プロローグ
倫子は、目を開いた。
波の音が聴こえる…しかし、何かに揺られている感覚の他は周りは真っ暗で、何も見えない。
自分がどうしてここに居るのか、今がいつで何が起こっているのか、倫子の頭は全く情報をくれない。
視覚すら奪われている状況で、ぼんやりとこのまままどろんでいたいような気だるさを感じていたが、倫子の中の何かがふと、小さく叫んだ。
『危ない』
途端に我に返った倫子は、重い体を起こそうとして、柔らかい物に押し返されたのを感じた。その時冷たい金属のような物が頬に当たり、そっと手を伸ばしてそれに触れてみた。
…ファスナー?
かなり大きなものだ。
手でその金属を辿って行くと、それは足の方へとずっと続いているようだった。
混乱した頭で必死に考えながら、手で闇雲に辺りを探ると、細長いビニールっぽい袋のようなものに入っているのが分かった。
まるで、寝袋の中みたい。いや、この冷たいような感じは映画で見た死体袋みたい…。
そう思い至った時、倫子の背中にすーっと冷たいものが流れた。
もしかして、死んだと思われたの?でも、どうして?
一刻も早く、ここから出なければ。
倫子はファスナーの場所を探った。どこかに、開く場所があるはず。どこ?どこなの?
だが、焦る倫子の指は虚しくファスナーを引っ掻いてカリカリと音を立てるだけだった。
「だ、誰か!」倫子は、叫んだ。そこに、誰か居るかもしれない。「誰か!ここから出してください!」
激しく倫子が暴れたため、倫子が入っている袋がバランスを崩した。どうやら、何かの台の上に乗っていたらしく、くるりと転がって落下するのを感じた。倫子は咄嗟に受け身を取ったが、それでも肩と腰を硬い床にに打ち付けた。ファスナー部分が床の方へ向いて、倫子はうつ伏せの状態になってしまった。
「誰か!」倫子は必死に叫びながらもがいた。「出して!」
何が起こっているのだろう。
ここへ来るまで、自分が意識が戻る前のことを思い出そうと倫子は必死に眉根を寄せたが、浮かんで来るのは何か大勢での食事や談笑、それなのに緊迫した空気、そんなものの断片的なぼんやりとした映像だけだった。
尚ももがいていると、突然に袋がぐいと上向けに回転したのを感じた。
いきなりの変化に倫子は体を硬くする。何も見えない…今、どうして袋が回転したのだろう。
すると、倫子の頭の上の方で金属が擦れるような音がして、急に視界が開けた。
「え…」
倫子の目の前には、男が一人、膝をついた状態で倫子を覗き込んでいた。薄暗いその中でその向こうを見ると、そこには女が一人、男が二人立ってこちらを見ている。倫子は、その女の冷たく見下ろすその瞳に見覚えがあった。
「美…」倫子は、自分でも思っていないのに口から言葉が勝手に出た。「美沙…さん?私達…勝った…の?」
相手は、顔をしかめた。
「…そう。あなたこっち側の人なのね。でも仕方がないわ。運が悪かったと諦めて。」
横に立つ背の高い男が、肩をすくめた。
「こればっかりはくじ運だからな。だが、知らない方がいいこともある。」
その隣の、驚くほど落ち着いた風情の男が頷いた。
「むしろ幸運だ。こんな所へは、来ない方がいい…」
倫子が混乱しながら質問を口にしようとすると、腕にちくりと痛みが走った。ビクッとして手を退こうとしたが、ファスナーを開いてこちらを覗き込んでいた男がしっかりとその腕を掴んでいて、逃れることが出来ない。見ると、倫子の腕には細く小さな注射器が突き立てられていて、中の薬品は既に空になった後だった。
「ああ…そうだったの…!あなただったのね…!」
倫子は、痛みと共に蘇って来た記憶に美沙を睨んだ。だが、美沙は無表情にこちらを見ているだけで何も答えない。口が動かなくなって行く。注射器を手にした男の背後には台の上に並べられたたくさんの黒い袋が並んでいる。
ああ、そうだ。私は戦った。あの日、あれは間違いだったのか。みんなあの中で眠っているのだ。一緒に戦った、あの仲間達を救うことは、自分には出来なかったのだ…。
倫子は、また暗闇の中へと沈み、何も分からなくなった。