07 美味しい食事②
自分の目元に手を当てるも、そこにあるはずの無機質な感触は存在しない。
前に向けていた視線を下げ、瞳に地面を映す。
手に汗が、にじむ。
「・・・・・・・大丈夫?顔色が悪いわよ?」
女性の声が頭に響き、その優しい声にはっきりと見えるはずの視界が歪む。
口の中で転がしていた飴玉を噛み砕き、頭を落ち着かせる。
「・・・大丈夫です」
新しい飴をポケットから取り出し、また噛み砕く。口の中で葡萄味と先程まで口にあったオレンジ味とが混ざり広がっていく。
「・・・・・・・・・・そう?」
どうしたら良い?この状況をどうやって切り抜けたら良い?どうやって家に帰る?
まず立ち上がって、この女性にもう一度謝って、散らばった荷物を袋へ戻して、それから、それから・・・・
アスファルトの地面が綺麗に映る。きめの細かい、濃い灰色と薄い灰色でできた粒の寄せ集め。
(そうだ、まずは眼鏡を)
視線を地面に向けたまま周りを見渡し、女性と衝突した際外れたであろう眼鏡を探す。
口の中の葡萄味の破片が全てなくなり、新しい飴玉を放り込む。もう飴の味など感じる余裕はどこにもない。
「これ、貴方のよね?」
少し女性の方に視線を向けると、こちらに何かを差し出している姿を視界の端になんとか捉える。 女性の方へ焦点を合わせるわけにはいかないので、手に持っているものが何なのか認識する事は出来ないがそれはきっと私の眼鏡だ。
「はい。ありがとうございます」
眼鏡を受け取る為、左手だけを女性の方へ向ける。かなり印象が悪くなるが仕方がない。
「ああ、でもそれ割れちゃったわね。申し訳ない事したわ」
女性から眼鏡を受け取り、確認すると右目側のレンズに大きなヒビがはいっていた。
どうしよう、視力が悪いわけじゃないし使えなくはないけれど。
これは元々見えなくするために掛けてる眼鏡だし、度があっていない事にヒビによる見えにくさが足され、さらに目が疲れやすくはなるものの機能面ではたいして問題がない。が、見た目に問題ありだ。割れた眼鏡を掛けて外は歩きにくい。
「いえ、私が急いでいたのが悪いので。こちらこそ本当にすいませんでした」
やはり、新しい眼鏡を買いに行かなければ。
当然だが、買いに行くとなると丁寧な接客を受けるので正直行きたくはないけどないと困る。
「怪我もしてないし大丈夫よ。それよりそれ、弁償するわ」
「いえ、悪いのは私です。弁償をして頂く必要はないです」
壊れてはいるが眼鏡が手元に戻った今、私のすることはただ一つ。一刻も早く家に帰ること。女性の申し出は有り難いがこのやり取りすら私には億劫に感じる。
眼鏡を掛け直し飴玉を口の中で素早く処理し、次は2つ口の中へ押し込める。
ただ、砂糖の安っぽい甘さだけが口の中を支配していく。
「そういうわけにも・・・こちらにも過失はあるのよ?前をよく見ていなかったもの」
「本当に、大丈夫ですから。必要ありません」
こんなにも感じの悪い人はそういないだろう。
私は、女性に目を向けることなく地面に転がった物を袋に適当に入れ立ち上がる。
もう印象などどうでも良い。どうせ二度と会うことのない人だ。
態度の悪い自分自身に言い訳をしながら、女性に背を向けすぐそこまで迫っている家へ足を向ける。
―――――――早く一人にならなくては。
「あら、待って。拾い忘れよ」
あぁ、なんて優しい声。
こんな態度をとっている私に怒りの感情を向けないのだろうか?
普通は腹立だしくなるものだ。今までの人がそうであったように。
そしてそれが当然の結果であることも分かっている。自分が招いている事理解しているし、冷たい対応をとられても傷ついたりなどしない、落ち込んだりなどしない、するわけにはいかない。
私が悪いのだから。
「はい、これね」
ありがとうございます。と女性に声を掛けてからオレンジ色の丸い物体を受け取る。これはきっとグレープフルーツだ。
「それとね、やっぱり何かお詫びをしたいわ。弁償がダメなら、そうね・・・」
「あの、本当に何も」
再び断りの言葉を発したが、そうだわ!と胸の前で手を合わせる女性の声に見事に遮られてしまった。
「私、旅館の女将をしているのだけど、是非遊びにいらっしゃいな。デザート付きで食事をご馳走するわ!うちの料理美味しいって評判なのよ」
「あの、」
「今日、は急いでいるのよね。明日とかどうかしら?忙しい?」
「いえ、あの」
「良かった!じゃあ明日、迎えに来るわ。これ電話番号ね、後で連絡してちょうだい」
着物に合った小振りな鞄から取り出された紙をほぼ反射的に受け取る。しっかりとした紙だし名刺、かな?
「必ず、連絡してきてね」
それじゃあ、失礼するわね。 と女性は去っていった。
静かに歩く女性の後ろ姿を見ながらやっと解放された、と安心する。
しかし、断りそびれてしまった。
行きたくないのならこのまま無視すれば良いだけの話。だけど少し、行ってみたいなんて思う私はどうかしてしまったのだろうか。
人混みが嫌いな私がこんな事思うはずがないのに。
――――いや、本当は人混みが嫌いなんて嘘だ。
人が、嫌いだなんて嘘。
本当に嫌いなのは、
人混みに居る 『私』
人と話している 『私』
人の臭いを感じる 『私』
人を見る 『私』
―――――人に対して、この感情を抱く 『私』
口の中でコロンと飴玉が動く。
あぁ、これはイチゴ味とメロン味だ。
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