正義の定義
「見損なった。それがあなたの正義だと言うの?」
僕はリーンに聞こえないよう小さく舌を鳴らした。
とうとう見つかった、か。案外早かったな。いや、まだ言い逃れできるかな。
わざとらしく咳払いをして、僕はいつもどおりの爽やかな笑顔をリーンに向ける。
「何のことでしょう、リーン様。僕にわかるように」
「ふざけないで頂戴、エドワード。……あなたがこの人たちを傷つけたのね、そうなのね」
リーンはショックに体を震わせながらも、毅然として僕を問い詰めた。怖いのだろう、涙が今にも零れそうだ。
そんなリーンを見て、僕は素直に困った表情を浮かべた。実際この後どうしたものか想像もつかない。
血まみれで僕の傍に倒れている二人の男。返り血が点々と彩る僕のシャツ。何より僕の手に握られている、血に濡れた短剣。
状況証拠はばっちり揃っている。これでリーンが僕のしたことに気づかないはずもなかった。
「答えなさい、エドワード!」
嫌悪すら感じ取れるリーンの声音に、僕は観念するしかなかった。
「確かに、僕がやりました」
それを聞いた瞬間のリーンの顔を、きっと僕は永遠に忘れないだろう。
僕はリーンが怒るのだと想像していた。似つかわしくない怒声を浴びせられ、彼女に軽蔑されるのだろう、と。
しかし、違った。
リーンは泣きだしたのだ。あんなに気丈なリーンが。
彼女にとってもその涙は予想外だったようで、止めようと必死に目をこすっている。
ああ、そんな顔をさせたくなかったのに。だから、こうして……。
きっと僕に裏切られたと思っているんだろう。
可哀そうなリーン。けれど僕はもうすべてを君に教えよう。例えもっと君を傷つけることになるとしても。
知ってしまったのだから、すべてを知るべきだ。
知った後で、尚したいなら僕を責めればいい。君の言う正義で、僕の“正義”を好きなだけ断罪すればいい。
「……リーン様」
「エドワード、答えて。この間の通り魔事件もあなたなの? お屋敷で見つかった女中の死体は? 花壇から見つかった白骨は? 突然いなくなった食堂係は?」
「僕のしたことです。僕や、僕の父や、もしかすると祖父も」
「あなたのお父様も、ですって? なんて、なんて恐ろしい人たちなの! 平気でこんな、こんな酷いことを、よくできるものだわ!」
リーンの顔はどんどん青ざめていった。
世間知らずのお嬢様には少々どころか刺激の強すぎる話だ。無理もない。
本当なら、何も知らないままでいさせてあげたかった。
リーンにこんな汚れた話は似合わない。彼女に似合うのは、輝くように美しいもの、綺麗なもの、そして清浄なものだけだ。
一生、そんなものだけを見て、触れて、生きていってほしかったのだ。
そう思う一方で、僕は正反対の感情を自分が抱いていることにも気づいていた。
リーンに僕と同じものを見せてやりたい、という狂った欲望だ。
僕には届かない、決して踏み込めない彼女の住む世界から、彼女を堕落させたいという願い。
こちら側に彼女を落としたい、という僕の心の底に潜む化け物。
相反する二つの気持ちに揺れて、僕は自分がどうしたいのかわからなくなった。僕の話を聞いた後、僕は彼女にどうなって欲しいのだろう。
相変わらず、無垢で可憐な少女でいてほしいのか。
望み通りに、堕した彼女を手に入れたいのか。
混乱した僕は、ただ事務的に口を開いた。
「この男たちは、リーン様の命を奪いに来たのです。貴女の従兄弟君の放った刺客です」
「……嘘」
「女中は、貴女の寝所に男たちを手引きしようとしていたので始末をつけました。食堂係は、貴女の食事に毒を盛ろうとしていましたので。通り魔事件は僕からの警告です。貴女のご立派な親戚の皆様に、少し痛い目を見て頂こうと思いまして。白骨はきっと父の仕業でしょう。ですが、何か貴女や貴女の父君によからぬ事を仕掛けようとした者のなれの果てだと申し上げておきましょう」
僕はそれまで握っていた短剣を、無造作に男たちの死体に放った。
そして、乱れたシャツを整えながら、まっすぐリーンに近づく。
こつこつと僕の靴音が夜の空気を震わせる。僕は急に寒さを感じた。
リーンはというと、嘘、と言ったきり身じろぎもしない。僕が近づくのを不快に思っているようなのに、逃げるそぶりもみせない。いや、怯えて竦んでいるのかもしれなかった。
僕はリーンにたどり着くと、彼女の前に跪いた。
びくり、と彼女の体が震え、視線の先の彼女の靴が二、三歩後ろへ下がった。
僕は顔を伏せたままでリーンに告げた。
「リーン様はご存じないでしょうが、この街には貴女方をよく思わない人々が大勢いるのです。お金に目の眩んだ者、贅沢な暮しを妬んでいる者、貴女の家を貶めたいと考えている者、様々な人間が様々な理由で、毎日のように貴女を狙っています。僕の役目は貴女をお守りすること。それが誰かを殺すことと同義になったとしても、貴女は僕がお守りします」
リーンの知らなかった裏の世界。そして僕の告白は、どんなに彼女にとって残酷だろう。
今僕は彼女を共犯者に引き込んだのだ。
彼女のために人を殺すと言って、その罪を黙認しろと告げている。しかも他の選択肢を与えずに、彼女の逃げ道を奪って。
僕は自分を嘲った。僕も、僕が手に掛けてきた連中と変わりないじゃないか。
彼女を傷つけて、彼女の幸せを奪いたいと思っている。やはり僕の本心はそちらにあったのか。僕は偽善者だ。
「エドワード」
静かなリーンの声に、僕は覚悟を決めた。
リーンが僕の告白を聞き、どう変わってしまったのか。それはとても知るのが恐ろしいことだ。
けれど、僕が彼女を守ることに変わりはない。僕自身が彼女を傷つけるとしても、彼女の幸せを奪うとしても、それは些細なことだ。
彼女が生きているのならば、もう、何も。
「……何でしょう」
「顔をあげて」
ゆっくりリーンを見上げると、ふわりと僕の両頬に彼女の手が添えられた。
「私なんかのために、あなたはずっとその手を汚していたの? ごめんなさい、エドワード。気がつかなくて。気づいてあげられなくて。ごめんなさい。私が憎らしかったでしょうね。何も知らずに、あなたに守られていることも、敵がいることも知らずに生活していた私が」
リーンは悲しげに笑った。僕を憐れむような微笑だった。
「私、あなたには綺麗なままでいてほしかったのに。私は汚れてしまったから、あなたにだけは綺麗でいてほしかった、エド」
「っ、リーンは綺麗じゃないか。何を言ってるんだ。リーンはずっと綺麗だよ。昔のままだ、リーンは汚れてなんかいない。汚れたのは、僕のほうだ」
思わず自分の立場も忘れて、僕は彼女の名を呼んだ。
屋敷で一緒に育ち、無邪気に将来を誓った相手。
身分違いの恋なのだと、気づく前に僕は彼女の執事になった。
気づいた時には、僕の手は随分と汚れ、彼女だけが思い出の中と少しも違わず美しかった。
はずなのに、そのリーンが自分こそ汚れたのだと言っている。
彼女が僕の世界を知らなかったように、僕にも知らなかったことがあるのだろうか。
それは一体、何だ?
リーンは僕から手を離すと、体を反転させ向こうを向いた。
僕にはもうリーンの表情は伺えない。
「父は、私を道具に使ったの。父には私よりも家のほうが大事だった。家のためだ、家族のためだと、私はいろんなところへ差し出された。……私は汚らわしいのよ! もういやだわ。エド、お願いだから私を見ないで」
ぎゅっとリーンは自らの身体を抱きしめた。
僕はその姿に胸が締め付けられるようだった。
立ち上がると、僕はリーンの肩に手をかけ、力いっぱい彼女を抱き寄せた。リーンの腰に手を回し、彼女をしっかりと抱きしめる。
しかし、彼女は僕の胸板を押し返し、なんとか僕から離れようとした。
「やめて、エド。お願い、私に触ってはだめよ。嫌、いや、エドお願い」
「リーンは綺麗だ」
僕ははっきり彼女に言った。
「綺麗だよ、リーン」
すると、リーンは抵抗するのを止めて、僕のことを見上げた。
僕はリーンの眦にたまった涙を指ですくうと、そっと彼女と額を合わせた。
「ごめん、リーン。気づかなくて。僕は誰よりリーンの近くにいて、リーンのことをわかっているつもりだったのに。ごめん、リーン。僕を許してくれ」
僕はもう一度、きつくリーンを抱きしめた。応えるように、リーンも僕に腕を回す。
しばらくの間、僕たちは言葉もなく、互いの体温を感じ取っていた。
こうしてリーンを抱きしめるなんて、何年ぶりだろう。あの頃とは随分、僕たちは変わってしまった。
何でもできると信じていた、純粋だったあの頃に戻れるなら。
あの時に、リーンを守れるくらいに、僕に力があったなら。
後悔ばかりが浮かんでは頭の中をぐるぐると廻る。
「エド」
唐突にリーンが沈黙を破った。
「あの頃に戻れたらいいのにね」
「同じことを考えてた」
間近でリーンと目を合わせて、同時に僕たちは笑いあった。
とても笑ってなどいられない気持ちだった。だからこそ、今こうしてリーンを抱きしめていられることが嬉しくて僕は笑った。
何人もの血で汚れた僕の手でリーンに触れる。それが許されないことだという理性に抗って、僕は本能の求めるままにリーンを引き寄せた。
リーンが何を思って僕の腕の中にいたのかはわからない。けれど僕はリーンにとっての僕の存在が、僕にとってのリーンであるのだと信じていた。濡れた目で僕を見つめるリーンの中に、確かに同じ気持ちを感じていた。
そして僕は魅かれるままに、リーンの唇に自分の唇を触れさせた。
わずかに離して囁くと、リーンもそれに応えて囁き返す。
僕はもう一度口づけると、今度は貪るようにリーンを求め舌を絡ませた。
『リーンは僕が守るよ』
『私だって、エドを守るわ』
タイトルにセンスがないのは仕様です…