第三章
「おかしいですわね」
どこか哀愁を感じさせる夕暮れ時、王都イクトリア中央を出たユーリとリシアの二人は、女王から任せられた任務のためその日の内に城を出て、報告にあったイクトリア外周部――いわゆる農村地帯へとやってきた。
ユーリとっては生まれ故郷が近くにあるだけでなく、先の魔王との交戦でもこの近くを訪れたので、記憶に新しい場所だ。
「何がおかしいの?」
ここまで何も起こらず、順調に歩いてこれたというのに、隣から発せられたのは疑問と不信の声――リシアとはまだ短い付き合いだが、彼女が何かを警戒しているのはすぐにわかる。
「この辺りは静かだし、平和で不信な点はないと思うけど」
ユーリが言うと、やや呆れた様な顔でリシアは、
「わかりませんの?」
「え、わからないって何が?」
「……はぁ、静ぎるのがおかしいんですのよ。女王陛下の話だと、この周辺には強力な魔物が居るだけでなく、それを狩るために残っている兵士が数人――少なくとも十人以上いるはずですわ。それなのに――」
「っ――そうか」
「ようやくわかりましたの?」
ユーリはようやく理解した。
確かにおかしい、今ここが静かで平和なのはおかしすぎるのだ。不信な点などない……否、むしろ不信な点しかない。
「兵士が居ない」
「その通りですわ。わたくしたちがこの場所についたのは少し前とはいえ、それなりに辺りを探索する時間くらいはありましたわ。なのに」
芸術の様に整った小ぶりの美しい顎に手を添え、考えるようにしながら言うリシア。そんな彼女の言葉の後を引き取ってユーリは、
「魔物が兵士と戦っている気配すら感じられない、普通なら魔物の鳴き声くらいは聞こえてもいいのに」
「そうですわね、おかしいくらいに静か……それに綺麗すぎますわ」
「綺麗?」
「城を出る際に女王陛下から頂いた書状によると、魔物の討伐を行っている兵士たちが駐屯しているのはここのはずですわ」
ユーリはリシアが見せてきた地図を覗き込む。
「これって、ここ?」
「そう、まさしく今わたくしたちが立っている『ここ』ですわ」
書状に同封されていた地図、その地図の一点に鮮やかな朱色のインクでキャンプと書かれた場所――それはどこからどう見ても、ユーリたちが立っている場所だった。
「じゃあ兵士たちは? それにキャンプは……テントとかが残ってるはずじゃ」
「その通りですわ、だから綺麗すぎる」
リシアが言っている事が、ユーリにはようやく理解出来てきた。
要するに不自然なのだ。
この場所に兵士が居ないのも、戦いの音が聞こえないのもとある一つの結論により、全て説明が付く――それは魔物に兵士が殺されたという事だ。酷な言い方をしてしまえば、兵士たちは皆殺しにされた後、もれなく全員が魔物の腹の中へと納まってしまったと考えられる。
だがそれでも、わからない事が一つある。
「キャンプするための道具はどこに?」
いくらなんでも魔物が、キャンプ用品まで食うわけはないだろう。そう思っての質問だったのだが、その答えはすぐにもたらされる――腰に吊るした金細工が施された黒地のホルスター、そこに収められていた美しさと醜さを兼ね備えた、見たこともないほど異様な銃を引き抜く少女によって。
「おそらくは魔物はキャンプを襲撃し、兵士たちを皆殺しにして胃袋に入れたあと、キャンプを片付けたのですわ……そうですわね、大方その辺りの森の中にでも」
「何のために?」
「壊れたキャンプを見て、あとから来るであろう者たちを警戒させなさいため」
「それって――」
「ですわよね、魔物さん?」
踏みしだく落ち葉や枝の音。
響いてくる大地を踏み抜く力強い足音。
デュオルの屈強な兵を皆殺しにた件の魔物との初交戦、その一手目は瞬く間に過ぎていく。
ユーリが気配を感じて振り返った時には何もかもが遅く、魔法を発動させる暇もなく迫ってくる屈強な爪を見つめているしかなかった。
「遅いですわよ」
ユーリと魔物、いったいどちらに言ったのか、もしくはその両方に言ったのかは定かではないが、圧倒的な反射神経と運動能力を持ってすでに迎撃態勢を取っていたリシア。
彼女は迫りくる魔物の凶爪に狙いを定めて、引き金を一気に引く。
「――っ……っっ!」
放たれた銃弾は寸分たがうことなく、魔物の爪に神速を持って着弾――一撃必殺の武器と成りえた右手の爪を根本からへし折る。
いくら魔物とはいえ痛覚は人間並みにあるのか、魔物は攻撃態勢を強引に解くと、全く聞き取れない独特な声を漏らしながら後ろへと飛び退る。
「これが、魔物?」
落ち着いてとは言えないものの、互いに間が出来膠着が生まれた一瞬の間に、ようやくユーリは魔物の全形を捕えることに成功する。
体中が金色の毛に覆われており、全身の筋肉が居様に発達している。人型でありながら首から上がオオカミであるそれは、
「人狼……ワーウルフですわ。まさか物語の中以外で、実際にお目にかかるとは思っていませんでしたけど」
「うん、それに明らかに様子がおかしい」
ユーリが魔王と戦っていた時に現れた魔物はしっかりと統制が取れ、しっかりと正気を保っているように見えたが、目の前にいるワーウルフはどう見ても錯乱し、自分を持っているとは思えない――目は赤く血走り、大きく避けた口の端からは大量の涎を滴らせている。
「魔王とはぐれたところを兵士たちに追われ、怯えているように見えますわね。少し可愛そうでもありますけれど、人を殺めてしまった以上ここで討伐させていただきますわ」
リシアはとても自然でこなれた動作で照準までの一連の動作をこなすが、
「――……!」
先ほど爪をへし折られた恐怖が残っていたのか、もしくは野生の本能なのかワーウルフは凄まじい速度でこちらに突進してくる。
「撃たれる前に討とうとでも言うんですの?」
ユーリは咄嗟にワーウルフからリシアを庇おうとするが、その前に彼女の銃が火を噴く――ワーウルフよりも輝く銀の光を放ちながら。
「っ……――!」
まるで一筋の流星の如く美しいその銃弾。明らかに特別な何かであろうそれは、
「ダメだ!」
ワーウルフの超人的な能力を持ってあっさりと躱される。
くそ!
ユーリは自分に命を助けてくれたリシアだけは、何があっても絶対に助けようと、渾身の銃弾が外れたことで今だ立ち尽くしている彼女を抱き寄せ、ワーウルフの攻撃から何とか守ろうとする。
「っ!」
途端、辺りに農耕な血の匂いが漂い始める。
…………。
………………。
……………………。
死んだ。
そう思ったままリシアの柔かく、良い匂いのする体を力強く抱きしめていたユーリの耳に聞こえてきたのは、
「そ、そろそろ離してくださる?」
少し照れたようなリシアの声と、
「……っ――」
ほぼ無言でありながら、苦しげなワーウルフの吐息だった。
何が起きたのかわからずにユーリはリシアを抱いたまま、ワーウルフへと目を向ける。するとそこには左肩から血を流し、警戒と恨みの両方が籠った目でこちらを睨む金色の獣の姿があった。
外れたはずのリシアの攻撃が当たったのか? でも、どうやって。
決して死にたかったわけではないが、現実と想像との食い違いがユーリの頭を蝕んでいく。
「……――ぐらぁあああああああっ!」
と、ユーリの頭の靄を晴らすかのように、金色の獣が初めて咆哮を挙げ、再度こちらに突撃してくる。これ以上ユーリたちと……主にリシアと相対するのが危険と判断しての特攻だろう。
先ほど以上の速さでかけてくるワーウルフにリシアは、
「あぁもう……ユーリ、わたくしの傍から離れては駄目ですわよ」
いつまで立っても抱き付いたまま離れないユーリに溜息を吐きながら、抱き付かれて身動き取れないながらも腕だけを引き抜き、ワーウルフへと銃口を向けるリシア。
「吠えなさい、キマイラ」
彼女は初めて自分の愛銃の名前を呼びながら引き金を引く。
相手を殺すべく放たれた銃弾は五発――そのいずれもが極限まで無駄を削ぎ落とした速射、常人ならば自分にいったい何が起きたのかわからない内に絶命しているだろう。
しかし、確かにリシアの技量は人間としては凄まじいものだったが、危機に瀕したワーウルフの運動能力は、ここにきて彼女の技量を完全に上回る。
金色のオオカミは持てる全ての能力を解放し、飛び込むように前方へと跳躍しながら身をひねり、おおよそ人間では不可能な超挙動で銃弾を躱していく。
「――っ……るぁぁああっ!」
必中必滅の攻撃を全て躱したワーウルフは、今度は自分の番とでも言うかのように金色の毛を風に靡かせながら、躱した勢いそのままにこちらへと駆けてくる。
そしてユーリとリシアが間合いに入ったと確信したところで、ワーウルフは地を蹴り、高く飛び上がりながら腕を振り降ろそうとした、
「――っ――……!?」
まさにその時。
何もない周囲の空間が水面の様に歪んだかと思うと、そこから突如放たれた五発の弾丸に、空を駆ける金色の獣は撃ち落とされ、激しい振動と共に地面を滑り二人の目前で止まる。。
「……っ――ぐるぅぅっ」
自分の周囲から何故銃弾が放たれたのか理解できない。そんな顔でリシアを睨み付けるワーウルフ。一方のリシアはというと、今起きたことは全て計算されつくした当然の帰結だといった様子で、自らが撃ち抜いた巨大な獣を見下ろしている。
「待ち伏せするほどの頭脳がありながら、最後の最後に油断しましたわね」
言ってワーウルフの眉間に照準を合わせるリシア。
「…………」
ユーリはその様子をただ茫然と眺めるしかなかった。
なぜなら彼は見たのだから――リシアが最初に放った五発の弾丸、それが躱されたと思った次の瞬間には、まるで空間を渡って移動したかのようにワーウルフの周囲に出現し、初めからそこで放たれたかのように、何事もなく標的目指して突き進んでいった。
あれは、
瞬間移動。
チープな言葉になるが、ユーリが見る限りあれは瞬間移動にしか見えなかった。そして問題なのはこの先だ――混血の、魔眼を持たないリシアが魔法を使えるわけがない。
「終わりですわね」
先ほどの攻撃について思いを巡らせているうちに、リシアは淡々とワーウルフに止めを刺す。まるで、この程度の相手では敵にすらならないとでも言うかのように。
「と、ところで……その」
眼光鋭い強者然とした表情から一変、どこか幼さの残る恥ずかしげな表情と声で話かけてくるリシアに、ユーリは「え、何?」と返す。
「い、いい加減その……は、離れてくださらない?」
「離れるって――っ」
何から?
そう尋ねようとした瞬間、ユーリは自分が未だにリシアを庇うため、抱きしめた状態のままで居る事に気が付いた。
意識した瞬間感じてくる女の子特有の癒やされるような香り、さらに体へと接触しているマシュマロのような二つの物体――抱きしめる強さを変えるたびに、世の男性を天国へと導きかねない素晴らしい柔軟性を発揮し形を変えるそれは、おっぱ――
「ごめん!」
マシュマロの正体を意識する前に、ユーリはリシアから咄嗟に身を離す。
「別に謝る事はないですわ……わたくしを守ろうとしてくれたのでしょう?」
「そうだけど……ごめん」
「……わたくしも、ごめんなさい」
「…………」
「…………」
何故か互いに謝り始めてしまった二人の間に流れ出す辺りを包む昼と同種の気まずい沈黙。
少しの間そうしていると、ユーリはいよいよ沈黙に耐えきれなくなったのか、会話の切り口として先ほどの疑問を投げかける。
「そういえばさ、さっきワーウルフを仕留めた時のって魔法だよね?」
するとリシアも沈黙が嫌になっていたのか、すぐにユーリの会話に乗ってくる。
「ユーリの疑問はもっともですわ。わたくしは混血――魔力を持ってはいますけれど、それを練り上げ放出する魔眼がないため、魔法の行使が出来ない」
それこそが先ほどユーリが抱いた疑問だ。リシアに魔眼が存在していないにも関わらず、何故魔法を使う事が出来たのか。
「秘密はこの魔銃――キマイラですわ」
見せられたのは先ほどワーウルフを仕留めた異形の銃。
「この銃は亡くなったお父様とお母様が、わたくしのために手に入れてくださったの。この銃は使用者の体内から魔力を吸い上げ、射出する事が出来ますの」
「それって――っ」
「そうですわ、これならば魔眼を持たないわたくしでも、疑似的に魔法を使える」
確かにそんな力が銃に備わっているとするならば、リシアが先ほど魔法の様なものを使えたのも納得が出来るし、特に不自然な点も見つからない。
「いい機会だから言っておきますわ、ユーリはわたくしのボディガードなのですから覚えて起きなさいな。このキマイラが放てる銃弾には二つの種類がありますの。
一つは練り上げた魔力そのものを撃ちだす魔弾――これに当たった者はわたくしの魔力の質、テレポートが具現し、わたくしが見たことのある場所へなら強制的に移動させることが出来ますわ。
もう一つは通常の銃弾にわたくしの魔法を付与させて放つもの、これが先ほど使った銃弾ですわね――効果はもうわかっていると思いますけれど……」
「放った銃弾を任意のタイミングで、任意の場所に瞬間移動させる……だよね?」
「えぇ、そうですわ。ユーリは察しがいい時と悪いときの差が激しいですわね」
「あ、あはは」
何故か嬉しい気分になったユーリが笑いながら頭をかくと、
「何を満足そうな顔をしているんですの? 褒めているわけじゃないんですのよ……だ、だいたいあなた、今回まったく役にたっておりませんでしたわよ! わたくしを守るためとはいえ急に抱き付いてきま――」
「あ! そろそろ暗くなってきたね」
その話をぶり返すとまた沈黙と気まずい空気に襲われかねないと、咄嗟に話題を逸らすユーリ。その機転が功を奏したのか、
「そういえばそうですわね」
リシアは空を見上げながら同調してくれる。実際ユーリが言った通り、辺りは大分暗くなってきているので、彼の新しい話題のチョイスは完全に上手く行ったようだ。
「ここ到着した時点で日が暮れ始めていましたし、少し時間がたった今、辺りが暗くなり始めるのは仕方がない事ですけれど、困りましたわね。当初の予定ですと、わたくしたちはキャンプに泊まって、翌日から本腰を入れて捜査をするというプランだったのですが」
「それならもう帰っちゃってもいいんじゃない? リシアの銃を使えば、王都の中央部まで直接飛べるんでしょ?」
捜査または討伐対象である魔物を倒したので、キャンプに泊まることなく、もう帰還してもいいのではないかと提案するが、リシアは渋い顔を続ける。
「えぇ、わたくしの魔法を使って変えることは問題なくできますわ、魔力の温存を考えなければですけれど。ただ、ひょっとすると辺りに生存者が残っている可能性――もしくは魔物が複数いる可能性を考えますと、やはり明日の朝、明るくなってからもう一度捜査する必要がありますわ」
要するにリシアは今日、泊まる場所がない事で困っているのだろう。
「仕方ないですわね、今日はここで野宿を致しましょう。敷物などはありませんけれど、食料なら――」
「あ、あのさ」
そそくさと野宿の準備をし始めるリシアに声をかけるユーリ。
「何ですの?」
「この近くに僕の実家があるというか、何というか」
幼馴染という例外を除いて、今まで同年齢の――それも魔法使いではない女の子と話した経験の少ないユーリにとって会話だけでも緊張するのに、これからリシアに言おうとしている事がそれ以上の事となれば、
「えーと、その」
なかなか言葉が出てこないのを責める事は、誰にも出来ないだろう――いくらユーリが魔法使いとはいえ、本質はその辺に居る少年と全く同じなのだから。
「なんというか、その」
「何ですの? ……あぁ、なるほど! そういうことですわね」
ユーリがどう言うべきか迷っているうちに、リシアはポンっと手を叩いて彼に笑顔を向ける。
「さすがはわたくしのボディガード,あなたの実家に泊めてくれるというわけですわね?」
「…………」
「違いますの?」
「いや、そうなんだけどさ」
先に言われてしまった。
何だか男してどうしようもなく情けない気がしてきた。別に実家に女の子を泊めるからといって、何か起こるわけでもないのだが、そういう事は基本的に男から言うもののはずだ。
「僕ってここまでヘタレだったのか……」
幼馴染からヘタレヘタレと言われたことはあったが、まさか自覚する日が来ようとは思っていなかった彼は、
「行くわよ、ユーリ。わたくしをあなたの家まで案内しなさいな」
向かう方向すらわかっていないはずなのに、暗くなってきた世界の中でもなお金色に輝く髪を持つ少女、リシアの背中を追ってユーリはトボトボ歩き出すのだっだ。
●●●
王都イクトリア外周区。
心ない人間――主に魔法使い以外の人々からスラム街、はたまたゴミ溜めと言われている場所の一角に、ユーリの実家はあった。
「ここがユーリの家ですの?」
「そうだよ。外見はボロいけど、中はそれなりに小奇麗にしてるから安心して」
「いえ、わたくしは泊めてもらう身。文句なんていいませんわ」
王都で見たルシアの宮殿とは正反対で汚く、とても小さい木造の家。それこそ吹けば飛ばされてしまいそうな小屋と言っても過言ではないその家の扉を、ユーリは軽く……それでもしかっりと中に音が通るのを理解して、数回ノックする。
すると、
「誰だ!」
元気がいい子供の声が、扉の内側から聞こえてくる。
「僕だよ、ユーリ」
「――っ!」
名前を名乗ると、扉の向こう側に居る人物は慌てたようにガチャガチャ物音をたて始める――おそらく鍵を開けているのだろう。
そんなに焦らなくてもいいのに。
ユーリが苦笑しながら、扉が開かれるのを待っていると、ついにその瞬間がやってくる。
「にぃ!」
ボロい扉が壊れかねない勢いで開くと同時に、中かから飛び出してくる小さい少女――ユーリと同じ暖かそうな栗色の髪を肩の辺りで切り、キラリとトレードマークの八重歯を輝かせる幼い女の子。その正体は、
「ただいま、ソーニャ」
「おかえり、にぃ!」
ユーリのたった一人の妹、ソーニャはユーリとは反対の右眼にある魔眼を、彼と同色の金色に輝かせながらムギュっと抱き付いてくる。
「ふぇえ……にぃの匂いがする」
「あはは、よしよし」
短パンに長めのTシャツがより一層元気っぽい雰囲気を引き立たせるソーニャ。
ユーリは彼女を相変わらず可愛いなと、頭をポムポム撫でたところで、
「紹介するよリシア、この子は僕の妹の――リシア?」
妹の紹介をしようとしたところで、ユーリはリシアの異変に気が付く。
「ふ……ふ……」
「ふ? ふがどうしたの?」
リシアはソーニャから一時も視線を外さず、まるで蕩けるほど甘いものでも食べたかのようにポツリと言う。
「ふぇえ……可愛いお」
「あの、えっと」
いったいこれは何なのだろう。
「リシア、今なんて?」
「っ――つい地が出てしまいましたわ……じゃなくて、何でもありませんわ!」
「な、なら別に良いんだけど、とにかくこれが僕の妹のソーニャ」
地が出てしまった。
確かに言ったリシアのその言葉を聞きもらさなかったユーリは内心で、ルシアと完全に二人きりの時には、きっともの凄い甘え声で喋っているのだろうと、予想するのだった。
「ソーニャ、こちらが僕の上司でデュオルの中将 リシアさん」
ユーリが架け橋となるべく、互いの軽い自己紹介をし終えると、
「おぉ! お前がにぃの上司か! にぃがいつも世話になっているぞ! これからもよろしく頼むのだ」
「ふふ、こちらこそよろしく頼みますわ」
二人は歩み寄って握手を交わす。その様子を見ていて何だか和むユーリであったが、別に迷惑はかけていないし、リシアにそこは否定して欲しかったなと、若干やきもきするのだった。
だけど、リシアとソーニャが問題なく仲良くなれてよかった。
リシアは外見的には普通の人間だし、ソーニャは小さくても魔法使い。普通ならばそんな二人がこうして並び立っているのは異様な光景なのだ――でも、リシアは魔法使いに対する嫌悪とかなさそうだし、ソーニャは相手の人格が良ければ誰にでも懐く。
余計な心配だったかと、ユーリは考えながら、もう一つの懸念事項に思いをはせる。むしろリシアとソーニャが無事に仲良くなれるかどうかなどよりも、よっぽど心配な事柄。
「…………」
この家には居るのだ、魔法使いでもなく普通の人間でもなく、軍事国家デュオルそのものを嫌悪し、この国の王族をいつか殺してやる――そう考えている狂犬が。
「ソーニャ、誰と話しているの――って、ユーリ!?」
短い廊下の奥、キッチンとリビングがある場所から出てきたのは、車椅子に乗ったユーリと同じくらいの年齢の少女。
車椅子を漕ぐたびに揺れる黒水晶の様な長髪をツインテールに結い、黒よりもなお黒い深淵を思わせるような眼。
「あんたいつ帰って来たのよ! 帰ってきたならちゃんと言わないと許さないんだからね!」
ユーリたちの前までやってきた彼女はズビシっと彼に指を向け、外周区に暮らしている割にはとても美しい純白のワンピースに包まれた体を、車椅子の上でハネさせながら言う。
「だいたいその女は誰よ! べ、別に焼きもち焼いてるわけじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」
現れたかと思えば怒涛の口撃。
彼女こそがユーリが懸念していた人物であり、彼の大事な幼馴染のリンである。
「いやいや、許すも何も僕は今帰ってきたんだからね?」
「だから何よ!」
今帰ってきたんだから、リンに言いに行く暇なんてあるわけないじゃないか。
ユーリは彼女に言い返したいところを必至に我慢し、とりあえず彼女を落ち着かせなければ自己紹介も何も出来ないと考え、何とか説得にうつる。
「だからって言われると、それだけなんだけど……」
「けど?」
リン検定一級を持っているユーリは、彼女が落ち着かせるに足る言葉を脳内から検束し、言葉して出力する。
「ただいま、久しぶり」
「っ――ふ、ふん! ユーリのバーカ!」
長年リンと付き合ってきたユーリの経験によると、彼女が怒っている時は八割がた照れ隠しや、ユーリの反応が彼女のご要望に沿わなかった時だ。
今回はおそらく後者、そう判断した彼の感は、
「でも今回は許してあげるわ、次からは気をつけなさいよね!」
「うん、ありがとう」
見事に的中する。
「それでユーリ、この女は誰よ? 返答次第ではあんたの命はないものと思いなさい!」
一度は鎮火したかに見えたリンの怒りの炎は、ユーリの隣に立つ存在を指さしながら再度燃え上がる。
さぁ、ここからが問題だ。
ある事情からデュオル、ひいてはデュオル高官……中でも王族を特に憎悪しているリンにとって、王族でもあり高官でもあるリシアは究極の敵だろう。
「この人は……」
なんと言うべきか。
ユーリが悩んでいると、リンに「この女」と指を差された張本人は一歩前に踏み出すと、豊満な胸に手を当てて、何も恥じることはないと凛として言う。
「申し遅れましたわ。わたくしの名前はリシア――この国、デュオルの……っもご!?」
デュオルの何て言う気か知らないが、このまま言わせたらまずい。なかば直感的に感じたユーリは、上司に対して無礼だとは思うが仕方がない。と、ソーニャを体にひっつけたままリシアの口を手で塞ぐ。
「む、むぅ! むぐぅ……ぷはっ! いきなり何をするんですのよ!?」
「あとで絶対話すから、ね?」
「ね……じゃないですわよ! いきなり唇を塞ぐなんて、いくらなんでも無礼ですわよ!」
「く、唇を塞ぐって、変な表現しないでくださいよ!」
普通に口をふさぐでいいじゃないかと言うユーリに対し、自分の言葉づかいが誤ったものだと瞬時に悟ったリシアは、顔を林檎の様に染めながら、
「な!? 変な事考えているのはあなたじゃないですの!」
完全なる八つ当たりを開始する――しかし、そんな二人のある意味仲睦まじいやり取りを羨ましそうな、もしく羨ましそうな顔で眺めている少女が居た。
「へぇ、あたしが知らない間に随分中がいい女が出来たみたいね」
ユーリとリシアの関係を明らかに勘違いしているその少女、リンは胡乱な目つきで彼を見て続ける。
「だいたい何よ、さっきの? 自己紹介してるの止めてたわよね、あたしに聞かれたくない事でもあるの?」
「それは……だから……ほら、ね?」
言えるわけがない。
リシアが訳ありとはいえ一応は王族であるという事も、軍の中将である事も。幸いな事に、ユーリかリシアが自ら言わない限りは、彼女の正体がリンにバレる心配はない――だが彼は気が付いていなかった。
「デュオルの何? なんて言おうとしたのよ!」
つい先ほど、自分がとんでもないミスを犯していたことに。
「知ってる!」
「ソーニャは知ってるぞ!」
ユーリに抱き付くのをやめ、ピョンピョン飛びながら嬉しそうに言うのはソーニャ。彼女は何の悪気もない無垢なる表情で、ユーリにとって最悪の言葉を紡ぎ出す。
「聞いて驚け、リン! リシアはデュオルのお偉いさんなんだぞ!」
「お偉い、さん?」
途端に表情が暗くなり、今までとは方向性の全く異なる暗さ――まさしく憎悪の籠った瞳をリシアへと向けるリン
ユーリは額に手をあてて、思い切り溜息を吐くが妹様は止まってくれない。
「そうだ! リシアは軍のちゅうじょーだ! 偉いんだ!」
「……そう」
憎悪という感情を込め過ぎたせいで、どの様な喋り方をしていいのかわからなくなってしまったかのように、リンはひたすら底冷えする声で頷く。
「――っ」
終わった。リンに話さないようにと、ソーニャへ言っておくべきだったと後悔するが、今更どう思ったとこで全て遅い。
「中将、か……」
ソーニャは車椅子に座っているため、視線の位置が相手よりも低いにもかかわらず、まるで相手を見下ろしているかのようなプレシャーを放ちながら、リシアを射殺さんばかりに睨み付け、
「ねぇ、大勢の魔法使いを使い潰して……大勢の子供たちから親を奪って、それで権力を得るのはどんな気分?」
「いきなり何を言って――」
「わからないわよね、最初から全部持ってて……それなのに全部を奪ってく、あんた達みたいな奴らには!」
リンは叫ぶに溢れ出した感情を吐露すると、必死に車椅子を動かしてキッチンの方へと引き返して言ってしまう。
「おぉ! リンが癇癪を起したぞ! 待て、リン! ソーニャを置いて行くな!」
たぱたぱと音たてて、去っていったリンを追って走るソーニャ。
…………。
………………。
……………………。
玄関で残された二人の間に、本日何度目かの沈黙が流れたのち、
「な、なんですの!? ユーリも、あのリンって人も……無礼すぎますわ!」
突如ユーリに口を塞がれたかと思えば、その幼馴染に罵声を浴びせられた不運な少女ことリシアが騒ぎ出す――まだ短い付き合いとはいえ、彼女がここまで騒ぐのを見た事がないので、器が大きそうな彼女にもついに限界が来たのだろう。
「ありえませんわ!」
リシアは「何ですのよあれは!」と言いながら、ユーリの肩を両肩でしっかりつかんで前後に揺さぶる。同時に彼の頭も前後にガクガクと揺れ、
「や、やめてくださいって!」
「昼はグレイスにグチャグチャ言われたかと思えば、昼は初対面の女性に罵声を浴びせられ……もう! 今日はいったい何なんですのよ!」
なるほど、ようやく納得がいった。
ユーリは出会ったときからリシアに対して、冷静沈着な女性という印象を持っていた。にもかかわらず、突然ここまで怒りだして何事かと思っていたのだが。
僕が急に口をふさいだ事と、リンが罵声を浴びせたことに足してだけでなく、昼にグレイスと話していた時のストレスも積み重ねっての爆発か。
と彼は内心納得しつつ、リシアとリンをこのままにしておくのは非常にまずいと判断し、すぐさまフォローにうつる。
リンはソーニャが傍に居るだろうから、今はリシアからだ。
「うぅうううううう! なんなんですのよぉおおおおお!」
ガックンガックン揺れる頭、揺れる視界をユーリは意思の力で何とか固定する。そして「リシア」と一言、彼女の肩を同じく両手でつかみ返して真剣な瞳を向ける。
「リンはデュオル軍に両親を殺されてる」
「え――?」
ユーリを揺する手を止め、美しく澄んだ青い瞳を真ん丸と見開く。
「それだけじゃない、リンはその時にデュオルの兵士から受けた銃撃の後遺症で、両足に感覚がくなっていて……一人じゃ立てないんだ」
リンがあそこまで感情的になった理由を、ユーリは静かに聞かせていく。
「そもそもリンはデュオルの生まれじゃないんだ。あいつが生まれたのは神の国スサノオ」
「――っ」
スサノオという国の名前が出た事で、仮にも王族たるリシアはだいたいのことを悟ったのだろう――その国が十年以上前にデュオルと戦争した事、デュオルの兵士たちによりスサノオの辺境にある村々が、半ば略奪に近い凄惨な目に合った事を。
「ではあの方は、その時の被害者ですの?」
「うん、でもあいつは自分を被害者だなんて思ってないよ。あいつが被害者だと思ってるのは自分の両親だけ、自分の事は復讐者だって言ってた……少なくとも、十年前に初めてであった時から数年間はね」
「復讐者、ですの?」
「そう」と呟き、ユーリはリシアの肩へと伸ばしていた両手を戻し、リンと出会ったときの話をする。
「たしか六歳の頃だったかな、リンってば自分もあんな状態なのに一人でデュオルまで来てさ、
戦争を起こした奴らを皆殺しにしてやるって、そう考えてたみたい。
でもいくら行動力と目標も持っているとはいえ、やっぱり子供だから……それにこの国の国民権も持ってないから、魔力のない人間なのに魔法使いと同じ扱いでさ、いつも周囲から殴れられたり蹴られたり憂さ晴らしの暴行を受けてた」
「――出会ったのは、その時ですの?」
「うん、何回かそんなリンの姿は見てたんだけど、僕には勇気がなくて止められなかったんだ。でもある日、いよいよ我慢できなくて仲裁に入っちゃてさ……まぁ、僕も大人たちに凄い殴られたけど、リンは助けられてよかったよ」
苦笑するユーリを見て、リシア。
「そうですの……わたくしには何も言う資格はありませんわね」
「大丈夫、リシアのせいじゃないってことは分かってる。軍に入ってから分かったけど、魔法使いや他国からの移民の蔑視を進めているのは、グレイスみたいだし」
「そう言ってもらえると幸いですわね。しかし、この国がこうなってしまっていることには、わたくしにも責任の一端はありますわ」
リシアは一呼吸分ゆっくり目を瞑り、
「何故わたくしにそんな大切な話をしてくれたんですの? リンさんの性格や雰囲気からして、わたくしに過去を知られるのは、もっとも嫌がりそうな気がしますが」
確かにリンは嫌がるだろう。
王族とは言う事は知られてないが、リシアが中将であるという事はすでに知られてしまっている。ユーリと暮らしてきた中で、リンの中に存在する復讐心は大分薄れてきているようだが、いざ目の前に該当人物が現れれば心中穏やかではないだろうし、憎んでいる相手に自らの過去を知られて同情されれば、どうしようもなく惨めに感じるだろう。だけど、
「知っておいて欲しかったんだ。リンが考えもなしに、あんなことを言う人間じゃないってことを……それにたぶん」
たぶん昔のリンならともかく、最近のリンがデュオルに対して抱いている憎しみは悪い感情ではない。先ほど起こったのも復讐関連の事がないとは言えないまでも、大半が魔法使い達に対する差別――主にユーリやソーニャが苦しんでいるのに、何も出来ない自分への憤り。何とか出来る力を持っているのにも関わらず、何もしようとしない王族や高官たちへの不満が大部分を占めているはずだ。
「たぶん、何ですの?」
「――いや」
ユーリは続けて考える。
力があるのに何もしようとしていない高官ばかりじゃない、中にはリシアやルシアの様に差別問題の事をしっかり考え、普通に接してくれる人たちもいる。
事の元凶と思える一人の人物の姿が脳裏に浮かぶが、今は関係のない事だと首を左右に振る。
「とにかくリンはそんなに悪い奴じゃない、それだけは知っておいて欲しかったんだ」
「わかりましたわ。いえ、わからないはずがないですもの」
立場が立場であるため感じ入るところがあったのか、苦しそうに下を向くリシア。
「やはり今日は別の所に泊まった方が――」
「リシア、少しリンと話してくるから、本当に少しだけ待ってくれないかな?」
彼女からの返答の言葉を聞いたのち、ユーリはリンが消えていった廊下の奥の方を振り返るり、言うべきことを考えながら一歩一歩足を進める。
目指すべき場所はギシギシと音を立てる暗く古めかしい廊下の先、キッチンとリビングがある部屋だ。近づくにつれて聞こえてくる少女二人の話し声は、リンとソーニャのものだろう。
「まだなんて言うかは決めてないけど、リンをなだめる役をソーニャに任せるのもおかしいよね」
呟いてから一度だけリシアが居る方を振り返る。彼女は未だに下を向いているため、先ほどの話にそれなりのショックを受けたのだろう――リンだけじゃない、リシアもとても優しい少女なのだ。
「そんな二人がすれ違ってるままなんて、もっとおかしい」
ユーリは心の覚悟を決めて扉を開く。
「あ、にぃ……じゃあソーニャは部屋に戻ってるぞ!」
入れ違いに出ていく妹に眼で「ありがとう」と合図する。
さて、やるか。
「……ふんっ」
ヴィンテージ調と言えば聞こえのいいリビングの中、古めかしくも手入れの行き届いた大きめのテーブルに両肘をついて、そっぽ向いている少女――未だに絶賛不機嫌モードのリンだ。
「…………」
「…………」
ユーリがリンの向かいの椅子に座ると、ツーンと目をを向けて「あんたと話す事なんてない」と言いたげな態度のリン。
「…………」
「…………」
お互い完全な無言を貫く二人だったが、
「な、なんか喋りなさいよね」
いくら機嫌悪くても、普段どんなにツンツンとした態度を取っていたとしても、基本的には優しいリンにいつまでも無視を続けることは出来なかった。
「聞いてくれるの?」
「ふんっ……聞くわよ、あんたの話ならなんでも」
不貞腐れながらも、やれやれと向きなおるリンを見て僅かに笑みを零し、ユーリは話を始める。
「リシアの事なんだけど……」
とは言ったものの、どうやって話をしよう。リンにはリシアが、デュオル軍に居る典型的な人間とは違うという事をわかってもらいたいのだが。
仕方ない。
ユーリは心中でリシアに謝罪して、ルシアとの関係の事を除いてその出自と、彼女のおかげで自分の命が助かったという事をリンに説明する。
「そういう訳で、彼女は普通の人間と魔法使いのどちらにも属せずに苦労してる。それにリンがさっき怒ってくれた差別の事も大丈夫……リシアは普通に接してくれるよ」
「べ、別にさっきのは差別の事で怒ったんじゃないんだからね!」
話を聞き終えて、まだリシアに対して思う所はあるにしろ、ある程度の区切りを自分の心につけたのか、リンは「それで?」と組んだ両手の上にあごを乗せ、やや上目づかいの愛くるしくも意地悪そうな顔で問いかける。
「『僕が中から国を変えてやるー』って飛び出しったきり、全然帰ってこない癖に、突然女を連れて帰ってきたんだから、あたしに何か頼みたいごとでもあるんでしょ?」
「うん、実はそうなんだけど……」
「何よ? ハッキリ言いなさいよね!」
ここまでくれば頼んで断られることはないだろうが、リンの急かす様な視線を前にするとどうにも言葉が詰まってしまう――ユーリの小さい頃からの弱点の様なものであった。
「実は今日とある任務の途中でここに寄ったんだ」
「――ふん、やっぱりそうだと思ったわ。あんたがあたしとソーニャに会うだけの目的で、ここに帰ってくるわけないもん」
「なっ、そんなことないよ! いつもは忙しくて帰ってこれないだけで――」
「要件は?」
リンに言い返そうとするも、バッサリと言葉を斬られて「うぐっ」と詰まるユーリ。
「早く要件を言いなさいよね」
「途中で説明をとめたの……そっちじゃないか」
「え、何?」
ギロリと眼光一閃、リンの目が細められる。
「何でもない! 何でもないです、うん……何でもない」
とことんリンに弱いユーリは、それでも「よし」と気合を入れ直して説明を開始する――どうして幼馴染と話すだけで、ここまで緊張して気合いを入れなければならないのだろう。そう思いながら。
「じゃあ続けるけど、僕たちは任務の途中でここに寄ったんだ。本来ならこの近くにあった軍のキャンプで泊まる予定だったんだけど――」
リンを怖がらせるのもいけないし、魔物の一件は伏せておこう。
「ちょっとアクシデントが起きて、そこに泊まれなくなっちゃったんだ。だから今日は、僕とリシア二人を泊めて欲しい的な」
「ふ、ふーん、別にいいけど……そもそもこの家はあんたの家で、あたしはあくまで居候だし。あんたがそう決めたならいいんじゃない?」
リシアを泊めると聞いて、再度不機嫌になり始めたリン。だが今回彼女が不機嫌になった理由は、先ほどの高官云々とはおそらく関係ないだろう。なぜなら、
「ゆ……らね」
「え?」
「泊まるのはいいけど、あの女と同じ部屋で泊まるのは許さないんだからね!」
リンが今回不機嫌になってのは、久しぶりにあったユーリが自分と違う女性と居る。それに対する完全な焼きもちである可能性が、非常に高いのだから。
「わ、わかってるよ! 僕がそんなことするわけないでしょ!」
「ふんっ! そうね、あんたは昔からヘタレだったわね!」
言って自分を恥ずかしそうに、もしくはものほしそうに抱きしめるリン。しかし、ユーリは彼女の様子には気が付かずに、「へ、ヘタレって……」などと精神的ダメージを受けるだけであった。
「あ、でもユーリ」
と、何か思い出したように言うリン。
「泊まるのは別に構わないんだけど、食材の買い出しを明日の昼にする予定だったから、今日はあたしとソーニャの分……どんなに頑張ってもあと一人分くらいしかないわよ?」
「夜ご飯がってこと?」
「それ以外に何があるのよ?」
……それは一大事だ。
思い返してみれば、朝から色々あってユーリは何も口にしていない。今までは忙しさと緊張のせいか、空腹をあまり意識していなかったため辛くはなかったが、今になってギュルルという音と共に、胃袋を絞る様な感覚に襲われる。
要するに腹が減ったのだ。
くっ、どうする?
彼は今非常に迷っていた――たかが夕食、されど夕食。
常識的に考えるならば、自分は食事を辞退してリシアにリンの美味しい食事をとってもらうべきだろう。だがしかし、どうしようもなく腹が減っているのだ。その境地に常識も非常識も、善も悪も関係ないのではないだろうか。
「――っ」
ユーリがゴクっと唾を飲みながらも、脳内フル回転かつ腹を大音量で鳴らしながら、夕食をどうするかについて必死に考えていると、
「わたくしの夕食なら、別に気にしなくて大丈夫ですわ」
いつからそこに居たのか、リビングの入口には腰にソーニャをぶら下げ立つ、リシアの姿があった。
●●●
「「「「いただきます」」」わ」
食糧問題が解決してから数分後、四人は仲良くとは言わないまでも、険悪になる事なくごく普通に食卓を囲んでいた――余談だが座っている順番はユーリの隣にリシア、向かいにリン。そしてそのリンの隣にソーニャといった順番だ。
「やっぱりお美味しいですわ!」
「…………」
「…………」
「…………」
そんな食事風景の中、リシアが食事をし始めると周囲三人の空気が異質なものへと変化する。
「このボソボソとしながらもジューシーな肉質……独特な香りにソースのまろやかさと酸味。やはりわたくしが考案したこの料理こそが、至高にして至宝ですわね」
「……ありえないわ」
「……ソーニャ、怖い」
リシアの食事を見て続々と呟く女性陣。
ユーリはチラリとリシアの皿……否、丼とその中身を横目で覗き込むと、聞かない方がいいとは思いつつも、好奇心に負けてついつい彼女に問いかけてしまう。
「そんなに美味しいの、それ?」
ここで『それ』について予め紹介しておこう。
ユーリが言い、リシアが食している『それ』とは丼料理である――そもそも一人分の食料が足りないにも関わらず、誰一人欠けることなくテーブルを囲んでいる理由がここにある。
食材が足りないという食糧問題に解決策をもたらしたのは、リシア持参していた謎の缶詰だった。どうやってポケットに詰め込んだのか不明な三つの缶詰を取り出すと、彼女はリンに米と丼……さらにマヨネーズを要求したのだ。
そしてリシアのマジカルクッキングが始まった。
まずは缶詰の側面についたゼンマイの様なものを使い、同じく側面にある帯状の切れ込みをクルクルと巻き取っていく。缶一周分の巻き取りが終わったかと思えば、蓋を外すかのように缶の上部をパージ。現れたのは赤ともピンクとも取れる肉――コンビーフだ。
ここまでの工程を繰り返す事三回。次に彼女は丼にご飯を敷き詰めると、その上に三つのコンビーフを缶から取り出してボトボトと無造作に投入していく。
最後に上からマヨネーズを……ご飯もコンビーフも見えなくなる程の大量のマヨネーズをかけて彼女は言った。
『完成ですわ!』
それはもうとても嬉しそうな声だった。周りがかなり引いているのにも気が付かないほどの、かなり嬉しそうな声と表情だった。そして今、彼女は完成したそれを食べ、ユーリの質問へと答える。
「もちろんですわ! このマヨコンビーフ丼リシアスペシャルは、最強無敵の料理ですわ!」
料理が完成した時よりも、さらに幸せそうな声と顔。
「……そう」
最早何もいう気になれなかった。同時にユーリは思う――きっとリシアは長年、普通の人間と魔法使いの間で板挟みにされただけでなく、グレイスとの対話からくるストレスで味覚が御臨終なさってしまったのだろう。
「あなた、何か失礼なことを考えているのではなくて?」
「ソンナコトナインジャナイカナー」
つい片言になってしまったユーリに、リシアは横からジトーっとした半眼で睨み付けてくる。
その間彼が必死に無心を貫き通した結果、彼女は睨むのをやめ、
「ならいいですわ」
再び恍惚とした顔で食事に戻る。
「何度食べても惜しいですわ、ごはんの暖かさにコンビーフとマヨネーズの冷たさがマッチしてさらに――」
「あの、リシア……さん」
謎のショクレポを開始かけたリシアを止めたのは、自分からは絶対に話しかけないだろうと思われていた人物、リンだった。彼女はいつも真っ直ぐで美しい瞳に迷いを宿し、長くしなやかな毛先を指で遊んでいる。
「えと……なんですの?」
リンの呼びかけに、リシアも話しかけられるとは思っていなかったのか、迷いと驚きが混じた声で返答する。
「さっきは」
リンは右手で左腕をぎゅっと掴むと、覚悟を決めたたかの様に一度だけ頷いて、真っ直ぐな瞳でリシアを見る。
「さっきは取り乱して、傷つけるような事を言ってごめんなさい。それと、ありがとう……ユーリから聞いたわ、こいつの命を助けてくれたって」
「いえ……謝る必要はないですわ。わたくしにも、わたくしたちにも悪いところがあるのは、あなたが言う通り真実ですもの」
「でも――!」
納得いかないとでもいうかのように、リンは弾かれたように反応するが、
「でもユーリの件、そのお礼の言葉だけは受け取っておきますわ――どういたしましてですわ。それと、わたくしの事はリシアと呼んでいただいて結構ですわ」
「リシ、ア」
「えぇ……もう仲直りしたのですから、お友達でしょう?」
言ってほほ笑むリシアにリンはキョトンとし、やかんと見間違わんばかりに顔がみるみる赤熱していく。
「べ、別に嬉しく何てないんだからね!」
「あら、わたくしは嬉しいですわよ? あなたとお友達なれて」
「ふ、ふん! リシアのバーカ!」
この瞬間、精神的にはリンよりも、リシアの方がはるかに大人であるという事が証明されたのだった。
「まぁリシアは中将だから当たり前か」
独り言ちていると、ソーニャはリシアの丼を興味深そうに見ながら言う。
「にぃ! リシアの料理、美味しいのか?」
「ダメだ、ソーニャ! ソーニャは冥府魔道に行ったらダメだ!」
ユーリの言葉に誰よりも早く異を唱えたのは、隣に座るリシア。
「冥府魔道って何ですのよ!?」
「いや、だって……」
こうして四人で取った初めての食事は、楽しくどこまでも盛り上がって行くのだった。
ユーリにとっても、リシアにとっても久しぶりの大人数での食事。それはとても幸せで、思い出に残るひと時となった――出来る事ならば、
「またみんなで食事をとりたいね」
一人静かに呟いたその言葉に、同意しない者は居なかった。
▲▲▲
「……眠れませんわ」
枕が変わると眠れない。
その典型なリシアは現在、激しく苦しんでいた。別に肉体的に何らかの責め苦を受けているという訳でもなければ、精神的責め苦を受けているわけではない。むしろ責め苦など受けていない。
「これからはコンビーフだけではなく、ルシア抱き枕も持ってきた方がよろしいですわね」
クール系の目薬を差した後の様に、パッチリクッキリ目が冴えていている――それが今彼女を襲っている苦しみだ。
ここまで眠れないのなら、もういっそ眠る事を放棄して起きていた方が楽かもしれない。そう思った彼女は一緒の布団で眠っているリンを起こさないように、ゆっくりとベッドから抜け出す。
「少しお茶でもしてみますわ」
リンに枕が変わると眠れないので、迷惑をかけるかもしれないと言ったところ、冷蔵庫の飲み物は勝手に飲んで構わないと先を見越して言っていてくれたので、リシアはお言葉に甘える事にしてリビングを目指す。すると、
「あら? 電気が付いていますわ……」
常からの癖で多少の警戒を孕みつつ、ゆっくりリビングへと入り、キッチンの方へ近づいて行くリシア。やがて視界に入ってきたのは、
「ソーニャちゃんですの?」
「――っ!」
小動物の様に愛くるしい姿のソーニャが、冷蔵庫を開けて何やら物色している姿だった。
何をしているのかと不思議に思ってリシアがかけた声に相当驚いたのか、彼女は火が付いたように飛び上がってこちらを向き、
「そ、ソーニャは何もしてないぞ! 別にリンが隠し溜めしてる自分用のお菓子を、黙って食べてたりするわけじゃないんだからな!」
自滅的な告白をされた。
「別に怒りませんわ」
そんな可愛らしい態度を見て、リシアは頬を緩ませながら言う。
「子供はそろそろ寝ないといけない時間なのではなくて?」
「もう少ししたらねる! でも今はリンのへそくりお菓子に壊滅的なダメージを与えるのが先だ!」
「……ソーニャちゃん。ではわたくしと一緒にお茶をしませんこと?」
「お茶?」
「えぇ、お茶ですわ」
ごめんなさいですわ、リン。
心の中で謝りながらも、美味しいお茶とお菓子で深夜のお茶会真っ最中のリシアとソーニャ。受け取ってくれるかは別として、イクトリア中央に帰ったら名物のお菓子をたくさん送ろう。
密かに心を決める彼女であった。
「おぉ! じゃあリシアの魔法、テレパートは瞬間移動なのか!」
「テレポートですわ、その能力が瞬間移動というのは正しいですけれど……でも正確に言うのなら、わたくしのは魔法ではなく疑似魔法ですわ」
「魔眼がないから魔法を使えない、でもキマイラを使えば必殺技が使える、凄く格好いいぞ!」
「そうですの?」
自分の歪なあり方が格好いいなどと言い始めたソーニャに、リシアは驚きを隠せない。
「そうだ! それに混血ゆえにオッドアイではない! 最高に格好いいぞ!」
「わたくしからすると、魔法使い達の左右非対称の瞳の方が美しく、恰好いいものの様に思いますけれど」
「そうなのか?」
「そうですわ」
「……そうか!」
「えぇ」
褒められたことにパッと笑顔を咲かせるソーニャを見て、可愛らしいと思うと同時に、魔法使いによる差別でソーニャの様な子供たちも苦しんでいると思うと、胸がとてもつらくなる。
「暗い顔をして、どうかしたのか?」
しまった。
今、リシアは自分が少し暗い顔をしてしまっていたことに気が付いて、咄嗟に「何でもないですわ」とほほ笑む。せっかく今はソーニャと楽しく会話をしているのだから、難しい事を考えるのは後にすべきだろう。
「リシア、リシア! リシアはソーニャの魔法を知りたいか?」
瞳を輝かせて、無邪気に言い放つソーニャ。ここで聞いてあげたいのは酷と言う者だろう。
「聞きたいですわ。わたくしに教えてくださいますの?」
「おぉ! 教えるぞ! ソーニャの魔法は『浸食移動』、認識しているものなら、どんなものでも移動させられる能力だ!」
「それって……」
リシアは驚愕を隠せなかった――ソーニャを疑うつもりはないが、彼女の話が真実ならばその魔法は圧倒的な力を秘めている。触らなければ発動できないユーリの『浸食固定』とは異なり、認識している物ならどんなものでも移動できる。
認識という範囲がどこまで適応されるかはわからないが、本当にただ『認識』しているだけの対象に能力を発動させられるとするならば、
「素晴らしいですわ」
その一言に尽きる。
「でもな、ソーニャの魔法は重い物を動かそうとすると、すぐに魔力がなくなっちゃうんだ」
なるほど、物理的な重さによって魔力の消費量がことなる魔法――それならば、元々の能力がそこまで強力なのも納得がいく。しかし、
「あなたの能力が素晴らしい事には変わりありませんわ」
「おぉ! 嬉しいぞ! それにリシアとソーニャの能力は似ているな、ソーニャはそれも嬉しい!」
テーブルに乗り出さん勢いで、こちらに身を乗り出してくるソーニャ。
「わたくしの魔法は物質を違う場所へと瞬時に移動させる能力」
「ソーニャは物を動かす魔法」
確かに似ているかもしれない。本質まで考えると別物ではあるが、表層的な『移動』という面ではこれ以上ないほど類似している。
「リシアも嬉しいか?」
やや不安そうなソーニャ――こんなに可愛い女の子とお揃いで、嬉しくないわけがない。
「嬉しいですわ、でもソーニャちゃんの力はいずれ、わたくしとは比べるべくもない強力なものになりそうですわね」
魔法は使用者が成長すれば威力も強まる。
ソーニャがユーリと同じ年齢まで成長すれば、おそらくデュオルだけでなく……この世界、ルオーネにおいてトップクラスの魔法となるはずだ。
それこそ最強と言われても過言ではないほど強力な物に。
「…………」
最強の魔法と言えば、ユーリから説明を受けた魔王の魔法――『絶対勝利』。
わたくしたちは本当に魔王を倒せますの?
そもそも魔王は運命を強引に捻じ曲げるほどの魔力をいったいどこから――
などと考えたところで、不覚にも睡魔が襲ってくる。そしてそれはどうやらソーニャも同じようで、
「ふぁあ……ソーニャ、眠い」
「わたくしもですわ、そろそろ寝ましょうか」
二人は片づけをした後、まるで姉妹の様に、仲良く手を繋いで互いの部屋の前に向かって歩いて行くのだった。
「これなら寝れそうですわ」
半ば眠っているリシアがこれから行う行動のせいで、翌日ちょっとした事件が起こるとも知らず、ゆっくり部屋へと入っていく。
●●●
「んぅ……朝?」
安いカーテンらしく、日光をまるで遮ってくれないせいである意味快適に目を覚ます。
「久しぶりだけど、相変わらず眩しい部屋だな。もう少し働いてくれてもいいのに」
しかし、カーテンがカーテンの役割をしていないが故にユーリが今、そしてここで暮してきた間起きられたのは、紛れもない事実なのであまり文句は言えない。
「…………」
何だろうかとても嫌な予感がする。
いや、予感とか曖昧なものではない。ユーリには確信があった――絶対的によろしくない何かが起きつつある。
「違う」
春夏秋冬、雨の日も嵐の日も――ここで生活した頃は毎朝このベッドで目を覚ましてきたが、今日ばかりはいつもと違う。圧倒的に何かが違う、違すぎるのだとユーリの五感が訴えてくる。
「もう現実逃避はよそう……こんなの時間の無駄だ」
あぁだこうだと考えてもわかっている。何が違うのかなど一瞬でわかる、眩しい朝日にやられて目を開けた瞬間わかった。だがそれを認めたくなかったがために、カーテンや朝日の話をし、決定的な瞬間が訪れるのを伸ばしたに過ぎない。
もう現実から目を逸らすのはやめよう。
「何でここに居るんだ……」
美少女のステータスたる金髪碧眼、芯がしっかりしていそうな美しい顔立ち。いつも服の内側から激しく自己主張をしてくる胸に至っては、リンの貧乳専用パジャマを借りたせいで拒絶反応を起こし、おっぱいビックバンを起こしてボロンしていた。
「ボタンが弾け飛んでいる――これが乳圧!?」
勝てない、リンが勝てるわけがない。
「いや、落ち着け僕! こんなことを考えている場合じゃない」
おそらく昨日何か用事があってリンの部屋を出た後、戻る際にその隣にあるユーリの部屋へと入ってきてしまったのだろう。しかも中は暗い……ベッドに誰が寝ているか確認しないまま眠れば、
「今の状況の完成ってわけか。いずれにせよ、このままリシアが起きたらまずい。リシアはリンと寝ていると思っているのに、隣に僕が居たら――」
そこでリシアの胸にあるピンク色の先端が目に入り、一時思考が停止。
「――うん、僕が隣に居たら絶対に問題になる」
ここはリシアの目が覚める前に撤退するに限ると、ベッドから出ようとすると、
「んみゅ……朝、ですの?」
リシア殿が起きてしまわれた。
「…………」
「…………」
初めは無言で見つめあっていた二人だったが、一瞬とも永遠とも思える時間が経つにつれて、リシアの顔が怒り、そして恥ずかしさといった感情で真っ赤になって行く。最終的にもうどうしていいのかわからなくなった感情は、押し寄せる溶岩となって噴火し
「~~~~~~~きゃっぁあああ―――――――――むぐっ!?」
「し、静かに!」
そうになった彼女の口を、ユーリは手で塞いでいた。
「もごっ! んぅ! んぅううううっ!」
両手をジタバタさせながら抗議の目を向けてくるリシア。だが今回ばかりは完全にそちらが悪いなのだと教えるべく、
「ちょっと聞いてください! ここは僕の部屋ですって! リシアがリンの部屋と間違い――ぐへっ!?」
突如布団の中で腹を蹴られてベッドから転がり落ちるユーリ。それをなした張本人は、自分の身を守るように布団を抱き寄せ、涙交じりの蔑む視線と共に言う。
「夜這いにしろ、わたくしが寝ている間に拉致するにしろ……破廉恥ですわ! そ、そこまでわたくしを思ってくれるのは嬉しいですけれど、ものには順序と言うものがありますのよ!?」
わかっていまして? と、リシア。
「いやいやいや! 夜這いも拉致をしてないかね!?」
「言い訳とは見苦しいですわ! わたくしと交際したいのならば、せめてコンビーフを十個くらいつみなさいな!」
「安い!?」
「わたくしの好きな銘柄は二十プルトップしますわよ!」
えっと、十プルトップであんぱん一つだから――と計算して、リシアがとても高い女であるのだろうと言う事を脳内で計算し始めるが、
「どっちにしろ安い!?」
安いというイメージは対して変わらなかった。
どうやらリシアは安いコンビーフ十個渡せば、付き合ってくれるらしい――覚えておこう。と、ユーリは何故か少しやる気が出たのだった。
とにかくリシアも少し落ち着いてきたみたいだし、本格的な説得に。と、再度弁解を始めようとしたユーリに更なる追撃がくる。
「さっきから何騒いで――っ」
「朝からうるさいぞ、にぃ……お、おぉ!」
ノックもせずにいつもの感覚で部屋へと入ってきたのは、愕然とした表情を浮かべる幼馴染様と、好奇心旺盛といった顔をした妹様だった。
この日、ユーリたちが住まう家から世界に届かんばかりの大音量が響くのだった。
「ユーリの、へんたぁあああああああああああああああああああああああああいっ!」
と。
「朝から酷い目にあった」
時は昼前、ユーリの実家を出てから二人は昨日の捜査の続きを行っていた。
「僕は何も悪くないのに……うぅ」
左頬に真っ赤なビンタマークをフェイスペイティングの如くつけられたユーリは、トボトボ第三者が一目見ただけで、見た方の元気すら奪う勢いで落ち込んでいるのだった。
「だらしないですわよユーリ!」
事の元凶である少女は、絶賛落ち込み中である少年の背をパシパシ叩いて続ける。
「最終的にはわかってもらえたんだから、そんなもの別にどうでもいいじゃないですの」
「うぅ……」
「もう、仕方ないですわね! 分かりましたわよ……中央に帰ったら、わたくしが直々にコンビーフ丼を奢って差し上げますわ!」
「……うぅ」
「そ、そんな泣く程喜ばれても困りますわ」
と、両頬に手をあててくねくね腰を動かすリシア。
念のために言っておくが、ユーリはコンビーフ丼など食べたいと思っていない。二度目の「うぅ」はむしろ、心から食べたくないという彼の心のうめきだ。
「話は変わりますけれど、どうやら今日の捜査は無事に終わりそうですわね」
「え?」
家を出てからここまで、ユーリとリシアはただ話しながら適当に歩いているだけで、捜査という体の散歩しかしていない。にもかかわらず、捜査が無事に終わりそうとはどういうことなのだろう。
ユーリは自分が思ったままに問うと、リシアは「全くもう……」と溜息を吐きながら。
「わたくしがただ単に歩き回っているだけだとでも思いまして?」
「え、それはもちろ――」
「…………」
無言のプレッシャーを感じる。
「も、もちろん思ってません」
ユーリの返事に納得言ったのか、リシアは年相応の声で明るく微笑みながら、
「その通りですわ! これまだ通ってきた場所は、隙だらけのわたくし達を襲うのに格好な場所でしたわ」
「そう言えば、確かに」
確かにここまでやけに暗い林の中や、街道から少し森の中に入った広場の様な場所を歩いてきた。
「昨日のワーウルフの様に、待ち伏せするほど頭がよく、兵士を何人も食べてしまうほどの大食漢が、こんなわたくし達を放っておくと思いまして?」
「思わない……じゃあ」
「えぇ、昨日のワーウルフ仲間が居たとしたら、わたくし達はとっくの昔に襲われていますわ」
つまり、今まで一度も襲われなかった以上、もう危険な魔物が存在している可能性は低い。リシアが言いたいのはそういう事だろう――それは強引ながらも、下手に理屈を並べられるよりも安心で信頼できる証拠に思える。
「やっぱり、リシアって凄いよね」
「いきなり何ですの? わたくしは軍の中将ですもの、これくらい出来て当たり前……これくらい出来なければいけませんわ」
「それでも、リシアは凄いよ……きっとリシアみたいな人が国を変えていけるんだよね」
国を中から変えたいと軍に入ったまま特に何もせずず、上からの圧力に怯んで何もしない自分などではない。目の前の彼女の様な人こそが、
「そう、世界を変えられるのは僕なんかじゃなくて――」
ピリリリリ……っと、やや滑稽な音共にユーリの暗く沈みかけていた思考は浮上する。
その音に真っ先に反応したリシアは、コンビーフその他諸々が入っていると思われるポケットから小型の電話機を取り出す――ユーリは初めて見たが、これが貴族達の間で大流行しているというケータイというものだろう。
淡く発光する画面に浮かぶ文字を見た後、最高に嫌そうな表情を浮かべるリシア。それだけで、だいたい誰からの着信なのかは知れたが、ユーリは礼儀として一応聞いてみる。
「誰から?」
「わかっていて聞かないでくれます? ……わたくしがこういう表情をする時はグレイスに決まっていますわ」
はぁっと魂が出そうなほど嫌そうな溜息一つ、
「リシアですわ、陛下からの任務はしっかりこなしましてよ? それとも何か追加の……何です? もう一度おっしゃってくださる?」
「リシア?」
最初は嫌そうな顔をしていたリシアだが、すぐさま真面目な顔に変わり、
「今どこに居るんですの? えぇ、えぇ……わかりましたわ。今すぐ行きますわ」
リシアはケータイを切り、すぐさまポケットに入れるや否や、ホルスターからキマイラを取り出す。
「ど、どうしたの?」
一変したリシアの表情と、先ほどの不穏な雰囲気が漂うグレイスとの会話。ただことではない何かが起きたのだと肌で感じ取ったユーリは、続けざまに問う。
「中央で何かあったの?」
その答えはいくつか予期していた中でも最悪のものだった。
「えぇ、ありましたわ」
「イクトリア中央の至る所に突如魔物が出現しましたわ」
「デュオル軍はイクトリアに居る兵を全て投入して鎮圧しようとしていますけれど、敵の数が多いだけでなく、まるでテレパシーで互いにやり取りしているのではないかというほど統率がとれていて、まともに応戦が出来ていないらしいですわ」
「っ――魔王」
「わたくしもそう思いますわ……ユーリ、わかっていますわね?」
言ってこちらに手を差し出してくるリシア。
ユーリはその手をしっかりと握る。すると彼女は自分のこめかみにキマイラの銃口をあて、目的地をイメージするかのように瞳を閉じると、
引き金を引くのだった。