条件
研究所へたどり着いた美沙は、スクーターも放り出して入口へと走った。
ここの入口は、わざとわかりづらい場所にある。関係者以外は、簡単に入って来れなくするための措置だった。
この規模の建物にしては小さすぎる入口に到着すると、自分のIDをまどろっこしげにポケットから出して通して、網膜照合を受けると、ピーと音を立てて扉は開いた。
『海野美沙様。いらっしゃいませ。』
美沙は、そのコンピュータが言う形式的な声を無視して、勝手知ったる研究所の中を、自分達の研究室へと向かって走って行った。
途中何度もセキュリティーチェックをパスして駆け込んだ薄暗い部屋では、白髪交じりのがっしりとした体形の男が座って、向こう側の壁全面にあるガラスの方を見ていた。ここの研究者達は大概がこういった場所で、ガラスの向こうに居る検体を観察してデータを取って研究を進めている。しかし、ここのガラスの前のカーテンは、今は閉じられていた。
相手は、言った。
「来たか。やはり野生の勘が働いたのかな?」
美沙は、ぜいぜいと息を上げながら言った。
「ジョン!あなた、あの二人がどうなったか知ってるの?!あの事故は、あの二人だったの?!」
ジョンと呼ばれた男は、こちらを振り返った。美沙はその顔を睨んだ…ジョンとは呼んでいるが、絶対に本名ではない。そもそもここの研究者達はみんな、ジョンやスミス、ジムなどどこででも聞くような名前ばかりなのだ。その上、どう見ても日本人の容姿なのにだ。
しかし、このジョンという男がそこそこの地位で、自分達の担当であることは知っていた。
ジョンは、睨む美沙に微笑んだ。
「すぐにヘリでこちらへ運んだ。あの二人は落ちる時、細胞の配置を換えて狼になった状態で車から飛び出したようだ。見つけた時には木であちこちを切って傷だらけで、瀕死の重体だった。」
美沙は、ずいとジョンに近寄った。
「それで?!もう問題ないんでしょう?それでなくてもあの二人は急速再生能力があるし、狼だったんだもの!あなたなら、一瞬で元通りなのではないの?」
ジョンは、困ったように笑った。
「そこまで信頼されているとは光栄だが、私達の能力はヒトに特化しているのでね。まだヒトとして死んでいてくれ方が簡単だった。彼らは狼で瀕死だったのだ。狼に対するデータはあまりない。治療はしても無駄ではないかというのが大半の意見で、今は皆で観察しているだけだ。」
美沙は、目を見開いた。そんな…治せないと言うの?!
「出来ないなんて…まさかあなたが出来ないと言うのではないでしょうね?!」
ジョンはさも残念そうに顔をしかめた。
「もちろんそんなことは言いたくないが、今のままではな。無駄なことをするほど暇ではないのでね。特に今は、そろそろ新しいゲームを見せろとうるさいクライアントにせっつかれていて、私も準備に忙しいのだ。なかなかに人が集まらんしな。」
美沙は、ジョンに詰め寄った。
「無駄だなんて!あの二人はあなたにとっても貴重な検体なんでしょう!死んでもいいの?!」
ジョンは、ふーんと手で顎を触った。
「そうだな…では、こうしよう。」と、腕を前で組んだ。「今、ゲームの準備をしているんだ。しかしまだ5人しか集まっていない。しかも、みんな十代だ。もう少し成人した検体も欲しいと思っていてね。君の大学で、あと7、8人集めてくれないか。そして君自身も参加して、それで生き残って来れたら治療しよう。なに、あの二人ならあと一週間は放って置いても生き延びる。水分の点滴だけはするようにしてやろう。」
「な…っ?!」
美沙は、絶句した。また、またあの建物へ行けと言うの?!あの、悪夢のようなゲームをしろというの?!
ジョンは、笑って立ち上がった。
「君たちをその体にしてやったのは私達だ。それを戻して欲しいと言うからこうして協力している。それに対する対価も払ってやっている。それ以上、この最高レベルの技術を我々に使わせる権利が君にあると言うのか?いったい自分がどれほど我々に貢献してくれたと言うのだ。ただ存在しているだけじゃないか。これからも研究を続けるためにはクライアントを失うわけにはいかない。今現在金には困っていないが、それでもコンスタントな寄付が有り難いのは変わりない。ならば君が、クライアントの機嫌取りぐらい、してもいいのじゃないかね?」
美沙は、ぐっと黙った。元はと言えば、クライアントの緊急事態にどうあっても死ぬことがないように、死んでも再生できるようにと、研究をしている機関だった。当然のこと顔も見たことも無いクライアントたちは、社会的にもかなりの地位に居り、そしてかなりの金額をここへ落としていた。
そんな者達のために存在するここが、研究の過程でたまたまやってみた実験で生み出された自分達のために、何かをしてくれるということを、期待することが自体が間違いだった。
すると、横から黒髪の若い男が出て来た。美沙は、そちらを向いた。
「慎一郎…。」
慎一郎は、ジョンの前に出た。
「オレも、美沙さんと一緒に行きましょう。真司さんと博正さんには世話になっている。死なせたくないのは、オレも同じです。」
ジョンは、慎一郎の方を見て、片方の眉を上げた。
「君も行くのか?なら、おもしろいことをしよう。」ジョンは、自分だけが分かるおかしみと戦って、こらえきれずにククッと笑った。「人狼の君達が、狐となって村人と戦う。こんなに面白いことはないだろう。ああ、ならば今回は細胞の組み換え用の薬品投与は出来ないな。人狼は仲間の人狼を匂いで認識する。君達に分かったら、相手の人狼もやりにくかろう。何より、ゲームにならない。じゃあ今回は、ただの娯楽と扱うか。」
美沙は、ジョンを睨んだままだった。
「…本当に、それで勝ったら二人を治療してくれるのね?」
ジョンは、頷いた。
「約束しよう。私は約束は守る男だ。知っているだろう。」
確かに、ジョンは腹が立つ男だが、一度約束したことは必ず守った。美沙は、頷いた。
「やるわ。」
ジョンは、頷いた。
「決まりだ。では、まずはそれと分からないように大学から数人の確保を。君は表だって出ない方がいいだろう。必要ならこちらが手を回そう。」と、慎一郎を見た。「君も物好きだな。だがおもしろそうだ。」
ジョンは楽しげだが、美沙は必死に言った。
「でも、その前に二人に会わせて!どうしているのか…」
ジョンは、窓のカーテンへ寄った。
「会わせるのは無理だ。今無菌室で隔離して観察しているところだからな。」と、カーテンを掴んで、引いた。「だが、見せてはやろう。」
美沙は、ガラスに張り付いて下を見た。
狼の姿になって傷だらけの博正と真司が、並んでただ、台の上に乗せられ、観察されている。
普通の狼でないのは、その大きさでわかった。二頭は、体長が180センチほどあるからだ。
腹が速い速度で上下している。浅い呼吸であるのが分かった。意識は完全に無い…口が開いて、舌がだらんと出ていた。
「ああ…博正、真司さん…!」
美沙の姿の輪郭が、一瞬ざわざわと沸き立つように崩れた。慎一郎が、慌てて駆け寄って来て、美沙の肩をしっかりとつかんだ。
「美沙さん、しっかりしてください!正気を失ってはいけない!」
美沙は、涙を流しながらもハッと我に返った。そうだった…私は我を忘れている場合じゃない。二人を助けるために、あの騙し合いを勝ち抜かなければならないんだもの…。
「…ごめんなさい。慎一郎、手伝ってくれる?早く参加者を探さなきゃ。」
慎一郎は、真剣な顔で頷いた。
「オレの研究室で、適当な奴を見繕うから大丈夫です。足りない分は、前の参加者で比較的薬の効きが良かった人を選んで巻き込みましょう。」
ジョンが、何やら指示を出している。ガラスの向こうでは、防護服に身を包んだスタッフ達が、奥から点滴のパックを持って出て来て対応している。
美沙は、ジョンを見た。
「ジョン、あなたの言うように人を集めるわ。こちらで決めたら後は何とかしてくれるのでしょう。」
ジョンは、美沙を振り返って頷いた。
「好きするといい。あの島の建物に行くことになる。うちの専用機を出すつもりでいるので、人数さえ集めたらこちらで段取りを組もう。後で詳しいことは連絡する。」
美沙は頷いて、もう一度ガラスの向こうの二人を見た。点滴をされている…私達は、簡単には死なない。自己修復能力があるからだ。どこまで出来るか分からない。それでも、この能力に賭けるしかない。
「…二人をお願い。」
美沙はそう言い置くと、慎一郎と共にそこを出て行った。




