
そこには色鮮やかな紅葉が広がっていて、どこからか水の流れる音も静かに聞こえてくる。
飛び石で出来た道も、宙を舞う紅葉の葉も、地面を彩る無数の色も、頬を撫でる風さえも、全てが美しく思えた。