合宿
鈴木倫子は、高校三年生だった。
部活も終わり、楽しいことの全てが終わったような気がしていた頃、大学受験に向けての最終決戦が始まった。回りの友達も軒並み必死に勉強する中、倫子は自分のこれまでの怠慢を恨んだ…思えば、これまで部活と遊びだけで、欠点ぎりぎりで来てしまっていた。
三者懇談では担任からその事実を親に告げられ、親は大丈夫大丈夫と言い続ける娘の言葉を信じて来たのを後悔した。
そして、一枚の広告を目にするのだ。
「ほら、これ。」
母親が、倫子にカラーで刷られたA4の広告を差し出した。夏休み前の懇談が終わってこっぴどく叱られてから、倫子は遊びに出掛けることも出来なくなっていた。
「何、予備校?」
倫子は気のない素振りでその広告を受け取る。夏休みが始まって一週間が経つのに、友達にも会えていない不満を表す精一杯の態度だった。
しかし、母親は気にする様子もなく言った。
「普通の予備校じゃないわ。立原さんが教えてくれてね。あなたと同じ部活の洋子ちゃんのお母さん。あの人も娘のことで悩んでるって聞いて、相談し合ってたから。ネットでも調べたんだけど、必ず結果に結びつく勉強をさせる所よ。何でも二週間びっちり籠って、そこでしっかり躾けるんだって。基本的な生活習慣から改善して、学習習慣をつけるための合宿をするのよ。」
倫子は、盛大に顔をしかめた。つまりは、矯正施設みたいな場所ってこと?
「どうしてそんな。私、自分で勉強出来るわ。」
それを聞いた母親の顔が、見る見る鬼の形相に変わった。倫子は、やばいと身を縮めた…言い過ぎたかしら。確かに、勉強出来なかったから今があるんだし、でも、しようと思えば出来るはず…。
母親は、そんな倫子の目の前のテーブルを思い切り叩いて言った。
「よくそんなことが言えるわね!この一週間、昼近くになるまで起きても来ないあなたが!普通の予備校じゃ無理だってお父さんとも話してたのよ。あなたはその、何とかなるとか思ってる甘い所を叩きなおさなきゃ無理だって!」
倫子は母親を睨んだ。確かに何とかなると思っていて公立高校は落ちて私立高校の二次でやっと受かって進学した。でも、それでも何とかなった。
だから、次も何とかなると思っていたのだ。
「高校だって何とかなったじゃない!大学だって平気よ!」
母親は、ぶんぶんと首を振った。
「あなたね、どれだけお金がかかったと思ってるのよ!何とかしたのはお父さんとお母さんよ!でも、大学はそんなわけにはいかないの。」と、母親は急に肩を落とした。「その後就職だってあるのよ。あなた、それを勝ち抜いていける?これからのためにも、その甘い考えを叩きなおしてもらわないと、あなたのためにならないと話し合って決めたの。あなたには、どうあってもこれに行って来てもらうわ。」
倫子は、もう決定事項なのかと慌てて立ち上がって首を振った。
「明日からはちゃんと起きて勉強するわ!こんな合宿なんて行きたくないわよ!」
母親は、ふいと横を向いた。
「もう申し込んだわ。定員10人だって書いてあるし、急がなきゃ入れなかったのよ。だって、立原さんは洋子ちゃんと要くんも申し込んだって言うんだもの。」
洋子は、倫子の友達だった。要はそのすぐ下の弟だ。だが、要は…。
「え、だって要は公立の進学校行ってて、こんなの必要ないのに!」
母親は、二階へと繋がる階段へと向かいながら言った。
「面白そうだからついてってやるって言ったんだって。いい子よね、要くんは。とにかく、来週の月曜よ?そこに書いてあるもの揃えてバックに詰めておきなさい。」
そんな一方的な!
倫子は、必死に叫んだ。
「そんな、お母さん!」
しかし、倫子の叫びは届かなかった。
当日、言われた通り空港へと向かい、第一ターミナルの一番東の入口横へと到着した。
洋子は、むっつりと黙っている。ここまでのバスの中でもこうだった。どうやら、あっちの家庭でも母親と言い合いになったらしいが、要が割り込んで来て一緒に行ってやるから行け、と言われ、来ることになってしまったらしい。
要は、一つ年下とは思えないほどしっかりしていた。背は倫子と同じぐらいで男子の中では決して大きい方ではなかったが、まだ高校二年なので恐らくまだ伸びるのだろう。
まだ幼いような感じの残る顔はとても可愛らしく見えるのだが、なかなかどうして要は大変に策士だった。
小学生の時から要を知っているが、それは頭が良くすばしこいのだ。回りを上手く言いくるめて自分のいいように動かしてしまう能力は、倫子も一目置いていた。
そんな要は、今日もここまでの道のり、ずっと倫子と洋子を先導して連れて来てくれた。迷いもしなかったので、集合時間より30分も早く到着してしまったぐらいだった。
じっと黙っているのも気づまりなので、倫子が言った。
「ちょっと早すぎたみたいだね。まだみんな来てないみたい。」
要が、倫子を振り返って頷いた。
「こういうのって最初から躓いたら目を付けられてずっといちゃもんつけられたりするから。早めに来て、待ってるぐらいがいいんだよ。だって、生活習慣を正す合宿なんでしょ?きっと厳しいよお。楽しみだな。」
倫子は、呆気にとられた。厳しい合宿を楽しみなんて。
「要、あんただって例外じゃないんだからね。同じようにビシバシやられるんだよ。あっちから見たら、いくら進学校で主席でも、この合宿へ放り込まれた出来ない子って思われるんだからね。知らないんだから。」
要は、ふふんと笑った。
「知らないの?オレ母さんが書いてたエントリーシート見て知ってるけど、あっちはすごく細かい所まで書くように指示しててさ。倫子だって姉ちゃんだっていろいろ知られてるのは覚悟しといた方がいいよ。オレは体力が無いから、そっちで鍛えられるかもしれないなーとか思ってるんだけどさ。鍛える機会が無かっただけだし、この際そっちの方法教えてもらえるからいいかなって。」
倫子は、肩を落とした。じゃあ、自分は絶対朝から晩まで勉強だ。何しろ、そんなことはしたことがない。出来ないからだ。
倫子が答えないので、要が遠く何かに気付いたように視線を移した。そして、小さく呟くように言った。
「あ…きっと、誰か来た。」
それを聞いて、倫子も洋子もそちらを振り返った。歩いて来たのは、背が高くすらりとした体つきの、髪は短く刈り込んだ男と、日に焼けた小柄な女だった。二人とも、明らかに年上の風情で、こちらの三人にはそれが合宿の参加者なのか、関係者なのか判断がつかない。
じっと待っていると、二人は三人に近づいて来た。
「ええっと、一通り暗記はして来たよ。鈴木倫子さんと、立原兄弟だね?」
男の方が言う。三人は、慎重に頷いた。
「はい。先生ですか?」
相手は、笑って手を振った。
「ああ、いやそうなるのかな。でも、オレもバイトでね。ここから合宿場所までの引率と、あちらでの相談役。」と、日本人らしくなく手を差し出した。「柳京介だ。よろしく。」
それには要が、すっと手を出して握った。
「よろしくお願いします、柳先生。」
京介は、ハッハと声を立てて笑った。
「いやあ、オレも学生なんだよ。大学四回生。卒業後は起業しようと思ってるから、その資金集めさ。京介って呼んでくれ。」
そう言いながらも、まんざらでもないようだ。隣でなぜかびくびくとしている、女の方が言った。
「あの…私も引率のアルバイトに来ました。伊藤杏子です。大学三回生なの。」
そう言っている間も、何かに怯えているようだ。三人が不思議そうに杏子を見ていると、京介が肩をすくめた。
「なんかね、オレに会った時からこんな感じ。なんか会ったことがあるような気がするって言って。オレも見覚えあるような気がしてたんだけど、気のせいかな。大学も違うしね。」
杏子は、身を縮めるようにして、頷いた。何が何だか分からない間にも、回りに人が集まって来ていた。同じぐらいの年恰好の者も居れば、ずっと年上のような感じの人も居る。
ひとあたり自己紹介を終え、集合時間まであと五分になろうかという頃、一人の女が歩いて来た。
その姿を見て、皆が息を飲んだ…驚くほどに、しなやかな動きで、色香の漂う雰囲気の持ち主だったからだ。
「皆さん、お待たせしました。私が、引率のリーダーをさせて頂く、田代美沙と申します。」