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「あいつは男友達みたいなものだ」と婚約者が言うので、私も"女友達"を作りました ~騎士団長様(婚約者の上官)が、今日も真顔で女子会に来ます~

作者: 絶祇
掲載日:2026/10/17

 夜会の広間で、燭台(しょくだい)の灯りが私の杯に揺れる。甘い葡萄酒の匂いと弦の音。その向こうで、見慣れた金茶の頭が、私ではない人へ傾いている。


「あいつは男友達みたいなものだ。嫉妬するな」


 夜会の真ん中で、婚約者の騎士セルジュ様は、女騎士モルガーヌ様の肩を抱いたまま言った。彼女はセルジュ様の杯で、平気で葡萄酒を飲んでいる。


「私、男みたいなもんだから!」


 ……なるほど。


 私はマリエット、十九歳の伯爵令嬢で、刺繍の会の主宰。婚約は三年前から。結ぶのも解くのも当主どうしで、父は私が望めば解くと言っている。


「承知しました。では、私も女友達と仲良くしますわね」


 振り返った先には、壁際で頭を抱えていた大男。モルガーヌ様の実のお兄様で、セルジュ様の上官。近衛騎士団長リュドヴィク様。


「団長様。私の女友達になってくださいません?」


「…………女友達の務めを、教えてくれ」


「団長!?」


「ふふ、私も女友達を作りました」


 セルジュ様の杯が、口の手前で止まる。


「女友達って……団長は男だろう!?」


「男。では、モルガーヌ様は女性ですわね? 女性が男友達なら、殿方が女友達でも困りませんわ」


 セルジュ様の腕は、まだモルガーヌ様の肩にある。私はその手を見てから、まっすぐ向き直る。


「ただの女友達ですもの。嫉妬なさらないで?」


 近くの夜会の客たちが、杯を持ったまま動きを止める。王国一の剣と呼ばれる人の、見上げるほど高い肩へ、私は目を移す。


「セルジュ様がモルガーヌ様になさることを、同じだけ。それ以上はいたしません」


「……私も、その範囲を守る」


 セルジュ様がしたように、その肩へ手を伸ばす。届かない。伸ばした指の行き先を見て、団長様が真顔で身をかがめる。


「恐れ入ります。肩をお借りするのも、大変ですのね」


「必要なら、さらにかがむ」


「いえ、今の高さで十分ですわ」


 ようやく指先を置くと、硬い布の下で肩がこわばる。手元の杯には、傾いた灯りが細く伸びている。


「セルジュ。問題があるか?」


「……っ、ありません!」


 セルジュ様が踵を鳴らして敬礼する。上官の問いには〈あります〉か〈ありません〉で答えるのが、近衛の決まりだ。ご自分の言い分に敬礼する姿は、初めて見る。


 団長様は私が手を離すのを待って身を起こし、懐から手帳を出して開く。


「務めは、何から書けばいい?」


「まずは明日の刺繍の会へ。毎日午後に開きますの。主宰の招いた女友達しか入れませんのよ」


「では、君の招きがあれば入れるのだな?」


「ええ。私がお待ちしております」


 団長様は書いた字を指で確かめ、真面目な顔でうなずく。


       ◇


 翌日から、団長様は真顔で女子会に来るようになった。焼き菓子を五つ食べ、刺繍の会では誰より細かく針を運ぶ。


 夜会から三日目の午後も、伯爵家の客間の戸口で、団長様は深く一礼する。開いた手帳には角ばった字が並び、細い糸のそばに置かれると、字まで背筋を伸ばしているように見える。


「菓子を分ける。刺繍を習う。合っているか?」


「ええ。続きもどうぞ」


「話を最後まで聞く。恋の相談に乗る」


「はい。最後まで、が大事ですわ」


 最後の項目は、令嬢たちの書き足しだ。団長様の指が、その丸い字の下で止まる。


「途中で答えが分かってもか?」


「分かっても、ですわ。そこでお話を終わらせてはいけません」


「……針のほうが、分かりやすいな」


 手帳を脇へ置き、団長様は持参の針を会の針山(はりやま)に並べて刺す。それから針を抜き、麻布へ糸を渡していく。布を押さえる指は大きいのに、針目は小さく、揃っている。糸は絡まずするすると布を抜ける。


 令嬢の一人が自分の針を止めて、身を乗り出す。


「まあ、団長様、お上手ですこと!」


「傷を縫うのと同じだ」


 令嬢たちの手がそろって止まり、私の糸も宙に浮く。


「傷。……団長様、焼き菓子の前ですわ」


「分かった。今は麻布を縫っている」


「ええ、見れば分かりますわね!」


 笑い声に押されるように、団長様が手元を見下ろす。焼き菓子の甘い匂いに、椅子の寄る音が重なる。令嬢の一人がさらに身を乗り出す。


「私の女友達にもなっていただけます?」


「団長様は、私の女友達ですので」


 口が勝手に動いていた。針を持つ手を、慌てて布へ戻す。団長様がこちらを見るより早く、糸の先をつまむ。ほどく必要のないところを、指がほどこうとしている。


 そのとき、戸口から高い声が飛ぶ。非番のモルガーヌ様が、団長様を探して顔を出す。


「兄さん! なに刺繍してんの!?」


「女友達の務めだ」


「務めって何!? 私が呼んでも、そんなすぐには来ないくせに!」


 モルガーヌ様が戸口の縁に手を掛ける。客間を覗く目が、針仕事から焼き菓子へ、それから寄り合う令嬢たちへ動く。


「あんたの会、楽しそうじゃん。私も入れて!」


「男友達みたいな方は、女子会には入れませんの」


「男友達って、ここでもそれ言うの!?」


「ここは女子会ですもの。戸口で確かめませんと」


 モルガーヌ様の足が、敷居の手前で止まる。


「私だって女よ!」


 布を抜ける糸の音まで途切れる。私は返事をしないまま、針を布の上に伏せる。


「……あ」


「男友達なら、明日から男と同じ早朝訓練だ。夜番も掃除も入れる」


 団長様は針を止め、戸口へ顔を向ける。女騎士の通例でどれも免じられていたモルガーヌ様が、縁をつかみ直す。


「だから! そういう意味じゃない!」


「どういう意味だ?」


「男と同じにしていいところと、そうじゃないところがあるでしょ!」


「では、どこが違う?」


 開きかけた口が止まり、モルガーヌ様の目が私の手元へそれる。やがて戸口から足を退け、唇を尖らせた。


「いいもん。今夜もセルジュといつもの角の酒場で飲むから、平気だってば!」


 遠ざかる足音に、団長様は追う声を掛けない。止めていた針をまた動かす。私の糸だけが、まだ指に引っ掛かっている。


       ◇


 婚約者が女騎士と酒場へ行く夜、私は団長様と菓子店へ。婚約者が彼女と一曲目を踊るなら、私も団長様と一曲目を。


 その夜、菓子店の窓越しに、向かいの酒場の明かりが見える。セルジュ様とモルガーヌ様の背中が、同じ卓で揺れている。声は届かない。こちらの店内は温かく、焼いた砂糖の匂いが外套にまで染みそうだ。


 団長様は手帳を確かめ、焼き菓子を真顔で半分に切る。


「ふふ、務めに熱心ですわね。そこまでぴったりでなくても」


「分けると書いてある」


「分ける。ええ、そうですけれど、焼き菓子は曲がって焼けることもありますわよ?」


「では、曲がった分も分ける」


 団長様は切り口を見比べる。私の手は、焼き菓子の前でお預けだ。


「そのために、そんな難しい顔をなさっているのですか?」


「難しい。君のほうが小さくなってはいけない」


 笑った拍子に、窓の明かりが視界の端で揺れる。団長様は手帳を閉じると、私を見た。


「上官の私を選んだのは、あいつが逆らえないからだろう?」


 返事より先に、切り口へ目が逃げる。さくりと割れた生地から、蜜が細く垂れている。こぼれる前に手を伸ばそうとして、指が止まる。


「……はい」


「構わない」


 団長様が、半分を私のほうへ寄せる。蜜の落ちかけた側が、こちらを向く。


「構わない、で済ませてよろしいのですか? 団長様まで巻き込んでしまいましたのに」


「君は範囲を隠さなかった。……焼き菓子は、美味そうだ」


「団長様。今のお話と、つながっておりませんわ」


 団長様は残りの半分を口へ運び、うなずく。


「君は、まだ食べていない」


「食べていませんけれど! いま話を変えましたわね?」


「冷める。続きは、食べてから聞く」


 食べてから、と言われては、宙に浮かせていた手を戻す先がない。焼き菓子を持ち上げると、柔らかな生地が指に沈む。


 向かいの窓で金茶の頭がこちらを向き、すぐに見えなくなる。やがて通りへ出てきたセルジュ様が、足早に窓へ近づく。団長様が窓を開けると、夜風と一緒に酒場の笑い声が流れ込む。


「団長! なぜ俺の婚約者と!」


「女友達だ。問題があるか」


「……ありません!」


 セルジュ様の手が上がる。返事だけは、通りの向こうまで届きそうだ。菓子店の客が窓へ目を向ける中、私は焼き菓子の切り口を示す。


「セルジュ様も、モルガーヌ様と酒場へお二人で。同じですわね?」


「同じ……だって、それは、あいつは!」


「男友達みたいなもの、でしたわね。私、きちんと覚えております」


「覚えてるなら、どうして団長と半分ずつ食べてるんだよ!?」


 セルジュ様の指が、私の持つ焼き菓子へ向く。


「半分ずつ。杯をご一緒になさるのはよくて、焼き菓子はいけませんの?」


「それは……! いや、団長、俺は、その」


 団長様へ向き直った姿勢のまま、セルジュ様の言葉が細くなる。後を追ってきたモルガーヌ様が、入口で袖を引く。


「明日は早朝訓練なんだから、戻ろうってば! セルジュの話が終わるの待ってたら、寝られないじゃん!」


 引かれて遠ざかる背中を見送り、私は焼き菓子を口へ運ぶ。蜜の甘さを、今度はちゃんと味わえた。団長様の指が、閉じた手帳の角をなぞる。


「明朝、詰所(つめしょ)で見せたいものがある」


「見せたいもの。今度は、何の務めですの?」


「務めではない。……朝は冷える。厚手の外套で来るといい」


「ええ、ぜひ伺います!」


 団長様は口元を緩め、手帳には何も書かなかった。


       ◇


 翌朝、訓練場の端に立つと、外套の裾から冷たい空気が入ってくる。土と鉄の匂いが近い。訓練を見る団長様の前で、走り終えたばかりのモルガーヌ様が汗を拭う。肩の大きな上下は収まらない。


「兄さん、これ嫌がらせでしょ!?」


「お前が男だと言った」


「言ったけど! 非番の朝くらい、寝てたっていいじゃん!」


「男の騎士も走っている」


 訓練中の騎士たちが走っていく。モルガーヌ様は手ぬぐいを握りしめ、団長様へ向き直る。


「言葉のあや!」


「あやで婚約者の杯を取るな!」


 張った声が訓練場を渡り、私の外套を押さえる手まで止まる。いつも麻布へ静かに落ちていた声と、同じ人のものなのに。


「……兄さんまで、そう言うの?」


「言う。次は走れ」


「今まで何も言わなかったじゃん! 急に厳しくしないでよ!」


「男と同じでよいと、聞いたからだ」


 モルガーヌ様が口を開け、閉じる。握った手ぬぐいの端だけが、悔しそうに揺れる。


「鬼! 兄さんの鬼!」


「鬼で結構だ」


 ふてくされた顔で駆け出したモルガーヌ様は、走る列へ並ぶ。団長様と詰所の脇へ移ると、少し先の水場で、セルジュ様が同僚の騎士にこぼしている。


「団長が俺の婚約者と菓子店だぞ! 菓子店! しかも、同じ焼き菓子を食べてたんだ!」


 同僚の騎士が肩をすくめる。


「女友達なんだろ?」


 水場のほうだけ、急に静かになる。振り向いたセルジュ様の目が私に留まり、その隣へ動いた途端、背中が伸びる。


「セルジュ、持ち場に問題があるか?」


「あ、ありません! いえ、戻ります!」


 敬礼が済むより先に足が動き、セルジュ様は持ち場へ走っていく。呼び止める言葉もなく、団長様は詰所の中へ私を導く。


 奥の壁に、色あせた騎士団旗が掛かっている。外の光が届く縁に、布より新しい糸が細く続く。近づくにつれ、私は外套を押さえていた指をほどいた。


「三年前、式典の前夜に裂けた旗だ。王都でいちばん針の細かい会に頼んだ。使いが翌朝、君の名とこれを持ち帰った。一晩で刺し直したと聞いている」


 団長様は旗を見上げたまま、少しだけ声を落とす。


「毎朝、見上げている」


 あの夜、使いが運んできた旗が、ここにある。薄くなった布を裂かないよう、糸を引く強さを変えたところ。縁を越えないように針を寝かせ、裏へ返したところ。忘れかけていた手の動きを、目の前の針目がたどっていく。


 直し終えた布を送り出したあと、私の手元には糸だけが残る。その先の朝を、考えたことはなかった。


「……それ、私の針目です」


「知っている」


 いつもの短い返事が、今朝はすぐに通り過ぎてくれない。旗から団長様へ目を上げても、お礼の言葉は形にならず、外套の縁を指でなぞる。


「どうして、言ってくださらなかったのですか?」


「女友達の務めに、入っていなかった」


 団長様は旗から目を離さない。赤い糸の近くに見える耳へ、同じ色がゆっくり広がっていく。


「……そろそろ務めに戻る」


 私はうなずくまでに、また間を空ける。毎朝、という声が、まだ耳に残っている。布の縁には、私の針目が途切れずに続いている。


       ◇


 数日後の夜会。一曲目は本来、婚約者と踊るものだ。弦が最初の音を探し、広間の人垣がほどけていく。私は装いの裾を整え、セルジュ様へ目を向ける。


「友達だからいいだろう?」


 私への言葉が終わるより早く、セルジュ様の手はモルガーヌ様へ伸びる。私は裾から指を離し、団長様へ向き直る。


「団長様、一曲目をご一緒に」


「喜んで」


「足を踏んでも、女友達の務めのうちですわよ?」


「踏まれても、務めのうちだ」


「ふふ、では遠慮なく。……本当に踏んでも、笑わないでくださいませね」


 差し出された大きな手に指を重ねる。肩に触れたときとは違って、団長様の手にはためらいがない。


「笑わない。痛ければ、そう言う」


「まあ! それでは、踏めませんわ」


 低い笑い声が、弦の音に重なる。導かれて回ると、夜会の灯りが装いの上を流れていく。足さばきが速くて、私はすぐに数え方を忘れる。それでも置いていかれないのは、団長様が合わせてくれるからだ。


 すれ違いざまにセルジュ様と目が合う。その足が急に止まり、私たちは広間の中ほどで向き合う。曲だけが先へ進んでいく。


「婚約者の前で、他の男と!」


「他の男? 女友達ですわ」


「女友達が一曲目を踊るか!?」


「男友達が踊るのでしたら」


 セルジュ様が私へ手を伸ばしかけ、モルガーヌ様とつないだほうの手を見る。


「そこまで同じにすることないだろう!」


「同じ。ええ、ご自分で仰った通りですわ」


「俺の言った通りにするな!」


 言い切った声のあとに、弦の音が妙にはっきり響く。団長様がセルジュ様を見る。


「セルジュ。問題があるか?」


「……あります!」


 広間のあちこちで、ささやきが止む。敬礼しかけた手がゆっくり下がり、セルジュ様は私の指を包む手を見つめる。


「俺は……嫉妬、している」


「嫉妬するな、と仰ったのは、どなたでしたかしら?」


 セルジュ様の口が、開いたまま閉じない。モルガーヌ様が、その手を強く引く。


「ねえ、私と踊ってるんだけど?」


「わ、悪い、モルガーヌ。けど、マリエットが」


「ちょっと! 相手を放り出さないでよ! 自分から誘っといて、それはないじゃん!」


 団長様が、私の手を握り直す。


「……続きを踊ろう」


「ええ。まだ曲は終わっていませんもの」


 止まっていた足が、また動きだす。団長様は私が踏み出すのを待ってから、次の音へ導いてくれる。


「……団長様、足は痛くありません?」


「痛くない。君は上手い」


 足元を確かめるふりで、目を伏せる。


「上手い。……それは、務めで仰っているのですか?」


「踏まれていないのは事実だ」


「もう。褒めていただいたのかと思いましたわ」


 顔を上げると、団長様は真顔で私を見ている。


「褒めている」


 曲の終わりの和音が、高い天井に溶けていく。私は返事の代わりに、その手に指を預け直す。踊り終えると、私は団長様と、夜風の通る露台(ろだい)へ出る。


       ◇


 なのに、女友達の団長様が、ある夜ぽつりと言った。


「女友達は、今日で辞めたい」


 露台の夜気が、首筋を冷やす。背中の窓の向こうで、広間の弦が遠く鳴っている。


「……クビ、ですか?」


「違う。君のせいではない」


 すぐに返ってきた声に、装いをつまんでいた指が緩む。けれど団長様は、その続きを言わない。


「では、務めがつまらなくなりました?」


「……逆だ」


「逆。では、楽しかったのですか?」


「……楽しすぎた」


 低い声が、最後のところでわずかにかすれる。団長様は手帳を開き、最後の項目を指す。恋の相談に乗る。令嬢たちの丸い字が、月の光を受けて浮かぶ。


「君の恋の相談には、乗れない」


「なぜです? これからも、女友達でいてはくださらないのですか?」


 頁を持つ指が止まる。私はその手元を見つめる。会で確かめたときと同じ字の下を、指が押さえている。


「友達の顔をして、別の気持ちで隣に居る。それでは、セルジュと同じだ」


「別の気持ち。……続きは、ないのですか?」


 手帳が閉じる。乾いた音が、広間からこぼれる弦の音を切る。団長様の靴先は、少しも近づかない。


「婚約者の居る君に、これ以上は言えない」


「言えない、で終わらせないでくださいませ。私、まだお返事を……」


 途中で声が細くなる。団長様は動かずに待っている。胸の前で自分の両手を重ねても、その先の言葉は出てこない。


「……君を困らせたいわけではない」


「困ってなど。……明日の会にも、お席を空けておきます。ですから、団長様」


 名を呼んだ私に、団長様は静かに一礼する。そのまま広間の明かりのほうへ戻っていく背中に、渡せる言葉がない。大きな背中が、夜会の客たちの装いに少しずつ隠れる。


 女友達、と声にしかける。けれど、もう、その名では呼べない。


 夜気の中で、空いた手を握る。さっきまで包まれていた指が、まだ温かい。失いたくないのは、この人だ。消えないように強く握ってから、ゆっくりほどく。


 遠ざかる背中へ、開いた指を伸ばしかける。あの手が差し出されるのを、今度も待とうとしている自分に気づく。


 私は手を下ろし、その手を自分で握り直す。


 今度は、私が答える番だ。


       ◇


 翌日の午前。今朝いちばんに、私は自分の口で父に話し、父はすぐに子爵家へ使いを出した。人前で先に線を越えた側の当主は、異を唱えない。婚約は、その通知で解ける。伯爵家の客間で、私はセルジュ様を迎える。


 セルジュ様の目の下には薄い影がある。戸口で足を止めると、こちらへ顔を上げ、早口で言う。


「友達ごっこはやめてくれ」


「ええ、やめましょう。婚約のほうを」


 セルジュ様が、戸口の前で固まる。


「は!?」


「父には今朝、話しました。子爵家にも、もう使いが着いています」


「そんな、待ってくれ。婚約まで、やめることないだろう?」


「婚約まで。ええ、私は、それをやめると申しております」


 セルジュ様は何か言いかけて、口を閉じる。しばらく立ち尽くしてから深く下げた頭に、いつもの勢いはない。


「……俺が、悪かった。マリエットが嫌だと言ったときに、聞けばよかった」


「お詫びは、受け取ります」


「……怒って、ないのか?」


「怒っていましたわ。ずっと前から。私がお話ししている間くらい、私を見てほしかった」


 セルジュ様が顔を上げる。私は重ねた手をほどき、膝の上に置き直す。いつもの軽口は来ない。


「……マリエットの話、いつも途中で遮ってたな」


「ええ。いつも」


 それだけ答えると、私も次の言葉がすぐには出ない。窓から差す光が、午後には針を並べる場所を照らしている。


「俺だけ、まだ続くと思ってた。マリエット、やり直せないか?」


「返事は変わりません」


「……そう、だよな。続けたいのは、俺だけなんだな」


 上官に問われたわけでもないのに、セルジュ様が私へ敬礼する。今は足も言葉も、どこへも逃げていかない。私はその手が下がるまで、顔を上げている。


 そのとき、戸口にモルガーヌ様が立つ。まくった袖にほこりがつき、縁へ掛けかけた手を、自分の脇へ戻す。


「掃除を抜けて謝りに来る許し、兄さんにもらってきた。……ごめん。男みたいなもんだって言えば、全部通ると思ってた」


「全部、ですか?」


「……マリエットが嫌だって言っても、私には関係ないって。そういう顔、してたと思う」


 モルガーヌ様の目が、敷居へ落ちる。戸口で、返事を待っている。


「ええ。今度は女友達として、戸口で声を掛けてくださいませ」


「……いいの?」


「私がお招きしますもの」


 モルガーヌ様が顔を上げる。言葉が出てくるまでに、少し間がある。


「……じゃあ、刺繍、教えてよね。針の持ち方からでも、笑わないでよ」


「針の持ち方から。ええ、そこは丁寧に教えますわ」


「私、兄さんみたいに器用じゃないからね!」


 言い終えると、モルガーヌ様は掃除途中の袖を見下ろす。ほこりをつまみ、口を曲げる。


「……まず掃除、終わらせてくる」


 遠ざかる二人の足音が聞こえなくなるまで、私は戸口を見ている。


 午後の会を開くと、団長様の席だけが空いている。焼き菓子のそばにも、針山の隣にも、角ばった字の手帳はない。針を持っても、糸の先が穴の縁に触れて曲がる。


 指で糸を整え、通す。会が終わるとすぐ、私は詰所へ向かう。


       ◇


 同じ日の夕方、同僚の騎士が詰所の奥を指す。


「団長なら旗の前です」


 窓から斜めに差す光が、旗の針目を照らしている。団長様は、その前に立っている。走ってきたせいで、私の息はまだ上がったまま。手帳へ目を落とされる前に、私は声を出す。


「婚約は、今朝で解けました。……昨日の続きを、伺いに来ました」


 手帳を持つ団長様の手が、宙で止まる。


「君が決めたのだな?」


「はい。自分で。父には、私からお願いしました」


「……そうか」


 手帳がぱたんと閉じる。団長様の指がその角を押さえ、私の続きが出てくるのを待っている。


「女友達の務めは、全部覚えられました?」


「できなかったことがある」


 私は手帳の角へそっと触れる。指の下で、使い込まれた端が柔らかい。


「できなかったこと? 団長様にも、苦手な務めがありましたの?」


「恋の相談だ」


 団長様の耳が赤くなる。私は手帳から指を離し、顔を上げる。


「恋の相談。ふふ、今は私にお話しくださいませ」


「……相談ではなく、願いだ」


「では、最後まで伺いますわ。途中で答えが分かっても、遮りません」


 団長様が手帳を懐へしまう。夕方の光を背に受けて、まっすぐ私を見る。


「君が好きだ。務めでなく、君の隣にいたい」


 返事が遅れる。団長様は、今度も言葉を足さずに待ってくれる。私は装いの縫い目をつかみかけた手を開く。


「……私も。女友達のお席だけでは、足りませんでした」


 団長様の口元が緩む。大きな手が、ゆっくりこちらへ差し出される。


「恋人の席は、空いているか?」


 夕方の光の中で、私の針目がきちんと並んでいる。旗を見上げ、それから団長様を見る。声は、まだ整わない。けれど手は迷わず、差し出された大きな手を、私から取る。


「はい。これからは、ちゃんと嫉妬してくださいね?」


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― 新着の感想 ―
読後感が良かったです! セルジュは反省するがヨロシ。 面白い物語をありがとうございました!!
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