元の世界へ
倫子は、目を覚ました。
何やら体が重い…頭もぼうっとしてはっきりしなかった。
目の前にあるのは、低い天井で、狭い部屋の中に居るようだ。起き上がって回りを見回してみると、小さなベッドの脇には自分のカバンが置かれてあり、中身は出していなかった。
まだはっきりとしない頭を振って床へ足を下ろすと、出入り口らしき方向からトントン、と金属を叩いているような音のノックが聴こえた。
「…はい?」
倫子は、自動的に応えた。すると、聞き慣れた声がした。
「倫子?朝ご飯だってさ、もうみんな食堂へ降りてるよ?」
倫子は、なぜか心の奥から歓喜の感情が湧き上がって来て目頭が熱くなった…訳がわからない。でも、あの声をとても嬉しいと感じる…。
「倫子?」答えが無いため、不審そうに相手は扉を開いた。「なんだ起きてるじゃないか。ほら、もう港に着いてるんだよ。朝ご飯を食べたらここからバスで俺達の最寄り駅まで送ってくれるって。急がないと。」
倫子は、なぜ流れて来るのか分からない涙を、とめどなく流しながら相手を見た。
「要…。」
要は、困ったように顔をしかめた。
「なんだよ夢でも見た?姉ちゃんもボケッとしてたけどもう食堂行ったよ。早くしなって。」
倫子は立ち上がった。
「なんでだか分からないけど、要の顔見たらすごく嬉しくて。」
要は、驚いたような顔をしたが、意地悪く笑った。
「なんだよ、倫子も?姉ちゃんもそんな事を言ってたな。悪いけどオレ、倫子は好みじゃないなー。年下の素直なかわいい子がいい。」
倫子は、途端に真っ赤になると、怒ったように枕を引っ掴んで要に投げつけた。
「悪かったわね!素直でもかわいくもなくて!」
要は盛大に声を立てて笑った。
「ハハハ!いつもの倫子になった!じゃ、待ってるよ。朝ご飯抜くならいいけど。」
要は、軽快な足取りで出て行った。倫子は、朝ご飯を抜くという選択肢は考えられないほどお腹が空いている自分に気付いて、急いで着替えると、食堂へと歩いて出て行った。
倫子も不思議だったのは、なぜか自分が今居る場所に違和感を持っていないことだった。
なぜか、知っている。というか、どうして思い出さなかったのだろう。
自分は、みんなと一緒に合宿へ行った。島全体に大きく建てられた豪華な宿舎で、毎日規則正しく起きて、食べて、寝て、そしてゲームをしたり、勉強をしたりした。厳しいと思っていたけど、とても楽しかった…そして、船で帰途についたのだ。
寝る前にも、船で散々はしゃいでいたのに。
倫子は、何か悪い夢でも見ていて、頭がはっきりしなかったのかも、と思い、表情を明るくしながら食堂へと足を向けた。
食堂へ入って行くと、自分の他の13人がもう座ってあっちこっちで朝食を摂りながら、話していた。倫子に気付いた洋子が、立ち上がって笑って手を振った。
「倫子!こっちこっち。準備しといたよ!」
倫子は、心の底から嬉しいと思って、満面の笑顔で小走りにそちらへ向かった。
「ごめんごめん、ありがとう!なんか寝入っちゃってた!」
政孝が、呆れたように言った。
「大丈夫?合宿でせっかく早起き出来るようになってたのに。帰って来たら元通りじゃ、どうしようもないな。」
倫子は、ばつが悪そうに肩をすくめながら、洋子と要の間に座った。
「物凄く疲れてたのか、ぐっすり寝てしまってたみたいで…。」
要が、口を尖らせた。
「倫子のとこのおばさんからよろしくねって頼まれてるのに。オレがおばさんに何をしてたんだって叱られるじゃないか。しっかりしてよね。」
倫子は、立つ瀬がなくてしょんぼりとしながらも、目の前のパンに手を付けた。
「ごめん…。」
すると、向こう側の端に座る優し気な雰囲気の女性が言った。
「もう許してあげて。ちょっと寝坊しただけじゃない。合宿が終わったのだから、気も緩むわ。ねえ倫子ちゃん?」
倫子は、その声にドキっとした。
美沙さん…そうだ、美沙さんだ。
穏やかに微笑んでいるその顔は、女の自分から見てもかなり艶やかで惹かれるものがあった。
回りには、この合宿中離れなかった京介や、何も言わないが美沙を守るようにそっと控えている慎一郎、それに隙あらばと狙っては話しかけている匠や大悟などが囲んでいる。
倫子も、穏やかで優しい美沙が大好きだった…はずだった。
それなのに、その顔を見て心の深くから嫌悪の感情が湧き上がって来る…どうなっているのか、自分でも分からなかった。
倫子がじっと黙ってしまったので、美沙が困ったように微笑んで言った。
「あら…ごめんなさい。何か気に障った?余計なことを言ったかしら…。」
すると、京介が嘲るような顔をして倫子を見た。
「ああ、気にすることないよ、美沙ちゃん。合宿の間散々的外れなことしてた子なんだ。気遣って声を掛けたってそれが分からないんだよ。」
それには、要が言った。
「倫子は馬鹿だけどそこまで馬鹿じゃないよ。別に黙っただけじゃないか、そんな言い方しなくても。」
美沙も、咎めるように京介を見て言った。
「そうよ。そんな風に他の人を貶めるようなことを言うのは良くないわ。」と、立ち上がった。「慎一郎さん、そろそろ荷物を下ろさなきゃならないし、手伝ってもらっていいかしら?」
慎一郎が、頷いて立ち上がる。しかし、京介も立ち上がった。
「美沙ちゃん、荷物ならオレが運ぶよ。」
だが、美沙は首を振った。
「ああ、いいの。慎一郎…さんに運んでもらうわ。だから気にしないで。」
美沙は、さっと歩いて出て行く。その後ろを、慎一郎もついて出て行った。京介は、呆然とそれを見送って立ち尽している。
匠が、ふふんと笑った。
「あきらめろって京介。美沙さんは慎一郎に気を許してるみたいだぞ?それに、オレにもよく話してくれてたし、お前のことは迷惑そうだった。あんまり追われるのは、得意でないそうだ。まあ、あの雰囲気ならモテて仕方がないだろうからな。」
京介は、フンと横を向いて吐き捨てるように言った。
「うるさい!同じ大学の違う学部に居るって分かったんだ、これからだって訪ねて行くぞ。」
匠は、それこそ呆れて隣の大悟を見た。大悟は首を振った。
「しつこくしたら余計に逃げられるのに。」
京介は、側の椅子をガンと蹴飛ばして出て行った。匠は、ため息をついて皆を見回した。
「さあ、じゃあもう船を降りよう。バスはもう待ってくれてるんだ。これ以上待たせるのも悪い。名残惜しいが、もうお開きにしよう。」
みんなが、バラバラと立ち上がる。
杏子が、ゴムまりのようにぴょんぴょんと跳ねるように進みながら満面の笑顔で言った。
「あー楽しかった!ねえ、またこのメンバーで合宿とかしない?キャンプとかでもいいし!」
結がノリノリで手を叩いた。
「賛成!バンガローとか借りようよ!グランピングでもいいなー。」
みんながそうやってにぎやかに出て行く中、それでもじっと椅子に座ったままの倫子の肩に、要は手をぽんと置いた。
「なんだよ倫子、オレはああは言ったけど感じ悪いぞ。何を機嫌悪くしてるんだよ。さっさとそれ持って下船準備しよう?」
洋子が、気を遣って倫子のトレーの上のサンドイッチを紙ナフキンで包みながら言った。
「さ、行こうよ倫子。疲れてるんだって。またバスの中で寝たらいいから。」
倫子は、その声にハッと我に返ったような顔をした。
そして、洋子の顔をまじまじと見たかと思うと、フッと表情を緩めた。
「そうね…ごめん。何か疲れてるのね。休んだら良くなるよ。」
洋子は、ホッとしたように微笑んだ。
「うん。さ、行こう。」
洋子が包んでくれたサンドイッチを手に立ち上がった倫子は、その扉から出て遠く通路を歩いて行く美沙の姿を、じっと追っていた。
その目には、憎しみの光が一瞬よぎったが、洋子や要がそれに気づくことは無かった。




