第一話
ルオーネ暦990年四月、まだ肌寒さの残る季節に行われた軍事国家デュオル 首都イクトリア外周付近の戦いにおいて、ユーリが鉱山にて魔王を発見するも取り逃がしてかたら一日が経っていた。
「朝……か」
窓から差し込む光が照らしこんだ室内、お世辞にも綺麗とは言えない……むしろ劣悪と言っても過言ではないほど古び、汚れた部屋にあるボロボロの布団の上でユーリは目を覚ます。
ここは軍の中に存在する魔法使いのみで構成された部隊専用の寮だ、見回せば彼の他にも小さく汚い部屋の中で、大勢の魔法使い達がところせましと眠っている。
「昨日の戦いでみんな疲れているんだろうな」
昨日と言えば、ユーリが一番大変だったのは魔王と戦った後かもしれない。ふと思い返せば昨日、魔王ことラグナがアリスと共に天井に大穴を逃げ去った際、当然と言えば当然の事なのだが、残っていた彼めがけて天井から大量の土砂が降り注いできたのだ。
なんとかそれを躱して安全な場所に退避したまではいいが、不幸というか災難といか……その類の出来事は続くときはひたすらに続くものなのだ。息つく暇もなく次に彼を襲ってきたのは不穏な揺れと地響きだった。
「はぁ、まさか僕が通ってきた坑道が崩落し始めるとはな……でも一か所だけとはいえ、あの規模の爆発が起きればそれも仕方ないのかな」
あの時は本当に死ぬかと思った。
「まだ朝早いし、僕もまだ十分に疲れが取れていないことだし寝なおそう」
もう一度布団に戻り、一時の幸せな夢の中に浸ろとした正にその時。
「ユーリは居るか!」
部屋の外からユーリを呼ぶ声が聞こえてくる。
「グレイス閣下がお呼びである! 至急、司令室へと来るように!」
まだ眠っている人が大勢いるにもかかわらず、無遠慮に投げかけられる言葉。案の定、部屋の中では何事かと眠りから覚めつつある魔法使い達が数人いる。そんな彼らを見てユーリは気まずくなり「すぐに行きます」と、そそくさ着替え出す。
「僕も魔王について得た情報を伝えないといけないと思っていたし、ちょうどいいのかな」
昨日は敵を逃がしてしまったとはいえ、ユーリは大きな情報を掴んだという確信をしていた。それは名前と魔法である。
「『絶対勝利』の魔法を行使する魔王ラグナ、それに黒騎士アリス……」
魔王という言葉と、片目にのみに開眼している赤い瞳から、魔法使いであるという事は今までもわかってはいたが、その魔法までは決して知る事は出来なかった。名前がわかったことも大きいが、魔法の能力が知れたことはかなりのアドバンテージになるだろう。
「でもあの魔法……もし本当に魔王の言う通りの能力だったとしたら、僕たちは勝つことが出来るのか?」
おそらくは無理だ。
ユーリは同じ魔法使い故に……いや、魔法使いならば誰しもがわかるだろう。絶対に勝つなどという因果や運命、さらには確率に干渉出来るような魔法は未だかつて聞いた事がない。
「それが出来るというなら、魔王は一体どれだけの魔力を――」
「屑の分際でいつまで待たせる気だ!」
響き渡る侮辱の言葉と怒声。
ユーリは言い返したいのをグッと堪えて、着替えるスピードを速めるのだった。
窓から見えるのは冷たい鉄製の建物が乱立する王都イクトリアの風景。
「…………」
司令室へと続く廊下に響く二つの足音。
それはユーリと、先ほど彼を迎えに来た人の足音だ。
「…………」
目の前を歩く件の男は、顔をこれでもかと言うほどイライラした様に歪め、一刻も早くこの場を立ち去りたいというかのように踵を激しく鳴らして歩いている。
そんなに魔法使いと共に居る事が耐えられないのだろうか。でも今の世界ならば、それも仕方がないだろう。と、ユーリはこれ以上この気まずい空気を認識するのをやめ、半ば逃避気味に辺りを見回す。
そこにあるのは廊下だ。しかし、ただの廊下ではない――輝くまでに磨かれた大理石の廊下に敷かれているのは、土足で踏んでもいいのだろうかと疑問に思ってしまうほどの美しい赤い絨毯。それだけでもユーリたち魔法使いに与えられている薄汚い寮とは大違いなのに、廊下を彩るように飾られた高そうな彫刻や絵画が、さらに見る者を圧倒してくる。
前に司令室に呼ばれた時も見たことがあったけど、やっぱりすごいな。
ここにかけたお金の一部分でも寮に回してくれれば、軍での魔法使いたちの生活は大分いいものになるだろうに。彼が溜息を漏らしながら考えると、
「着いたぞ、入れ! 失礼のない様にな……この劣悪種が」
「……はい、ありがとうございます」
最後の言葉は聞かなかったことにし、ユーリはそそくさとこの場から離れていく男に一応の礼を言う。
「さて」
心に満ちた嫌なものを振り払いつつ、ユーリは司令室のドアノブに手をか――
「全く話になりませんわ!」
「話にならないのはこちらだ! そもそも劣等種との混じり者と話す価値すらない!」
けようとしたが、今まさに入ろうとした部屋の中から聞こえてくる声に、ユーリはピクリと動作を止める。
「混じり者ですって……それはわたくしを侮辱していると受け取っていいんですの?」
「ふん、どうやら屑の耳は使い物にならないらしいな。それ以外にどう聞こえたのだ?」
「さっきから屑だの劣等種だのと、あなたはいつまでそんな下らない事に固執しているんですの? わたくしの事を散々貶して満足しているようですけれど、本当に貶されるべきは頭が凝り固まったロートルではなくて?」
「き、貴様! それは誰の事を言っている!?」
「別に誰の事でもないですけれど、もし自覚があるのなら気を付けた方がいいのではなくて?」
「貴様ぁ……もういい! 薄汚れた血が流れた混血は、報告だけしてさっさと失せろ!」
「えぇ、言われなくてもそうさせてもらいますわ」
室内から響いてくる大音量の怒声。
片方の何かと口汚く罵っているのは間違いなくグレイスだろうが、もう片方の女性の声には聞き覚えがなかった――声の感じからすると、かなり若い少女のものだろうという事はわかるのだが。
「何でもいいけどこれ、入りたくないな」
魔法使いを毛嫌いしているグレイスとの会話はただでさえ疲れるのに、謎の少女の会話で怒り心頭の今の彼とは、全力で会話するのを遠慮したい。例え中に居るのがグレイスでなかったとしても、喧嘩の真っ最中であろう部屋の中には入りたくない。
それがユーリの本音であった。
「でもそんなこと言ってられないしな……はぁ」
間接的とはいえ、ユーリはグレイスに呼び出された身だ。にもかからず、彼の前に現れるのがあまりに遅ければ、それを口実に確実に何かの罰則を課してくるだろう。
「よし、行こう」
覚悟を決めてユーリは扉をノックし、ドアノブに手をかけ「失礼します」と言いながら司令室へと入っていく。
「……えっと」
注がれる二つの視線に、ユーリは立ちすくむ。
見るからに高そうな装飾剣や銃、今では決して使わないような鎧が飾られた部屋の最奥、窓から差し込む朝日を背景に設けられた椅子へと座り、豪華な机に肘をついているのはユーリと同じくデュオルの軍服を着た男、グレイス。傷だらけで巌の様な禿げ頭に、筋肉で覆われたクマの様に大きな体格は彼以外にはありえないだろう。
そしてもう一人。いかにも機嫌が悪そうなグレイスの前に、机を挟んで立っている少女――彼女は黒を基調に金の装飾がなされたブレザーに、グレーの短めのスカートという軍で働く女性に支給される制服に身を包んでいる。太陽の様に輝く金色の髪はツーサイドアップにまとめられ、大空の様に吸い込まれそうな青色をした、意思の強さを感じさせられる瞳でこちらを睨み付けている。
「ふん、やっと来たか! どれだけ私を待たせる気だ、この劣等種の屑が!」
ユーリが少女をしっかりと確認する前にかけられるのは、案の定いつも以上にイライラしているグレイスの声。
「申し訳ありません、室内で話し声がきこえたので――」
「言い訳はいい! 屑の言い訳など聞きたくもないわ!」
グレイスは一喝した後、少女に部屋の隅で控えているように指示し、ユーリを自分の前へと呼び寄せる。
彼の下へと向かう際に少女とすれ違い、優しく暖かいような……はたまた果物の様ないい香りがしたが、ユーリにはすぐにそんなことを気にしている余裕なくなる。
「貴様のような劣等種の屑を呼んだの他でもない」
怠そうに机の上を人差し指で小刻みにノックしながら、さもどうでもいい事を告げるようにグレイスは言う。
「先の戦の際、貴様は勝手に戦線から離脱し戻って来なかったそうだな?」
「いや、それは――」
「言い訳はいいと言っているだろ!」
それは魔王を止めるためだと言う暇もなくグレイスは続ける。
「よって貴様は命令違反及び、軍からの脱走の罪で公開処刑にさせてもらう」
「なっ――」
「貴様に同居している幼馴染と妹も居るようだな? そいつらも死刑にしてやろう、危険分子は速めに処分するに限るからな」
公開処刑? 誰が? 幼馴染と妹も?
ユーリの頭の中で様々な言葉が回る、今起きている事が全く認識できない。
自分は魔王を止めるために戦線から離れた。それは言い訳のしようもない事実だ……しかし、その行動は次々に現れる魔物を止めるためであり、ひいては軍のための行動と言えるはずなのに何で、正しい事をしたはずなのに何で処刑されなければならないのだ。
ユーリは自分の人生が理不尽に終わりを迎えそうになっていることを自覚し、ますますパニックに陥っていくが、彼はそれでも思考を捨てる事はせず、言葉を発する努力をする。
「待ってください! 僕は魔王を止めるために戦線から離れたんです! それにソーニャとリンは関係ない!」
「ふん、そんなことを信じられるとでも思っているのか? それに何だ、関係ない? 関係ないならそうだな……お前の幼馴染と妹は地下の浄水施設で死ぬまで働かせてやろう。いやまて、調べによると二人は容姿もいいようだし、奴隷商人にでも引き渡すことにしようか? もっとも、死刑の方が楽かもしれないがな」
目の前が真っ赤に染まり、頭の中で何かが弾けた気がした。
「っ――グレイスぅうううう!」
ユーリは咄嗟にグレイスを殴るために、右腕を思い切り引き、突き出すが。
「誰を呼び捨てにしている、この劣等種が!」
「がは――っ!?」
一体何をされたのか、気が付けば片腕を決められたまま机へと叩き付けられていた。それでもユーリは何とか抜け出そうと抵抗するが、正にクマの様な力を持つグレイスには敵わない。
「衛兵! 反逆者だ、こいつをさっさと牢へと連れていけ!」
「このっ、離してください!」
すぐさまやってきた衛兵に頭や首を抑えられ、咄嗟に魔法を使おうと魔力を練るが。
「っ――」
ユーリの体が一瞬大きく撥ねたかと思うと、彼はそれっきり動かなくなってしまう。そんな彼を見ながらグレイスは「屑が」と、まるで汚物でも見るかの様に吐き捨てた。
●●●
「……う」
気が付くとユーリは見慣れない場所に横たわっていた。
辺りはそこに居る者の気を滅入らすかのように暗く、一刻も早くこの場から立ち去りたいと思うほどジメジメしている――何ともわからない汚れがこびりつき、グロテスクな虫がはいずりまわっているここは、前面を鉄格子で覆われている事から一目瞭然だ。
「そうか、僕は処刑されそうになって」
それで抵抗して電流を流され、気絶したところで牢屋に入れられたのだと、首へと手をやる。
ユーリの首についているのはコンパクトだが、とても頑丈そうな作りをしている鉄製の首輪――これは何も牢屋に入れられたユーリにだけついているものではない。この世界で暮す魔法使いと呼ばれる人々の首には、特定の例外を除いてほぼこの首輪が付けられている。
首輪をつける理由は主にグレイスが言っていたことに起因する。
「劣等種、か」
人間と魔法使い。
本来ならばどちらも『人間』であるはずなのだが、魔力を持たない人間たちは魔法使いの事を人間とは思っておらず、まるで種族の違う奴隷の様に扱っているのだ。そしてユーリの首についた首輪が、彼が先ほどの様に逆らった際にすぐさま鎮圧出来るようにするためのもの。
本当の意味での首輪なのだ。
「…………」
ユーリは牢屋の隅で丸くなり、消え入りそうな気持で考えていた。
「魔法使いの扱いはわかっていたけど、何でこんなことに」
グレイスは自分だけではなく、本当に妹のソーニャや幼馴染のリンにまで危害を加えるつもりだろうか。
「僕のせい、なのか?」
あの時、魔王を止めるために戦線を離れたのは確かに脱走と取られてもおかしくない行動だったかもしれない。しかし、確かに正しい行動であったはずだ。にもかかわらず弁解の機会すら与えられず下された処刑の命令、おまけに抵抗したらすぐに牢屋。
このままでは殺される。
妹も幼馴染も全員殺される……いや、グレイスの言っている事が本当ならば、二人はもっと悲惨な目にあうかもしれない、死んだ方がましと思えるほど悲惨な目に。
ユーリがただの人間ならば、公正な法の下に裁判が開かれ、多くの人の目と考えによって適切な判決が下っただろう。
「あくまで僕がただの人間だったらの話だけど」
魔法使いが奴隷と認識されており、要職についているのは全員が魔力を持たない人間――つまり裁判官や弁護士も全員が魔法使いを毛嫌いし、グレイスと同じく劣等種だの屑だのと言って目の敵にしているのだ。
「っ」
途端に体が震えてくる。
自分が処刑されること、処刑された後に残された人がどうなるのかという事を考えると、体中が震えてくれる。歯がかみ合わないほどガチガチと震えている。
怖い。
今まで必至に感情を抑えていたユーリだったが、気が付くと嗚咽しながら泣いていた――怖くてたまらないのだ、これから待ち受ける事が怖くてたまらない。
「僕はこのまま死ぬのか?」
死にたくない、このまま死ぬことは出来ない。その一心で漏らしたユーリの心からの声に、
「えぇ、このままでは死ぬわね」
静かに透き通る声で答える者があった。
ユーリが見上げた先、司令室で見たのと全く同じ意思の強そうな瞳でこちらを見て、女神の様に美しい金色の髪を持った彼女は言う。
「わたくしにさっきの話を聞かせてみなさい、魔法使い」