抵抗
「真司さん!」
美沙は、食堂で朝食を乗せたトレーを前に、立ち上がった。
真司が、穏やかに微笑んで食堂へと入って来ると、近づいて来て言った。
「美沙ちゃん、元気そうで良かった。オレ達のために慎一郎と頑張ってくれたんだってな。」と、座ろうとして顔をしかめた。「…まだあちこち痛むがまあ、命に別状はない。博正が行くと言って聞かないし、オレも自分達のために行ったんだと思うと放って置けなくて一緒に来たんだ。」
美沙は、涙ぐんで頷いた。
「ヒトだったら助からなかったわ。ヒトで死んでた方がまだ助けられるとジョンは言っていたけど、狼の状態でなかったらあんなに素早く車から脱出できなかったでしょうし、それに頭を傷つけてたかもしれないもの。」
真司は、頷いた。
「確かにいくら人狼でも全身がつぶれたり、頭が損傷したら再生が難しいものな。」
船窓の外では、景色が穏やかに流れていた。といって、どこまで行っても海なので、はっきりと分かるわけではなかったが、それでもこの船のエンジンが低い音を大きく立てているのが聴こえるので、順調に進んでいるのだろう。
慎一郎が、真司の前にも朝食のトレーを置いた。真司は軽く会釈して、それに手を付け始めた。
「それにしても、今回は傷が少なくて助かったと作業員が言っていた。毎回襲撃ではオレ達と同じ人狼が噛みつくからどうしても刃物のようにきれいな傷にはならないだろう。今回は全部刃物で一突きだから、傷何てほとんど残ってないんだ。まるで何かで引っ掻いたぐらいで、それも数日で消えるだろうとのことだ。」
博正が先に朝食を平らげて、トレーを横へと押しやりながら言った。
「傷が残ったら他の言い訳を考えなきゃならないから、面倒なんだ。あいつらも、人狼化させるのは、もうやめたらいいのに。」
美沙は、眉を寄せた。
「あのゲーム自体をやめさせたいわ。何も知らないと本当に怖いもの…分かるでしょう、博正。」
博正は、肩をすくめた。
「さあ?オレは最初から人狼だったし。少なくても襲撃の怖さってなかったからな。真司がいろいろ教えてくれたから、そんなものかと事態を受け入れた。怖がっても、何も変わらないんだからさ。」
確かにそうだが、普通はそんな風に考えられないものなのだ。
美沙がそう思って黙り込むと、作業員の一人が駆け込んで来た。
「一人が目覚めそうです!袋の中で動いていて…」
美沙と慎一郎は、視線を合わせた。それは、多分…。
「…行くわ。」
美沙は、立ち上がった。慎一郎もそれに続く。博正と真司は顔を見合わせて、黙って立ち上がると、その後を追った。
作業員について降りて行くと、あの船底に見えた奥の、倉庫のような暗い部屋だった。
一緒にゲームをしたあの仲間達は、まだまるで物のように袋に入れられたままそこに置かれたままだ。今は昏睡状態で、少しずつ穏やかな睡眠へと変わって行くはず。
そして、まるで何事も無かったかのように、偽の刷り込まれた記憶を持って目を覚ますのだ。
どちらにしろ、急には無理なので、まだどの袋もピクリとも動かなかった。
だが、たった一つ、「5」と刻印された袋だけが波打ち動き、ファスナーを引っ掻いているようなカリカリと音を立てていた。
「だ、誰か!」中から、くぐもった女の声がした。「誰か!ここから出してください!」
激しく暴れたため、入っている袋がバランスを崩した。そして、うつ伏せに床へと落ちた。
「誰か!」声は必死に叫んでいる。「出して!」
美沙は、ため息をついた。
「倫子ちゃんね。」
抑えた、小さな声だ。慎一郎は、もうそばの台から注射器を出して、側の棚から小さなガラス瓶を引っ張り出し、そこへ注入している。
「こうなるのは分かっていたことなので。さっさとやってしまいましょう。何度も繰り返していたら、明日には馴染みます。どうせヒトなのだ。」
慎一郎は、ひっくり返った袋を上に向けて、そして真ん中にある大きなファスナーへと手を掛けた。
そして、一気に半分まで袋を開くと、中から倫子が、驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
「え…」
そう言ったきり、呆然と目の前にいる慎一郎と、そして美沙、背後に離れて立つ博正と真司へと視線を移動させた。
無理もない…今頭の中が混乱しているのだろう。
美沙がそう思って見ていると、倫子は美沙へと視線を戻して、まだ呆然としながらも言った。
「美…美沙…さん?私達…勝った…の?」
相手は、顔をしかめた。
「…そう。あなたこっち側の人なのね。でも仕方がないわ。運が悪かったと諦めて。」
博正が、それを聞いて言った。
「こればっかりはくじ運だからな。だが、知らない方がいいこともある。」
その隣の真司が、落ち着いた様子で頷いた。
「むしろ幸運だ。こんな所へは、来ない方がいい…」
倫子は、混乱したような顔をしながら更に言葉を口にしようとする。だが、慎一郎がその腕を掴んでサッと注射器を突き立てた。
びくっと腕を退こうとしていたが、一瞬で注射器は空になる。見る間に倫子の目は濁った。
「ああ…そうだったの…!あなただったのね…!」
倫子は、美沙を睨んだ。だが、美沙は無表情に倫子を見て、何も答えなかった。どうせ、何もかも忘れる。あなたは、人狼ではない。私達のように、本物の人狼になってしまったわけではない。ただ体質が似ているだけで。薬が、効きにくいだけで…。
美沙が答えないと見ると、倫子の視線は周りにあるたくさんの袋へと向いた。
恐らく、今までのことを思い出しているのだろうどう戦って、どうやって負けたのか。
だが、それもまた消えて行く記憶よ。
美沙は、心の中でそう言い、慎一郎に頷きかけた。
慎一郎は、ぐったりとしてピクリとも動かなくなった倫子を袋の中へと戻すと、倫子以外の者達を部屋へ移すように作業員に指示をして、倫子の再洗脳の準備に取り掛かったのだった。
暗い顔で階段を上がって行く美沙の後から追いついて行きながら、博正が言った。
「美沙、君のせいじゃない。あの子はむしろ幸せだよ、これを全部忘れてしまえるんだから。オレ達だって、出来たらすっぱりあいつらと手を切りたいほどじゃないか。」
美沙は、自分を気遣ってくれる博正に、無理して笑って見せた。
「わかってるわ…あの子達が、笑って私に話しかけて来たって、同じ気持ちになるのよ。すっかり頭の中を変えてしまってるのにね。あの子の憎しみに満ちた目を見た時、案外ホッとしたの…本来、ああして見られるべきなのよね。そういうことをしてるんだもの。」
真司が、ため息をついた。
「美沙ちゃん、こんなゲームをさせるあいつらが悪いんだ。オレ達は悪くない。むしろ被害者じゃないか。最初は死ぬわけには行かないと必死だったし、今回はオレ達の命のために戦ったんだろう。勝者が居るんだから、どこかに敗者が居る。それは当然のことだ。あの倫子とかいう子は、君がどんな立場でどんな気持ちでみんなを騙していたか知らないから、あんな目で見たんだと思う。自分を責めるんじゃないよ。」
美沙は、それを聞いても自分の中の罪悪感は消せなかった。それでも二人が心配そうに自分を見ているのを見て、とてもこれ以上自分の気持ちをぶつける気にはなれなかった。
なので、黙って頷いた。
明日の朝には、何事も無かったかのように皆と接する心積もりはしっかりとした。だが、これからも自分の中に残り続ける皆を裏切った記憶は自分を攻め続けるのだろうと美沙は思っていた。




