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 私には日記をつける習慣なんてなかったけど、今日はちょっとどこかに記して永遠に残しておきたい気分。何しろあの檜山くんと話す事が出来たんだから。

 昼休み。昼食のパンを食べ終えた私がいつものようにぼおーっとほおづえをついていると、突然名前を呼ばれた。はっとして見上げると、泣きぼくろが目に飛び込んできた。檜山くんだった。

「坂巻さんてさ、絵上手いよね」

 突然の褒め言葉にうろたえた。面倒だからいつもはこういう話題は徹底的に無視するんだけど、相手が檜山くんじゃ、それも出来なかった。絶対に出来ない。出来るわけがなかった。

「う、上手くもないけど」

 緊張のあまりどもってしまって、顔から火が出そうだった。何これ、信じられない。格好悪い。

「そんな事ないよ。オレ、校長室前に貼ってある絵、見たもん。あれ、この前の美術の時間の課題の絵じゃん?皆同じもの描いてたはずなのに、あんなの描けちゃうなんてすっごいよね。しかも、あんな短い時間でさ。授業中の時間だけであんなの描けるなんてすごいよ。オレ、芸術って全然ダメだから本当に尊敬したんだ」

「そ、う、かなぁ」

 あぁ、こんな風にしか話せない自分がもどかしい。こんなんじゃ檜山くんを避けてるみたいじゃん。話し掛けられて迷惑みたいじゃん。

 いつもはもっとそっけないし、もっと冷たい返事しかしてないのを棚にあげ、自分の社交性のなさを呪った。今更後悔したって遅いくらい人に冷たい態度とってきたくせに。それにしても檜山くんは何だってまた急に声をかけてくれてきたりしたんだろ。隣りの席に座ってるだけの私に。普通はそれだけで十分会話の対象になるもんだってことも私の頭からはすっぽり抜けていた。それくらい社交の世界からは遠ざかっていたのだ。

「いや、実はさ、明日からまた新しい課題が始まるじゃん?今度は自分で描きたいもの探さないといけないのに、オレ、何描いていいかまるで思いつかなくって。坂巻さんは何にしたか参考にしたくてさ。こういうのズルかもしれないけど」

 私はぶんぶんと首を横にふった。ズルくなんかない!ズルくなんかないでしょ。


 しかし、檜山くんと同じく私は何を描くかなんて何も考えていなかった。それどころかさらに酷く明日の授業で美術があることすら忘れていた。もちろん美術で新しい課題が始まることなんてすっかり忘れきっていた。クロッキー帳やら絵の具やらは全部ロッカーに置きっぱなしなので美術は時間割として気にする必要もない授業だったせいだ。絵は先生が言ったモノを描くだけだから事前に準備なんてした事もない。

「えっと、まだ決めてない」

「じゃあさ、何が初心者に描きやすいものか教えてくれない?」


 描きやすいもの?!

 質問の意味が分からなかった。突然アラビア語を言われたぐらいの勢いで面食らった。


 何描いたって同じでしょう?

 目の前のものを見て描く。もしくは思い出して描く。抽象画なら、絵の具を適当に塗りつける。それだけの事じゃん。でもそんな事言ったら軽蔑されそうで、困ってしまった。描きやすいもの?

 逆に描きにくいものなんかあるわけ?それって何さ。そんなのどこで判断するわけ?どうしよう。檜山くんの役にどうしてもたちたい。でも、私には檜山くんの質問に答えられるだけの知識がない。ん?絵を描く知識?…それをやたらに持ってる人を知ってるじゃん、私ってば!

「えぇっと、今、ちょっと思いつかない、んだけど、良かったら私、中学の時から美術部、の先輩がいるから、相談してみようか」

 檜山くんは目を輝かせた。

「マジ?そんなの頼んでいいの?」

 金子先輩の顔を思い浮かべた。ゲージツ関係の事ならあの人は何でもホイホイ相談に乗ってくれるに違いなかった。別に私が美術部に入らなければ教えない、とかケチな事も考えないように決まっている。

 檜山くんは、ちょっと頬を赤くして言った。

「良かったら、その時オレも一緒に行ってもいいかな。時間かかんないなら部活の前とかにでも聞けるし」

「別にいいと思うな。でも、先輩を探すのに時間かかるといけないし、良かったら、今から行こうか。昼休みも美術室になら絶対いるから。檜山くん、部活に遅れると良くないよね」


 ちょっと、何かだんだんちゃんとした会話になってない?私たち結構話せるんじゃない?檜山くんと廊下を連れ立って歩くのはいい気分。桧山君は全然そう思ってないだろうけど、ちょっと学校デートみたいだった。周りでおしゃべりしている子達が私達のことをうわさしてるような気がして恥ずかしかった。もちろんそんなわけがない事もはっきりわかっていた。檜山くんも私も目立つほうじゃないから他人の噂話になる訳がなかった。他人から噂されるのなんて嫌だからいいんだけど。

 

 先輩は思ったとおり美術室にいた。私が来たのを最初は美術部にようやく入部する気になったものと思いっきり誤解していてガッカリされたけど、来たわけを話すとまたすぐに嬉しそうな顔になった。

「そう、美術の自由課題ね。去年もあったわ。そうねぇ、私の時は、美術部以外の子は石膏か静物か風景にしていたかな。石膏はね、こういう形のシンプルな方が描きやすいよ。先生受けがいいのはこういう形のだけど、光と影のバランスがちょっと難しいかも。絵は苦手なのよね?」

「ハイ」

 先輩が見本として指差した多面体の石膏は色んな形があるのは分かるけど、どこを見て描きやすいと判断するのかさっぱり分からなかった。面が多いと影をつけるのが大変だから、それが難しいって意味?分からないな。

「えっとね、静物なら…うちの美術室って絶対誰かが描いてるから常に花も果物もあるけど、どっちも痛んだり、いつの間にか誰かが食べちゃったりする欠点があるの。だから授業中に描き上げた方がいいけど、今度ある授業の2時間でおおまかに、でもいいけど、ある程度描き上げる自信はある?」 

「イヤ、ムリです」

 緊張してる檜山くんがかわいかった。運動部の檜山くんにとって「先輩」ってのはそれだけで緊張するもんなのかな。もしかしたら先輩のクラスにサッカー部の人がいるのかもしれない。先輩は告げ口したりするタイプじゃないけど、そんなの分からないしね。体育会系の年功序列の凄まじさは何度も見かけたから私だって知っている。たかが一年か二年早く生まれた事だけであんなに威張れるのは才能じゃないかと思う。球拾いが遅い、という理由で校庭をランニングさせるアレ、どんだけ競技にいかせるんだろ。

「じゃ、風景なら校舎とか校庭とかうろうろできるから楽しいかも。おすすめはね、裏庭か、屋上。あ、渡り廊下とかも味があるのよね。でも、描きやすいのは…ねぇ、坂巻さんは何描くか決めたの?」

「まだ」

「じゃ、今の私の話聞いてて、何か描きたくなった?」

 私は何も考えていなかった。先輩の話をよく聞いてすらいなかった。体育会系の意味不明さを考えながら檜山くんの泣きぼくろを見ていた。でも、そんな事素直に言っちゃまずい。私はちょっと考えてから、玄関、と答えた。

「玄関?」

「そう。外から職員玄関を見た構図。何となくいいかなって思った」

「…そう。確かにいいかもしれないわね。私、まだそこは描いてなかったな。檜山くん、上手い人と一緒って気後れするかもしれないけど、せっかく一緒のクラスなんだし、坂巻さんと一緒に描くっていうのもいいかもよ。ただ、やりがちなのが真似しちゃうってことだけど。うちの先生達ってそれだけは嫌うからねぇ」

「オレなんかが真似したって、真似したってことすらバレないかも。だって、この前の課題だって、クラス全員が同じもの見て描いたのに、坂巻さんの絵は別物だもん」


 檜山くんの笑顔に涙が出そうになった。この前描いた絵の何がいいのかちっとも分からないし、たかが課題を校長室の前なんて人目につくところに張り出した先生にもむかついていたんだけど、一気に感謝の気持ちに傾いた。

 そんなにいい?描いて良かったかも!むしろあんなのでいいなら何枚だって書きます!!ところでこの前の課題、私が描いたのって何だっけ。


 その後も先輩は一生懸命檜山くんの課題になりそうなものの名前をあげ続け、その会話を聞きつけた美術室にいた人たちも意見を出し始めた。話しながら時々視線がくるのが分かった。何?私の意見?そんなのどうだっていいじゃん。

 ふと気がつくと私は周りを囲まれてて質問攻めになっていた。いつもどれくらいの時間で1枚の絵を書き上げるのか、とか使ってる画材とか。水と油じゃどっちが好きか、とか。水と油?あぁ、絵の具の種類ね。そんなの先生がその時に言うのを使って描くだけじゃん。いちいち選ぶ物なわけ?大体私、油絵の具なんか使った事ないな。最初のうちは一つ一つ答えていたけど、すぐに面倒になって逃げ出したくなった。でも、笑顔で会話に参加している檜山くんをほっぽって逃げ出すわけにもいかなかった。

「たかが授業だからどーでもいいです」って、私らしい答えを言ったらこの人たちぱっと蜘蛛の子を散らすようにいなくなるだろうか。でも、檜山くんに冷たい女だと思われたくない。いや、実際冷たいんだから、知られたくないが正しいのか。いや、どうせいつかはばれるんだから、その時期を少しでも遅らせたい、が正しい。こういうのって浅ましいかな。何でもよかった。彼の笑顔が少しでも私に向くなら。私は彼から好かれたかった。

 自意識過剰かもしれないけど、美術室中の人が私の答えに注目していた。あろうことか廊下にまで人だかりが出来ていた。


「え、何であの子が?」

「し、聞こえない!」

「ちょっと、おさないで!!」


 何これ、何の騒ぎ?私が周りを気にしだしたのに気がついて、先輩が話しを打ち切った。

「さ、そろそろ教室戻らないとね。授業が始まるよ。」

 えー、というブーイングの中、私は檜山くんと美術室を出た。


「ごめんね」

 私が謝ると檜山くんはびっくりしていた。

「何が?」

「私、美術部以外の人間が昼休みに美術室にいるだけであんなに注目されるなんて知らなかった。動物園のサルじゃあるまいし、何だろ、あの人だかり」

 檜山くんは一瞬固まった後、わはは、と大きな声で笑った。

「サルっていうより、アイドルみたいだったじゃん。逆巻きさん、すっごい注目されてたね。隣にいただけなのにちょっと俺も恥ずかしかった」

 アイドル…。檜山くんって面白いこと言う人だな。

「私がアイドルなら檜山くんもスター選手ってとこじゃん」

 私がそう答えると檜山くんは驚いていた。知らなかったけど随分表情が豊かなんだな。こういう発見って嬉しい。檜山くんは、「え?知らないの?」って顔をしていた。その表情の意味は分からなかったけど、可愛いな、と思った。



 そう、私は知らなかった。何も。何も気がつかなかった。気がついたのは、私はこの人を好きなのかもしれないって事だけだった。それまで私は何で檜山くんから嫌われたくないのか深く考えてみる事もなかった。初恋だった。


 その日、家に帰ってからが大変だった。何だか家中の汚れが気になった。バタバタ大掃除をしている姿をお母さんはから配された。

「どうしたの、急に」

「別に。いいじゃん、きれいな方が」

 居間を片付け、台所に進み、お風呂を磨き上げたら真夜中を過ぎていた。次の日も学校から帰るなり掃除。毎日やってるうちに家中の窓はピカピカになった。モデルハウスのような家。悪い事をしてるわけじゃなし、親も最初はおろおろしていたけど、だんだん何も言われなくなった。

 家はどんどんきれいになるけれど心の中は相変わらずざわついていた。ごちゃごちゃだった。寝ようとしても眠れず、夜中の2時からもくもくと2階の廊下を磨いたりもした。へとへとになるまで掃除して、疲れ切って眠る。それをひたすら繰り返した。

 学校に行くと檜山くんが話しかけてきた。私はそれに答えた。私からも話しかけた。檜山くんが答えた。普通の会話なんだけど、それが嬉しくて仕方なかった。サッカーの事にも詳しくなった。頼まれて、サッカーしている姿をスケッチする事にもなった。本当に人生に色がつくなんてあるんだ。私は自分が桜色に色づいている感覚に包まれた。


 ヒルースは半ば呆れていたけど、それでも何度か話かけてきた。

『で、これからどうするわけ?』


 …どうするって?

『出会いました。好きになりました。仲良くなってきました。じゃ、次は?』


 はぁ?次?次は何があるわけ?まさか、2年生になりました。クラス替えで違うクラスになりました。ハイ、さよなら。いや、2年どころじゃない。次の席替えで仲良くなったのもおじゃんになるかも。たかが席替えで仲良しじゃなくなった人たちって結構いるもん。席替えしました。ハイ、さよなら。って、嫌だー!

『馬鹿?何でそうなるわけ?』


 他に何かあるわけ?あ、掃除ばっかしていないで来週から始まる期末テストの勉強をしろってこと?

 確かにそうだった。仲良くなったってだけでもすごいんだから、それだけでも満足しないといけない。欲張っちゃいけないよ。今やるべき事は他にあるんだ。私は学生なんだもの。学生は勉強しなきゃいけないんだから。

 

『魔女には独特の知恵がある。それは自然界に伝わる伝承から、自らで感知したものまで色々ある。が、それをむやみやたらに集める必要はない。魔女は魔女であるだけ。

 もちろん、日々修行に努め、魔女として生きる事は重要な事だ。が、欲張っても期待した効果は得られないだろう。時間をかけないといけない。何事も一瞬で片がつくような生活をしていると本質を見失う。停滞する必要はないがあせる事もないだろう。何に時間をかけ、何に時間を割かない方がいいかは、自らに訪ねてみるがいい。

 魔女ならば分かるはずだ。』


 きっと私は欲張っているのだ。もっと仲良くなりたいって思っているからだ。かといってサッカーを始めようとは全く思わなかった。サッカーの応援を極めたいとも思えなかった。今の限界はここなんだ。そうに違いない。じゃ、私は学生なんだから、ちょっとは勉強しないと。きっとそこを伸ばす時期なんだ。それにしても学校の課題って何でこう面倒なものが多いんだろ。数学の面倒なプリントをやっとの思いでやっつけた私は、ヒルースのノートの表紙をなぜてみた。

「ねぇ、ヒルース。あなた、もしかして、私に檜山くんに、告白しろとか言いたかったわけ?」


 ノートがぴくりと跳ねた気がした。何だ、やっぱりそうか。


「失敗したらどうするの。隣の席なんだよ。一緒のクラスなんだよ。同じ学校なんだよ。気まずいじゃん」


 ノートは不満そうになった。表紙が黒くなった気がした。


「上手くいってもさ、その後どーするの。私は魔女になる修行してる魔女見習いです!なんて言えないよ」


 私は自分である事が恥ずかしいとでもいうのだろうか?魔女になるっていうのは自分で決めた目標で、いつの間にか使命のような気がしていた。でも、本当は違うのかな。どうして檜山くんに言えないんだろう。もし、もっと仲良くなっても言えない?昔仲が良かった友達に、どうして私は言えなかった?

 ノートが勝手に開き、文字を書いた。


『なぜ言えない?』

『だって、恥ずかしいじゃない。それに…きっと信じてくれない。』

『どうして言えない?』


 どうして、だって?…だって。


『魔女だったら知ってるでしょ。異端。迫害。そこまでいかなくてもね、周りにどうしても溶け込めない気持ち。寂しいのと、ほっとするのと混じった気持ち。デニングは魔女裁判の時も、本当の魔女は面白がってたって書いてた。でも、私にはそんな事が面白いとは到底思えない。人が死ぬの、嫌い。』


 ヒルースは何も答えない。


『時には死ぬよりも、無視されるのが辛い事もある。私も、今の自分に自信を持つまでは、周りに合わせる事だけが解決策だって、かなり頑張った。でも、無理だった。大勢の気持ちも、たった一人の気持ちも、私にはまるで分からない。目で会話なんて出来ない。人の気持ちが理解できなきゃ恋なんて出来ないでしょう。

 告白なんてするだけ無駄だよ。仲良くなっただけでも最高なのに。檜山くんと話すのは楽しい。それだけでいい。』


 違う。こんなの全部ウソ。


 私に分かってるんだから、ヒルースにも分かってる。私は逃げてるだけだ。だけど、恋した人が全員必ず告白するわけじゃないでしょ。必ず伝えなきゃいけないわけじゃないでしょ。

 だったら私は…

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