勇者と魔王と
「…はぁっ…ゲホゲホッ!…はぁ…うー…ここまで…くれば…」
暗い森の中を走り続けて疲労が限界にきたリンドは木の幹に寄りかかりズルズルと座り込んだ。
全身汗だくで服が張り付き気持ちが悪い。
身体中が酸素を求めていて、大きく息をしながら、あとどのくらいでこの森を出る事が出来るだろうと考える。
リンドは今まで走ってきた後ろを振り返る。
(うん、追っ手はなし)
魔王城から上手く逃げ出す事が出来たのだと安心する。
――魔王城。魔の森の中にある魔王の住む城だ。
リンドは魔王と対峙する勇者としてその城に向かった……筈だった。
「はああぁ……何で、こんな事にぃ…」
一際大きく息を吐くと、リンドは過去を振り返った。
始まりは勇者の腕輪がある勇者寺院に行った事だった。
かつて世界を救った勇者が身に付けていた武具。その数は複数あり、それを各寺院は聖遺物として祀っていた。
『勇者の様に強く、目的に向かって道を進めます様に』
人々は願いを込めてお参りする。――時には少しの私欲も混ぜて。
リンドもそんな内の一人だった。
寺院の中に入り、高い位置に設けられた祭壇に祀られている勇者の腕輪の前に立つ。
願い事は口で直接言わなければ聞いてもらえないと言われている。
他の参拝者がしっかり聞いてもらう為に大きい声で願ったり、恥ずかしそうに小さい声で願いを言う中、リンドもお願いする。
「身体の具合がよくなりますよーに」
神頼みならぬ勇者頼みでここ数年原因不明の身体の不調の回復を願った。
願い事を口にしたとたん、体がふるりと震えた。自分の体を見ればキラキラと虹色の光が溢れだし、腕輪へと光が吸い込まれてゆく。光が全て腕輪へと吸い込まれるとリンドは体が軽くなっているのに気付いた。
いつも胸の辺りがもやもやとしていたのがなくなり、身体中の血が手足の先までちゃんと巡っている様に感じる。
視界の所々に鈍い光が走って物が見えづらかった目はハッキリと見える様になった。……未だにチラチラと小さな光が飛んでいるのが見えるが。
さっきまで音を聞こえづらくしていた耳鳴りも消えている。……代わりに小さな光から『あっ!魔力の流れが良くなってる!』、『気がちゃんと巡ってるよ』などと声が聞こえるが。
それでも格段によくなった体調に喜びが溢れる。
(凄い!村のお医者様でも治せなかったのに…)
しかし、変化があったのは身体の具合だけでは無かった。
気付けばリンドの周りを多くの人が取り囲んでいた。
「……勇者様?」
「勇者様だ…」
「勇者が現れた!」
リンドに向かって人々が興奮した様に言葉を発する。
「…えっ?…え〜と?どゆこと?」
勇者だ、勇者だ、と周りが騒ぐ中、寺院の関係者が数名やって来て此方へ、此方へ、と寺院の奥へと連れていかれた。
奥の部屋に案内され、長椅子に座らせられると、この寺院の寺院長と名乗る人が「あなたは勇者候補のようです」と言った。
そもそも“勇者”とは勇気をもって困難な何事かを成し遂げた人の事をいうので、まだ何も成していないリンドは資質はあるが勇者ではないという事らしい。
それでも暫定的に“勇者”とよばれる様だが。
そして勇者寺院でいうところの勇者の資質とはリンドがさっきまで悩ませられていた身体の不調の原因となっていた、魔力が高く精霊の存在を感じる事だった。
「私もあなたから膨大な魔力が光となって腕輪へと流れてゆくのを見ました!あれ程の魔力を見た事はありません」
やや興奮気味でこの部屋まで連れてきた人が言う。
「あのぅ、…精霊って?」
リンドが聞くと、答えてくれる。
「あなたの周りを飛んでいる光が見えませんか?それが精霊です。あなたを加護しています」
『そうそうー。リンドは危なっかしいからねー』
『ちゃんと見てないと!』
小さな光はリンドの周りをヒラヒラと飛びながら言葉を発した。
「この光が精霊なの?光るだけじゃなくて声も聞こえるけど…」
光の動きを目で追いかけていると寺院の人達は満足そうにした。
「見えているばかりか声も聞こえるとは!やはり、あなたは勇者の資質がある様です」
リンドは困った。
「あの、私は村娘で、ここに来たのだってただ身体の具合が良くなればいいなと思っただけで…、勇者なんてとても無理です」
だが、リンドは成長期に膨れ上がった魔力が上手く身体を巡らず、それが身体の不調を引き起こしていたのでは、と言われた。
「今は腕輪に魔力を吸われて過剰な魔力が無いから体調が良いのでしょう。それでも、あなたからは制御されない魔力が身の内から溢れてくるのを感じます。…あなたは寺院に留まり修行なさるのが肝要です」
説明を受けてリンドは困った。
(また具合が悪くなるの!?そんなの嫌!)
精霊が助けてくれたから大きな怪我こそしなかった様だが、体調不良はどうにもならなかった。
仕方無く家を出て修行をする事に決めた。
リンドの身は勇者寺院預かりとなり、勇者候補として国の承認も受けた。
ただの村娘から勇者候補になったリンドは修行に明け暮れた。
大地が水を吸い込む様に魔法や剣術を覚えていった。
男と比べて体力や筋力が劣るが補助魔法や体捌きを覚えて補う。
人を襲う魔物や獣との実戦にも出た。
初めは怖かったが、リンドは小さな村の娘だったので鶏等の家畜を自分で捌く事があった。村の男達が山狩りで得た獲物をどうやって仕留めたのかを、その肉を捌くのを手伝いながら聞いた事もあった。
何より寺院の仲間と自分を助けてくれる精霊がいる。
あらゆる事を経験してリンドは勇者としての力をつけていった。
修行も一年を過ぎた頃だ。
勇者候補として寺院と国に支援されるリンドは貴族や王族の開く夜会や宴会等に参加しなければならない事もあった。
正直堅苦しい場は遠慮したいが心証を悪くするのは不味いので、寺院の人と相談して最低限は出席していた。
――その日は王族が開いた夜会だった。
突然、国の国境にある魔の森に棲むという魔王からの使者が現れたのだ。
窓を開けていた露台から大きな梟が入って来て、宴の場になっている会場を一周し、人々が驚いて逃げて開けた場所に降りると、灰色の髪の青年男性へと変身して言葉を発した。
「楽しい宴の中、突然の訪問を申し訳ありません。我が主ウォルド様から伝言を預かり届けに参りました」
そう言うと両手で水晶で作られた魔法玉を床に置くと、それが光りだし玉の上に映像が映し出される。
現れたのは焦げ茶色の少し長めな髪にルビーの様な瞳の青年男性だった。着ている服は襟付きの白シャツに黒のズボンと極簡素だ。
だが、遠巻きに見ていたご婦人方が溜め息を吐く程見目がいい。
『…お初にお目にかかる。俺は魔の森に住むウォルドだ。この国に勇者が現れたと聞いた。話ではこちらの勇者殿は何とも可愛らしいと。是非とも会って話をしてみたい。……リンドよ、待っているぞ』
魔法玉から映像が消えると、使者は王に近付き蜜蝋で封印された筒状の手紙を両手にして差し出した。
そしてリンドにも近付き、「これはお近付きの印です」と小箱を差し出される。
傍にいる精霊が『いい物だよ、貰っちゃえー!』と言ったので、つい受け取ってしまった。
「それではこれで失礼致します」
使者は来た時と同じ露台へと戻り、一礼するとまた梟へと姿を変えて飛んで行った。
リンドは手紙を受け取った王の方へ目を向けた。
王と宰相とリンドの付き添いで一緒に来ていた寺院次長が手紙を見ながら何やら小声で話し合っている。
「あの、勇者様?使者は何をあなたに?」
「え?」
女性の声に振り向けば、遠巻きに見ていた人達がいつの間にか周りを囲んでいた。皆、箱の中身に興味があるらしい。
リンドが箱の蓋を開けると中には金の腕輪が入っていた。
少し細身の金の輪の表面に幾何学な紋様と赤や紫などの色石がついている。
「これは…魔法具ですね」
腕輪を見た男性が言った。
「まぁ…何の魔法具かしら?」
「詳しい訳ではないですが…おそらく守護の腕輪かと」
「魔王が勇者様に守護の腕輪を?」
(これって…喧嘩を売られたって事?)
リンドは考えた。
先程の“可愛らしい”は“勇者を名乗るのには弱々しい”という事か。
この腕輪は自分が魔の森の城まで無事に辿り着けまいという嫌味か。
手紙を受け取った王の方を見る。
何やら話し合っていた三人は互いに頷くとリンドの方を見て、王が一歩前に出て、口を開いた。
「リンドよ。そなたには魔の森のウォルドの下へと行ってもらいたい」
会場にどよめきが広がった。
王命とあっては勇者としては頷かざるを得ない。
「分かりました。これまで皆様に支援して頂いたご恩に報いる為に全力を尽くします」
「そなたが万全の態勢で行ける様に良い教師を揃えよう」
勇者が魔の森へと向かう事は国中に広まる事になった。
リンドの修行の内容が新たに加えられ、専門の教師達を紹介された。
「料理…ですか?普通には出来ますけど」
「普通では駄目です!どんな時でも美味しい食事!美味しいものは気分を盛り上げます!」
(確かに…)
辛い旅路の中、温かく美味しい食べ物は心を慰めるだろうと思った。
「上手な洗濯の仕方?」
「はい。清潔な衣類は心身に良いですからね」 戦闘で汚れた服や包帯。清潔に保つ事は病気の予防になる。リンドは頷いた。
同じ理由で良い風呂の入り方や肌や髪の手入れの仕方も教わった。
「裁縫…?修行とは関係ないんじゃ…」
「気分転換ですわ。それに女の子ですもの、上手になって損はないですよ?」
それもそうかと思い直す。勇者は一生の仕事ではないのだ。
「けいぼうじゅつ…?何かの技ですか?」
「それを今日は教えます」
リンドは男女の身体の神秘を教わった。
「……!!?わっ、私にはまだ早いです〜っ!!」
「これは一生の問題です。確と聞きなさい!」
……その夜、リンドはベッドの中で身悶えた。
そんな生活の中、お茶の時間はゆっくり出来る時だ。
お茶の相手はその時々で違うが、色々な話が聞けて楽しい。
「……何か修行の内容が替わってきてるんだよねぇ」
お茶を飲みながらリンドは呟いた。
「修行の内容?」
今日の相手は寺院仲間の一人だ。
「そう。前は剣や魔法、歴史の授業とかだったのに、今は料理や洗濯、あとは…ゴニョゴニョ…とにかく、何か生活染みてるっていうか…」
「前の修行はもう充分に極めたという事じゃない?」
(いや、まだ全然だし!)
「リンドはいずれ魔の森へ行くのでしょ?魔王ってどんな感じ?」
「どんなって…夜会で映像をちょっとしか見てないよ」
「でも顔は見たんでしょ?」
「顔か〜、…良かったよ。魔の森なんて不気味なところに住んでるには勿体無いくらいに」
「あ、本当にいいんだ?…でも仕方がないよね〜、魔王だし」
「…魔王だしって?」
「あ〜…、まぁ、その“魔王”ってのも渾名みたいなもんでさ、彼自身が名乗った事は無いらしいよ?…で、魔力が強すぎる人の傍にいるとその魔力の影響を受けるっていうのは習った?魔の森だって初めは只の森だったのよ。…いくらいい男でも、近寄ったら下手すると死んじゃうんじゃあ割りに合わないよね〜」
(…じゃあ、魔王って迷惑かけない様に森に引っ込んでいるって事?)
夜会で行き成り喧嘩を吹っ掛けてきたのに…とリンドは矛盾に思った。
「それに魔力が強すぎると寿命にも影響するのよね。彼が森に引っ込んだのは百年以上前だっていうし…。もし、どんなに若くて美しい娘が彼の下へ行っても、魔力が強くなければ自分だけ年老いてくのよね。考えただけで嫌だわー…」
リンドも魔力は強い。強すぎて体調を崩す程だった。
だが、今は修業の成果と、各地にある勇者寺院にある武具に魔力を込めたり、その道中で魔獣や猛獣、または賊との戦闘で消費したりと安定している。
自分の魔力がどれ程あるのかは知らないが精霊達はまだまだ増えるだろうと言っていた。
(じゃあ私の寿命って…?)
自分の身の事を考え込む前に話は続けられる。
「でもね、今の魔の森周辺って賑わってるらしいよ」
「賑わってる?」
くふふ、と彼女が笑って話す。
「夜会で魔王の姿を見た女性が集まっているんだって。美形なんでしょ?なんとか一目会いたいと魔の森に入るんだけど、いつの間にか森の外にいたり、具合が悪くなって戻ってきたりで、城まで辿り着けないんだって」
さすがに魔の森という事かとリンドは頷く。
「で、森の近くの村に仮設の旅館が出来たり、お医者さんが来たり、魔王の姿絵を描く画家が来たり…あ、あんたの姿絵もあるらしいよ?…あと“魔王”と“勇者”饅頭が売り出されたりー…」
「な、何それ?」
「魔王っていっても、この百年以上悪さなんてなかったんだから、怖いって思うより便乗商売に精を出してるみたいね〜」
「逞しいのね…」
増えた修業で忙しいリンドはそんな事になっているとは知らなかった。
「ところで、その腕輪!それが魔王から贈られた物?」
「え、あ〜…そうだよ。…ちょっと試しに着けてみたら取れなくなって…」
リンドの左手首には魔王の腕輪がある。少しの好奇心で手首に通したら輪が縮んで外す事が出来なくなってしまった。
縮み続けて腕が落とされるのではないかとその時は焦ったが、腕輪は丁度良い緩さのところで止まった。それからは着けたままだ。
「へー…守護の腕輪なんでしょ?綺麗ねぇ」
「いや、魔王に守られる勇者ってどうなのよ?」
「確かに!」
アハハッ、と互いに笑ってお茶の時間は終わった。
それから程無くして勇者は魔の森へと向かう事になった。
王と寺院長からは「彼の者と対話をし、その人となりを己の身で見極めよ」と言われた。
魔の森への道程は楽なものだった。国土の端にある魔の森まで国が出した騎士に守られ、馬車に揺られて行った。楽すぎて居眠りした程だ。
だが、魔の森から先は徒歩だ。
森の中は人を拒む魔法がかけられている。人が入らないから道など無い。鬱蒼とした木々が遠くまで見えるだけだ。
森の前には中に入りたい女性達や彼女達を守る護衛の人達、それを相手に商売する人達で賑わっていた。ちょっとしたお祭りみたいだ。
馬車から降りたリンドに女性達が睨み付けるのを感じるが、口にはしてこなかった。
徒歩となるため、荷を入れた背負い袋を背負う。
リンドが森へと足を踏み入れると少し距離を取りながら彼女達も付いてくる。勇者と一緒なら辿り着けるのでは?という考えの様だ。
――だが、暫く進むとあっという間に霧が出てきて視界が悪くなり、気が付けばリンド一人が霞む城を目の前に立っていた。
城というには堀も城壁も無いが森自体がその代わりなのだろう。
やや小作りの城の前にはその主のウォルドと宴の日に現れた使者の男性が待っていた。
「ようこそ、俺の城へ。初めましてだな、ウォルドだ」
「改めまして、執事のエレウです」
「…初めまして、リンドです」
挨拶もそこそこに城の中へと案内される。
城は以外と小綺麗だった。
そしてウォルドは自ら城の中を案内してくれた。
リンドは客室に案内され、部屋にある物は好きに使っていいと言われ、荷を置いた後で茶の場に誘われた。
「俺は君に大変興味がある。此方から誘ってわざわざ来てもらったんだ。暫く逗留してもらってお互いに交流をしたいと望んでいる」
居間でエレウが入れた紅茶を飲みながら話すウォルドは穏やかだ。
“魔王”というからには“勇者”に対して敵対的な態度をとるかと思ったが、城の前で迎えられてからの彼から悪い印象は無い。
それに王達から言われた事もある。
「私も、折角ですから実りあるものを得たいです。お言葉に甘えて滞在させて頂きます」
その日からリンドとウォルドは多くの事を語り合った。
寺院での修業や何故勇者候補になったのか、その前の役立たずだった自分の事、好きなお茶やお菓子、初めて魔法を使った時の気持ち、初めての戦闘の事、家族の事。
ウォルドからは魔法の事、百年前の世界の事、この城唯一の使用人である執事のエレウの事。城の中の書庫にある城の主ですら読めない幻の本の事。
主に話すのはリンドの方だったがウォルドは飽きもせずに話を聞いてくれた。
幾つか覚えた中の得意料理を振る舞うと笑顔になってくれた。
体が鈍ると思って外で一人稽古をしていると、彼もやって来て付き合ってくれる。
物語で読んだ事のある“魔王”は極悪非道の象徴だったのに、彼はそんな事は無い。
リンドは彼にすっかり気を許していた。
彼の方も“勇者”などという者がどんなやつなのか気になって城へと誘い、自分に害意が無いと分かったのだろう。
ふとした事で手が触れあったり、彼から教わった魔法が上手くいったりすると頭を撫でて褒めてくれたりと触れ合いが増えた。
「リンドが来て、そろそろ三月になるな」
夕餉を済ませ、食後の紅茶を居間の長椅子に並んで座って楽しんでいるとウォルドが言ってきた。
もうそんなに経つのかとリンドも頷く。
「そう言えば…居心地良くて、私すっかり長居してますね。そろそろお暇します」
そう言うと、ウォルドは首を傾げて手を伸ばし、リンドの頬に触れてきた。
「……何故?ずっと此処に居ればいいだろう」
(あ、あれ?)
スルリと頬から首筋へと撫でられる。今までにない触れ方にリンドは戸惑った。
「居心地が良いのだろう?…俺も君が居る事を楽しんでいる」
…手どころか顔も近付いてくる。
「あ…あの、ウォルド?近いです」
「ああ。俺はもっと近付きたい」
微笑みながらウォルドが距離を詰める。
リンドが身を仰け反らせると、ウォルドは半ば覆い被さる様になった。
リンドは身の危険を感じた。
命の危険ではない。殺気は感じない。
もっと別の――、
「互いに話をし、趣味や考え方などを交わしたな。俺は君を好ましいと思っている。…あと交わしていないのは互いの身だけだ」
――貞操の危機が。
「わ…わーーっ!?」
リンドは両手でウォルドの体をはね除け、椅子から降りると部屋を飛び出した。
――そうしてリンドは魔の森の城から逃げ出したのだ。
「……見つけたぞ」
森の中、木の根本で疲れて知らないうちに眠ってしまったリンドを見つけ、起こさない様にそっと抱き抱えると魔王はまた森の奥へと帰っていった。
リンドの目が覚めると柔らかなベッドの上だった。
だが、見慣れた客室の天井ではない。
「目覚めたか?」
聞き慣れた男の低い声にそちらを向くとウォルドがベッドに腰掛けて此方を見ていた。
「……此処は?」
「俺の寝室だ」
恐る恐る聞いた問いにウォルドが短く答えた。
――逃げ出した居間での遣り取りと、彼の寝室に運ばれた事。
これが何を意味するか分からない程鈍くはない。
リンドは慌てて身を起こしてベッドの上を後退って距離を開けた。
「こっ、こういうのは恋人とか、お嫁さんにする事ですー!」
だが、ウォルドがベッドに乗り上がり詰め寄せる。
「何を言う?エレウを使者として出してから、君は花嫁修業をしていただろう」
(…花嫁…修業?……あっ!?あれかーーっ!?)
あの夜会の後から修業の内容が替わっていった訳が分かった。
「こっ、こんな事の為に修業してたんじゃなーいっ!!」
叫んだ声はウォルドの腕の中で空しく消えた。
――王城の執務室で王と宰相が休憩の茶を飲みながら話をしていた。
「…勇者殿を送り出して三月か。……魔王が勇者に目をつけ、見合いを申し出るのには驚きましたな」
「ああ。性格等の相性もあるから実際に会いたいと言うので花嫁修業を急がせたが大丈夫か?」
「特に異変も無く、彼女も帰って来ないのが返事では?」
「…我が国の辺境の魔の森は隣国との国境線でもある。あの森があるからこそ、彼の大国が攻めこむ事が無いのだ。是非とも勇者殿には頑張ってもらわなければな」
「彼女は素直で、環境が変わっても馴染みが早いと聞きました。魔王も百年を超える人物です。まぁ、上手くやるでしょう」
――勇者は魔の森の魔王の下へと旅立った。
魔の森に勇者が足を踏み入れると森は深い霧に包まれ他の何人も拒み続け、静寂に包まれた。
……古道具屋の片隅にある姿絵によく似た男女が時折どこかの街に現れるが、その正体に気付く者はいなかった。