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ケースファイル1 中学を卒業してから30歳まで働いたことがない青年

 朝一から相談の電話が鳴りやまない。次から次へと電話が掛かってくる。ワンコールで電話を取るのが基本なので、朝9時~10時の間はトイレにも行けない時がある。おまけに来所する人達もいるので、その対応にも追われる。生活保護のケースワーカーの仕事は、困っている人達の悩みを聴く所から始まる。就職相談、借金問題、精神的な悩み、年金、介護問題、生活に関する悩み等、相談内容はその世帯によって様々だ。時には恋愛相談や親子喧嘩の仲裁ということもある。本当に毎日毎日これだけの問題があるのかと思うくらい相談が寄せられる。下手な週刊誌より内容は濃いかもしれない。あまりにも考える範囲が広範囲に及ぶので、その都度調べることが多い。大よそ自分の経験をしたことのない悩みが大半なので、それに対してのアドバイスをするとなると困難を極める。適当に話をして誤魔化すことも出来るかもしれないが、それでは何の解決にもならない。それが分っているので、なるべく解決に向け必死に考えるが、大半は根本の解決までには至らない。いくら考え、建設的な意見やアドバイスをした所で、動くのは本人であり、問題の原因は誰あろう本人にあることが多く、周囲を変えるより、まず自分を変える所が先決なわけだが、それをしようとしないので人生を転換することが出来ないのだ。今回はそんな悩める1人の青年にスポットを当てたいと思う。

 

名前 本田和樹 30歳独身 学歴中卒 職歴 土木作業員1~2か月 その他就労経験なし


「おい。いつになったら就職活動するんや?和樹、お前今年で30やろ!このままやったら、一生保護生活を送ることになるぞ」これが和樹と話す時の第一声だ。このやり取りをかれこれ3年は続けている。しかし、当の本人は、梅雨時期になると喘息とアトピーが酷くなり就活出来ないと言い訳ばかりをする。暖簾に腕押しとは正にこのことかもしれない。だが、ここで話を終わらす訳にはいかなかった。生活保護には、仕事が出来る人は自分の能力に応じて職探しをしなければならないからだ。もし、仕事が出来るにも関わらず就職活動をしなかったら、能力不活用で生活保護を停止、或るいは廃止になる可能性がある。現実に廃止になった人も何人かいる。ただ、よっぽど悪意が無い限り生活保護を廃止になることはない。人の生死にも関係があるので、保護費の給付を止めるのは非常に難しい。やる気の無い人間をその気にさせるのは、何よりも労力とエネルギーが必要である。働きたくない人間を働かすというのは本当に難しいことなのだ。現在の最低生活費は家賃込みで約12万あり、これをコンビニのアルバイト代に換算すると、1日時給800円で7時間働いた21日分の給料に相当する。これでは働きたくなるのも頷けると言うものだ・・・・・とこんなバカなことを考えると、やるせない気持ちにさせられる。しかし、このまま放っておくと和樹の人生が無くなるのは事実なので、自分の気持ちを切り替え、一つ一つ丁寧に和樹の心に入っていく。

「何かしたいことは無いんか?」

「無い事は無いけど・・・・」

「えっ?何がしたいんや?言うてみ」

正直驚いていた。彼が27歳の時から担当をしているが、やってみたいこという言葉を聞くのは初めてだったからだ。

「いや、いいです。どうせ無理ですから・・・・」

「そんなこと言うなよ。無理かどうかはやってみないと分らんやろ?」

心が踊っていた。彼の口から生きた言葉が出たからだ。今まで何を言っても、喘息が・・・アトピーが・・・・と毎回同じことを言って逃げていた男が、今こうして何かをしたいと言っているのだ。

それこそ、喘息が酷いとの訴えがあったので、彼の掛かっている医者に病状調査をしたこともあった。医者の意見は肺気腫になりかかっていると言うものだった。原因はタバコによるものだった。タバコを止めさせるために、禁煙外来に通わせるようにしたこともあった。これが原因で、彼の親族と大ゲンカをしたこともあった。

「ワレ誰の息子に上等コイとんじゃ。ケースワーカーがタバコを止めさせる権限があるんか?おっ?なめとったらシバクぞ!!」

「おたくの息子さんは、このままタバコを吸っていると、肺での自立呼吸が出来なくなり、近い将来酸素ボンベが必要なる」と数時間掛かって説明したことが過去にはあった。結果、禁煙外来に行かせ禁煙を成功させ、喘息はまだあるものの、以前に比べれば随分ましにはなった経緯がある。また、あまりにも動かないので、就職活動を無理やり強引にさせようとして、親族とぶつかったこともあった。和樹とその親族とは、この3年間に、色々な部分で衝突があり、だからこそ今回の言葉は涙が出るくらい嬉しかった。

「笑いませんか・・・・俺、こんなことを言うの初めてなんですよね。だって、中卒でしょ。字もまともに書けないし・・・・こんな職業に・・・・・」と和樹の目はカウンターに置いてあるボールペンをじっと眺めている。何か思いつめた目をしていた。

「お前のなりたい夢を聞かせてくれや・・・」と、和樹の気持ちを察し、周囲に聴こえない声で囁いた。

「実は・・・ヘルパーになりたいんですよね・・・可笑しいでしょ。いや・・・いいんです・・・」と言い、少し顔を赤らめた。

「ヘルパーか・・・・いや、望みはあるぞ!と言うか、今、一番需要がある業界や。でも、老人の下の世話をしないとアカンけど、出来るの?」

「それだったら大丈夫です。以前、おじいちゃんが生きてた時に、世話をしていたので・・・」

「オムツも換えてたの?」

「はい。毎日換えてました。」

和樹にこんなことが出来るとは思わなかったので、驚きと歓喜が交互に僕を襲い、テンションが知らずの内に高くなっていた。

 生活保護では、年始めに援助方針を立てる。その世帯を今年1年掛けて、どのように援助していくかを計画するのである。和樹の場合は、必要な医療機関に通院させ、喘息の治療を積極的に行わせることと、能力活用が出来るよう粘り強く指導する。という消極的な方針だった。我ながら情けないと思いながら、どうすれば就労意欲に繋がるのかが判らなかったし、和樹に自立する願望が無いように思えたからだ。じっくりと話を傾聴することで、和樹という人間を本当の意味で理解した瞬間だった。

「なるほど。凄いな。和樹にそんな能力があったとはな。なぜ今まで言わなかった?」

「だって、市来さんバカにするでしょ。」

市来一馬これが僕の名前だ。ケースワーカー歴10年だが、まだまだ分らないことが多い。未だ修業の身なのである。

「誰もバカにせんよ。仕事の話をすると言い訳ばかりするから、うるさく言うだけやんか。」

「だって、俺、字が書けないでしょ。それで高飛車だと思われるのが嫌だったんですよ。」

和樹は履歴書すら書いたことが無かった。いや、書けないと言った方が正しかった。就職活動をなかなかしなかったので、一時就活を中断して履歴書の書き方を指導したことがあった。辛うじて自分の名前や住所、学歴は書けるものの、職歴その他一切を文字で表せることが出来なかった。勿論、仕事を殆どしたことがないので、日雇い土木作業員1~2か月就労としか書きようがないのだが、それすら書けなかった。話によると、和樹が小学校低学年の時に両親が離婚し、父親に引き取られ、その父親が毎日夜遅くまで酒に溺れ帰って来ず、大阪のとある町で暴力事件を起こし会社をクビになってしまい家庭が滅茶苦茶になってしまった。和樹は学校どころではなくなったという暗い過去があった。それが原因で学習という情報ツールが絶たれてしまい、物の見方考え方が幼稚化してしまったことは言うまでもない。言わばネグレクトの犠牲者なのだ。

「和樹、お前資格を取れ」

「えっ?資格ですか?でも俺・・・全く字が読めないんですよ」

「ヘルパー2級の資格を兎に角取るんや。そうすれば、お前の人生が大きく変わるぞ。」

「でも、俺お金無いですよ・・」

「ええか和樹、ハローワークの職業訓練校の募集でヘルパー資格が取れるはずや。無料で取れて給付金まで出るはずや。一度職安に行ってみ。」

「そうなんですか?そんなこと知りませんでした。どうせ自分には無理だと思っていたので考えもしませんでした。でも、ずっと介護の仕事はしたかったんです。」

「ええか、字が読めんかったら読める人に聞け。恥やと思うな。聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥や。これを機会に和樹という人間を変えてみ。必死でやれ。お前なら出来るはずや。」

いつも何かに迷った弱々しい表情だった和樹が、ぱっと明るくなり、憑き物が取れたような顔をしていた。体中から力が漲っているようであった。

「市来さん。俺、真面目にやりますわ。本気でやりますから、俺に字の読み方とか教えてくれますか?」

「おっしゃ。いつでも来い。ええか、男が一度ヤルって決めたんや。絶対最後までやり遂げろよ。」

「はい。介護職になってみせます。」

こうして和樹は介護職になるために、資格を取ることになった。現在は介護職員初任者研修と呼び名が変わっているが、勉強内容は殆ど変っていないようである。僕は知識より本人のやる気が一番大切だと思っていた。老人の介護をするのに、専門知識は確かに必要であると思う。だが、老人を大切にする気持ちの無い者が介護をしたとしても、いくら知識があると言っても、介護を受ける側としては嬉しくないにちがいない。愛情の無い介護は、介護を受ける側にも伝わるものだ。しかし、和樹にはそれがあった。否、この時点ではありそうだったの方が正解かもしれない。和樹のやる気に可能性を感じながら、僕は心と魂が震えていたのだ。





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