公募
『ねえ、あなた何日か、こっちに泊りに来ない?』
『何かあったの?』
山下兼子が娘に電話をしていた。
『最近、変なことばかりなのよ。』
夜中にある無言電話や、玄関傍にペンキがまかれていたことなどを説明した。
『わかった。とにかく今から行くから。』
「これは、完全にいやがらせね。」
幼子を連れ、実家に戻った娘は、ブロック塀などが赤く塗られた玄関を見て言った。兄妹はそれぞれ結婚と同時に家を出ており、兼子は夫を六年前に病で亡くしてからは奈良の郊外の一軒家に一人暮らしとなっていた。
「お兄ちゃんはなんて?」
「あの子はあてにしてないわ。」
「何か思い当たることないの?」
「無いことはないのよ。」
兼子は孫をあやしながら言った。
「裏の岡沢さん。」
最近小型犬を飼っている家庭が多く、岡沢の家でも一年程前から、テリアを2匹室内で飼っていた。一日中熱い真夏のこと、兼子は険約と健康面より極力冷房を使わず、窓を空け風を通すようにしていた。岡沢の犬たちがよく吠えるのである。散歩などでほかの犬が前の道を通るたびに、キャンキャン、ギャンギャンと時間お構いなし、吠えたてる。
「今は涼しくなったので窓を開けてないから、気にならなくなったけど、その時はなかなか眠れないし、ノイローゼになりそうだったので、3回ほど注意しに行ったのよ。」
「お母さんのことだったら、注意でなく文句でしょ。ふん。あやしいかもね。わたし、岡沢さんに話を聞いてくるわ。」
「よしなさいよ。こじれたら近所付き合いがおかしくなるじゃない。」
「だけど、私もここにずっといるわけにはいかないから、それとなくよ。」
娘は行動が早かった。
娘は岡沢の家から戻ってきた。
「岡沢さんは、シロね。」
「なんで?」
「犬が吠えるのを岡沢さんちでも気にしてたみたい。だから『犬のしつけ』? 業者に頼んで、今じゃあおとなしくなったようよ。」
「そうだったの。よかったわ。」
「逆に怪しい人とか見かけたら、見張ってくれるよう頼んどいたわ。・・・さて、ほかには?」
「なにが?」
「次の疑いよ。」
「そんなに恨まれるような人間じゃないわ。・・・
・・・もしかして?」
「それよ。」
「何も言ってないじゃない。」
九月二十八日(日)早朝、関西の私鉄、京阪電車の特急は、京都に向け、大阪、京橋の駅を出た。
「さあ、みなさん。これが今日の山ですよ。」
一人の男がホッチキス留めの三枚の紙を近くに座
っている乗客に配りだした。その紙は地形図が二枚、三枚目は名簿、手作りのコピーであった。
「個人情報なので住所の番地は伏せてあるけど、今日一日のお仲間なので、名前は覚えてくださいね。・・・はい、それと今日のお昼。おにぎり三個。集合前に駅のコンビニで買いました。女房に握らせたほうが味わいがあるかもしれへんが、私を置いて先に高い山に登って行ったものでね。へへ。」
特急の二両目、男のほかに五人の男女が二人シートの四つ、右側と左側三人づつで座っていた。
「このまま終点、出町柳でバスに乗ります。お茶とか買い忘れた方は出町柳で少々時間があるので。蛇谷ヶ峰、比良山系の北のほうです。行かれた方もいますかね。関西百名山だから、登山者もいるでしょう。」
男は話を続けた。どうやらグループのリーダー格である。名簿を見ながら、
「ええ、西宮の○○さん。茨木の金本さん。ええ、河内長野の○○さんは、三回目ですか?」
「黒さん、今日で四回目ですわ。」
「失礼、毎度おおきに。それと、奈良の山下さんと、和歌山の白浜から○○さん。えらい遠くからやけど電車ありました?」
「いえ、大阪のホテルに前泊ですわ。」
「そうですかぁ。金かかりますなぁ。・・・金本さんと山下さんは見ての通り女性です。山では女性のほうがたいがい強いから、ほかのみなさんは追いて行かれんように、へへ。」
見たところ四十以上の中高年登山グループである。
黒谷は毎週日曜日にこの会を催していた。毎回インターネットで公募しており、『黒さんの大阪発拾千山歩』と題していた。拾千とは、会費が一万円で交通費、昼食代、登山後の入浴代などを賄っていた。公募ののちに定員八名のメールで締め切られる。定員に残ったものに集合駅と時間を返信するだけでどこに行くのか当日まで知らされない。しかしながら山行後は熱心な記録が、ブログにアップされるため、参加者は楽しみとなり、人気があった。
「メール申込みは一人で一件としているので、友達連れはなかなか当たりませんわ。この会で知り合いになったら、その人同士で行ったらよろしい。その連れ合いが見つからん人の助けになるかと思ってやりだしたけど、ほんまは私がいろんな人と出会うことになってしもて。」
一人が聞いた。
「ブログ見てるけど、関西でもメジャーどころは企画されてへんけど、中には地図に名前のない山もある。」
「金剛山とか、六甲山とか、いつでも行けるやろ。実は自分が行ったことないとこ選んどるんや。ほんまは下見くらいしとかなあかんけど、それじゃあこっちがものたらん。へへ。ええかげんやろ。それでもようけ応募があって、日曜に行かれへん人のために、水曜日も来月から月二回始める、もう忙しいてしゃあない。」
「一回の人数増やしたら?」
誰かが尋ねた。
「タクシー乗ったとして、三台で私入れて九人。それ以上は目がとどかん。」
京阪特急は京都府に入ろうとしていた。
「お母さん、山登りなんかしてたの?」
「ちょっとよ。」
「そこで何かあったの?」
朽木学校前行きのバスは出町柳を七時四十五分出発した。さながら登山バスとなっており、多くの登山客が乗り込み、京都バスは二台目の増便も出した。
バスは京都市内を北に抜け、比叡山の西の谷を辿り三千院の大原を過ぎる。途中越より滋賀県に入ると比良山地の真っただ中となり、そこここで登山客がぞろぞろ降り出す。
琵琶湖側が表だとすると、裏側から蓬莱山や武奈ケ岳の比良山系の有名どころの山を目指すのがほとんどだ。大津市から高島市に入るとバスに残っている乗客は、黒谷のグループ六人だけとなっていた。その六人も桑野橋バス停で降りると、運転手だけで終点に向う。
「さあ、仕度よろしいか?いきましょか。今日は静かな登山となるやろぉ。」
谷合に安曇川で作られたわずか五百メートル幅の平地の水田は稲刈りが済んでいた。一行は大野の集落をぬけ舗装された林道をくねくね登り出した。
グループ登山ではそのスキルレベルが著しく合わない場合厄介となる。
林道が終わり山道となると女性の一人、金本多恵子が遅れだした。ほかの五人に比べ、息使いが荒くなっていた。
「金本はん、大丈夫でっか?」
黒谷は声をかけた。
「その靴じゃあかんわ。応募要項に書いてあったやろぉ。スニーカーはダメと。まあ個人の判断に任すとも書いてたけどな。へへ。」
「すいません、大丈夫ですから。」
主催者黒谷は初めは先頭を進んでいたが、最後尾に回った。先の四人と、金本との間が開きだした。四人がたびたび後ろを振り返り、ときどき立ち止まるようになる。
「この先は頂上までほとんど一本道だと思うから、そっちはそっちのペースで登ってや。金本さんはワシと一緒に上がるから。」
こうなると、ややパニック状態となり、はあはあ、はあはあと息が上がり、血の気も引いていくような気分となる。
先行の四人は、頂上に登りあがった。天気も良く東側に琵琶湖の湖面が見渡せた。琵琶湖側からか、武奈ケ岳からの長距離縦走か、頂上にはほかの登山者が十五人ほどいた。
黒谷と金本が頂上に着いたのは、二十分ほど遅れてからであった。金本の荷物は黒谷が持っていた。
「ほう、ええ景色やな。はい、お待ちどうさん。食事しましょか。」
金本は、水を飲みその場にへたり込んでしまった。
五人はいろんな話をしながらおにぎりをほお張った。金本は、少し離れた場所で、むりやり押しこんでいるようであった。五人が話で笑っている時もその話の内容すら入ってこなかった。
「はい、どうぞ。」
山下が持参したカットフルーツを配り出した。
「山下さん、それはルール違反ですわ。みんながそんなんしだしたら、収拾が付かへんから。・・・まあ今日はええか。ほないただきます。へへ。」
黒谷は、参加者の格差が出るのを嫌った。なので、応募要項で差し入れは禁止としていた。
「金本さん、大丈夫?黒さんの許し出たから、つまんで下さい。元気でるかも。」
山下は金本のそばに行き、フルーツの入ったタッパを差し出した。金本は言葉が出ずうつむきがちで、手を三・四回横に振った。
下りは、北側の温泉を目指した。やはり、四人と二人でペースが異なり離れていった。金本は片足を引きずり出すようにもなった。黒谷は帰りのバスを一本遅らせることにした。
帰りの電車の中、黒谷は会費の中から買い込んだビールを配った。六人の中、駅にバイクを置いているからと金本だけが飲むことができず、会話にも加わらなかった。
「その金本さんが怪しいというのね。でも、そうだったら逆恨みもいいところだわ。」
山下の娘は言った。
娘は兼子に促されるまま、その日は子供とともに実家に泊った。
その次の日、山下家に住み着いているネコが帰ってきた。
「キャー。何これ。」
その猫の腹の部分が真っ赤に染まっていた。よく見るとやはりペンキであった。
「もう、我慢できない。」
山下の娘は、母親を連れ警察に届けた。
「金本さんかしら?」
「念のため黒さんに聞いてみるわ。」
兼子は黒谷に電話した。
『そういえば、先日金本さんからも電話があって、その時のメンバーの住所が知りたいって。』
『それで、教えたんですか?』
『ああ、なんでもみんなに迷惑をかけたので、お詫びがしたいと言われたんで。へへ。』
「やっぱり、金本だわ。」
娘はいてもたってもいられなくなり、兼子を連れ、黒谷に聞いた茨木市の金本のマンションを訪ねた。金本多恵子は在宅していた。
『はい。』
『山下です。山下兼子です。』
『えっ?』
多恵子はインターホンの向こうで、驚いたようであった。
「どうしたの、山下さん。」
「・・・」
「そちらは?」
「わたし、兼子の娘です。」
「どうしたの? 実は山下さんのお宅にも、お詫びに伺おうと思ってたんですよ。」
「はあ?しらじらしい。」娘が口に出すと、
「えっ。」
「ちょっと、あなたは黙ってなさい。ごめんなさいねえ、金本さん。」
「え、いえ、・・・まあ、上がって下さいな。」
家の中はきちんと片付いていた。多恵子はこの前と違いよくしゃべりだした。
「ごめんなさいね、この間は。恥ずかしいけど、足の指が巻き爪になってたのよ。あんなに痛み出すとは思わなかったので。」
「へえ、そうだったのぉ。」
娘は様子をうかがっているのか、二人の会話に口をはさまなかった。
「昨日は西宮の○○さんの所にお詫びに伺ったの。」
「あの日一日のことだから、そんなことしなくていいのに。」
「爪が治ったら、また参加したくて。その時に同じ人に逢ったらなんか気まずいでしょ。」
「そうだったのぉ。」
それから、二人はいろんな話をした。兼子は最近のいやがらせについても、話題にした。
「それは、たいへんねぇ。もう警察に任せて、なるべく気にしない方がいいんじゃないかしら。」
多恵子は被害を受けている当事者じゃないので、無責任ともとれる慰めを言った。
「そうかもね。でも本当につらいのよ。」
母娘はマンションを出た。
「あっ、そういえば何しに来たのか言ってなかったわ。」
「わたし、やっぱり怪しいと思うのよ。」
娘は帰りの電車の中でそう思った。
二日後の昼下がり、表で騒々しい音が兼子の耳に入って来た。娘はその日も実家に来ていた。音が止むとしばらくして、家のインターホンが鳴った。
『奈良県警ですが。』
娘が玄関に出ると、
「おにいちゃん?。」
スーツを着た警察らしき男に、兄が連れられていた。
「この男が、お宅の庭に生ごみを投げ入れていましたよ。」
これまでの出来事は、兼子の息子の仕業だった。先月借金の申し出を全く無視されたことによる腹いせという信じがたい行動であった。
その後、山下兼子は金本多恵子と連絡を取り、たびたび二人で近辺の山歩きに出かけるようになっていた。