「あいつは男友達みたいなものだ」と婚約者が言うので、私も"女友達"を作りました ~騎士団長様(婚約者の上官)が、今日も真顔で女子会に来ます~
夜会の広間で、燭台の灯りが私の杯に揺れる。甘い葡萄酒の匂いと弦の音。その向こうで、見慣れた金茶の頭が、私ではない人へ傾いている。
「あいつは男友達みたいなものだ。嫉妬するな」
夜会の真ん中で、婚約者の騎士セルジュ様は、女騎士モルガーヌ様の肩を抱いたまま言った。彼女はセルジュ様の杯で、平気で葡萄酒を飲んでいる。
「私、男みたいなもんだから!」
……なるほど。
私はマリエット、十九歳の伯爵令嬢で、刺繍の会の主宰。婚約は三年前から。結ぶのも解くのも当主どうしで、父は私が望めば解くと言っている。
「承知しました。では、私も女友達と仲良くしますわね」
振り返った先には、壁際で頭を抱えていた大男。モルガーヌ様の実のお兄様で、セルジュ様の上官。近衛騎士団長リュドヴィク様。
「団長様。私の女友達になってくださいません?」
「…………女友達の務めを、教えてくれ」
「団長!?」
「ふふ、私も女友達を作りました」
セルジュ様の杯が、口の手前で止まる。
「女友達って……団長は男だろう!?」
「男。では、モルガーヌ様は女性ですわね? 女性が男友達なら、殿方が女友達でも困りませんわ」
セルジュ様の腕は、まだモルガーヌ様の肩にある。私はその手を見てから、まっすぐ向き直る。
「ただの女友達ですもの。嫉妬なさらないで?」
近くの夜会の客たちが、杯を持ったまま動きを止める。王国一の剣と呼ばれる人の、見上げるほど高い肩へ、私は目を移す。
「セルジュ様がモルガーヌ様になさることを、同じだけ。それ以上はいたしません」
「……私も、その範囲を守る」
セルジュ様がしたように、その肩へ手を伸ばす。届かない。伸ばした指の行き先を見て、団長様が真顔で身をかがめる。
「恐れ入ります。肩をお借りするのも、大変ですのね」
「必要なら、さらにかがむ」
「いえ、今の高さで十分ですわ」
ようやく指先を置くと、硬い布の下で肩がこわばる。手元の杯には、傾いた灯りが細く伸びている。
「セルジュ。問題があるか?」
「……っ、ありません!」
セルジュ様が踵を鳴らして敬礼する。上官の問いには〈あります〉か〈ありません〉で答えるのが、近衛の決まりだ。ご自分の言い分に敬礼する姿は、初めて見る。
団長様は私が手を離すのを待って身を起こし、懐から手帳を出して開く。
「務めは、何から書けばいい?」
「まずは明日の刺繍の会へ。毎日午後に開きますの。主宰の招いた女友達しか入れませんのよ」
「では、君の招きがあれば入れるのだな?」
「ええ。私がお待ちしております」
団長様は書いた字を指で確かめ、真面目な顔でうなずく。
◇
翌日から、団長様は真顔で女子会に来るようになった。焼き菓子を五つ食べ、刺繍の会では誰より細かく針を運ぶ。
夜会から三日目の午後も、伯爵家の客間の戸口で、団長様は深く一礼する。開いた手帳には角ばった字が並び、細い糸のそばに置かれると、字まで背筋を伸ばしているように見える。
「菓子を分ける。刺繍を習う。合っているか?」
「ええ。続きもどうぞ」
「話を最後まで聞く。恋の相談に乗る」
「はい。最後まで、が大事ですわ」
最後の項目は、令嬢たちの書き足しだ。団長様の指が、その丸い字の下で止まる。
「途中で答えが分かってもか?」
「分かっても、ですわ。そこでお話を終わらせてはいけません」
「……針のほうが、分かりやすいな」
手帳を脇へ置き、団長様は持参の針を会の針山に並べて刺す。それから針を抜き、麻布へ糸を渡していく。布を押さえる指は大きいのに、針目は小さく、揃っている。糸は絡まずするすると布を抜ける。
令嬢の一人が自分の針を止めて、身を乗り出す。
「まあ、団長様、お上手ですこと!」
「傷を縫うのと同じだ」
令嬢たちの手がそろって止まり、私の糸も宙に浮く。
「傷。……団長様、焼き菓子の前ですわ」
「分かった。今は麻布を縫っている」
「ええ、見れば分かりますわね!」
笑い声に押されるように、団長様が手元を見下ろす。焼き菓子の甘い匂いに、椅子の寄る音が重なる。令嬢の一人がさらに身を乗り出す。
「私の女友達にもなっていただけます?」
「団長様は、私の女友達ですので」
口が勝手に動いていた。針を持つ手を、慌てて布へ戻す。団長様がこちらを見るより早く、糸の先をつまむ。ほどく必要のないところを、指がほどこうとしている。
そのとき、戸口から高い声が飛ぶ。非番のモルガーヌ様が、団長様を探して顔を出す。
「兄さん! なに刺繍してんの!?」
「女友達の務めだ」
「務めって何!? 私が呼んでも、そんなすぐには来ないくせに!」
モルガーヌ様が戸口の縁に手を掛ける。客間を覗く目が、針仕事から焼き菓子へ、それから寄り合う令嬢たちへ動く。
「あんたの会、楽しそうじゃん。私も入れて!」
「男友達みたいな方は、女子会には入れませんの」
「男友達って、ここでもそれ言うの!?」
「ここは女子会ですもの。戸口で確かめませんと」
モルガーヌ様の足が、敷居の手前で止まる。
「私だって女よ!」
布を抜ける糸の音まで途切れる。私は返事をしないまま、針を布の上に伏せる。
「……あ」
「男友達なら、明日から男と同じ早朝訓練だ。夜番も掃除も入れる」
団長様は針を止め、戸口へ顔を向ける。女騎士の通例でどれも免じられていたモルガーヌ様が、縁をつかみ直す。
「だから! そういう意味じゃない!」
「どういう意味だ?」
「男と同じにしていいところと、そうじゃないところがあるでしょ!」
「では、どこが違う?」
開きかけた口が止まり、モルガーヌ様の目が私の手元へそれる。やがて戸口から足を退け、唇を尖らせた。
「いいもん。今夜もセルジュといつもの角の酒場で飲むから、平気だってば!」
遠ざかる足音に、団長様は追う声を掛けない。止めていた針をまた動かす。私の糸だけが、まだ指に引っ掛かっている。
◇
婚約者が女騎士と酒場へ行く夜、私は団長様と菓子店へ。婚約者が彼女と一曲目を踊るなら、私も団長様と一曲目を。
その夜、菓子店の窓越しに、向かいの酒場の明かりが見える。セルジュ様とモルガーヌ様の背中が、同じ卓で揺れている。声は届かない。こちらの店内は温かく、焼いた砂糖の匂いが外套にまで染みそうだ。
団長様は手帳を確かめ、焼き菓子を真顔で半分に切る。
「ふふ、務めに熱心ですわね。そこまでぴったりでなくても」
「分けると書いてある」
「分ける。ええ、そうですけれど、焼き菓子は曲がって焼けることもありますわよ?」
「では、曲がった分も分ける」
団長様は切り口を見比べる。私の手は、焼き菓子の前でお預けだ。
「そのために、そんな難しい顔をなさっているのですか?」
「難しい。君のほうが小さくなってはいけない」
笑った拍子に、窓の明かりが視界の端で揺れる。団長様は手帳を閉じると、私を見た。
「上官の私を選んだのは、あいつが逆らえないからだろう?」
返事より先に、切り口へ目が逃げる。さくりと割れた生地から、蜜が細く垂れている。こぼれる前に手を伸ばそうとして、指が止まる。
「……はい」
「構わない」
団長様が、半分を私のほうへ寄せる。蜜の落ちかけた側が、こちらを向く。
「構わない、で済ませてよろしいのですか? 団長様まで巻き込んでしまいましたのに」
「君は範囲を隠さなかった。……焼き菓子は、美味そうだ」
「団長様。今のお話と、つながっておりませんわ」
団長様は残りの半分を口へ運び、うなずく。
「君は、まだ食べていない」
「食べていませんけれど! いま話を変えましたわね?」
「冷める。続きは、食べてから聞く」
食べてから、と言われては、宙に浮かせていた手を戻す先がない。焼き菓子を持ち上げると、柔らかな生地が指に沈む。
向かいの窓で金茶の頭がこちらを向き、すぐに見えなくなる。やがて通りへ出てきたセルジュ様が、足早に窓へ近づく。団長様が窓を開けると、夜風と一緒に酒場の笑い声が流れ込む。
「団長! なぜ俺の婚約者と!」
「女友達だ。問題があるか」
「……ありません!」
セルジュ様の手が上がる。返事だけは、通りの向こうまで届きそうだ。菓子店の客が窓へ目を向ける中、私は焼き菓子の切り口を示す。
「セルジュ様も、モルガーヌ様と酒場へお二人で。同じですわね?」
「同じ……だって、それは、あいつは!」
「男友達みたいなもの、でしたわね。私、きちんと覚えております」
「覚えてるなら、どうして団長と半分ずつ食べてるんだよ!?」
セルジュ様の指が、私の持つ焼き菓子へ向く。
「半分ずつ。杯をご一緒になさるのはよくて、焼き菓子はいけませんの?」
「それは……! いや、団長、俺は、その」
団長様へ向き直った姿勢のまま、セルジュ様の言葉が細くなる。後を追ってきたモルガーヌ様が、入口で袖を引く。
「明日は早朝訓練なんだから、戻ろうってば! セルジュの話が終わるの待ってたら、寝られないじゃん!」
引かれて遠ざかる背中を見送り、私は焼き菓子を口へ運ぶ。蜜の甘さを、今度はちゃんと味わえた。団長様の指が、閉じた手帳の角をなぞる。
「明朝、詰所で見せたいものがある」
「見せたいもの。今度は、何の務めですの?」
「務めではない。……朝は冷える。厚手の外套で来るといい」
「ええ、ぜひ伺います!」
団長様は口元を緩め、手帳には何も書かなかった。
◇
翌朝、訓練場の端に立つと、外套の裾から冷たい空気が入ってくる。土と鉄の匂いが近い。訓練を見る団長様の前で、走り終えたばかりのモルガーヌ様が汗を拭う。肩の大きな上下は収まらない。
「兄さん、これ嫌がらせでしょ!?」
「お前が男だと言った」
「言ったけど! 非番の朝くらい、寝てたっていいじゃん!」
「男の騎士も走っている」
訓練中の騎士たちが走っていく。モルガーヌ様は手ぬぐいを握りしめ、団長様へ向き直る。
「言葉のあや!」
「あやで婚約者の杯を取るな!」
張った声が訓練場を渡り、私の外套を押さえる手まで止まる。いつも麻布へ静かに落ちていた声と、同じ人のものなのに。
「……兄さんまで、そう言うの?」
「言う。次は走れ」
「今まで何も言わなかったじゃん! 急に厳しくしないでよ!」
「男と同じでよいと、聞いたからだ」
モルガーヌ様が口を開け、閉じる。握った手ぬぐいの端だけが、悔しそうに揺れる。
「鬼! 兄さんの鬼!」
「鬼で結構だ」
ふてくされた顔で駆け出したモルガーヌ様は、走る列へ並ぶ。団長様と詰所の脇へ移ると、少し先の水場で、セルジュ様が同僚の騎士にこぼしている。
「団長が俺の婚約者と菓子店だぞ! 菓子店! しかも、同じ焼き菓子を食べてたんだ!」
同僚の騎士が肩をすくめる。
「女友達なんだろ?」
水場のほうだけ、急に静かになる。振り向いたセルジュ様の目が私に留まり、その隣へ動いた途端、背中が伸びる。
「セルジュ、持ち場に問題があるか?」
「あ、ありません! いえ、戻ります!」
敬礼が済むより先に足が動き、セルジュ様は持ち場へ走っていく。呼び止める言葉もなく、団長様は詰所の中へ私を導く。
奥の壁に、色あせた騎士団旗が掛かっている。外の光が届く縁に、布より新しい糸が細く続く。近づくにつれ、私は外套を押さえていた指をほどいた。
「三年前、式典の前夜に裂けた旗だ。王都でいちばん針の細かい会に頼んだ。使いが翌朝、君の名とこれを持ち帰った。一晩で刺し直したと聞いている」
団長様は旗を見上げたまま、少しだけ声を落とす。
「毎朝、見上げている」
あの夜、使いが運んできた旗が、ここにある。薄くなった布を裂かないよう、糸を引く強さを変えたところ。縁を越えないように針を寝かせ、裏へ返したところ。忘れかけていた手の動きを、目の前の針目がたどっていく。
直し終えた布を送り出したあと、私の手元には糸だけが残る。その先の朝を、考えたことはなかった。
「……それ、私の針目です」
「知っている」
いつもの短い返事が、今朝はすぐに通り過ぎてくれない。旗から団長様へ目を上げても、お礼の言葉は形にならず、外套の縁を指でなぞる。
「どうして、言ってくださらなかったのですか?」
「女友達の務めに、入っていなかった」
団長様は旗から目を離さない。赤い糸の近くに見える耳へ、同じ色がゆっくり広がっていく。
「……そろそろ務めに戻る」
私はうなずくまでに、また間を空ける。毎朝、という声が、まだ耳に残っている。布の縁には、私の針目が途切れずに続いている。
◇
数日後の夜会。一曲目は本来、婚約者と踊るものだ。弦が最初の音を探し、広間の人垣がほどけていく。私は装いの裾を整え、セルジュ様へ目を向ける。
「友達だからいいだろう?」
私への言葉が終わるより早く、セルジュ様の手はモルガーヌ様へ伸びる。私は裾から指を離し、団長様へ向き直る。
「団長様、一曲目をご一緒に」
「喜んで」
「足を踏んでも、女友達の務めのうちですわよ?」
「踏まれても、務めのうちだ」
「ふふ、では遠慮なく。……本当に踏んでも、笑わないでくださいませね」
差し出された大きな手に指を重ねる。肩に触れたときとは違って、団長様の手にはためらいがない。
「笑わない。痛ければ、そう言う」
「まあ! それでは、踏めませんわ」
低い笑い声が、弦の音に重なる。導かれて回ると、夜会の灯りが装いの上を流れていく。足さばきが速くて、私はすぐに数え方を忘れる。それでも置いていかれないのは、団長様が合わせてくれるからだ。
すれ違いざまにセルジュ様と目が合う。その足が急に止まり、私たちは広間の中ほどで向き合う。曲だけが先へ進んでいく。
「婚約者の前で、他の男と!」
「他の男? 女友達ですわ」
「女友達が一曲目を踊るか!?」
「男友達が踊るのでしたら」
セルジュ様が私へ手を伸ばしかけ、モルガーヌ様とつないだほうの手を見る。
「そこまで同じにすることないだろう!」
「同じ。ええ、ご自分で仰った通りですわ」
「俺の言った通りにするな!」
言い切った声のあとに、弦の音が妙にはっきり響く。団長様がセルジュ様を見る。
「セルジュ。問題があるか?」
「……あります!」
広間のあちこちで、ささやきが止む。敬礼しかけた手がゆっくり下がり、セルジュ様は私の指を包む手を見つめる。
「俺は……嫉妬、している」
「嫉妬するな、と仰ったのは、どなたでしたかしら?」
セルジュ様の口が、開いたまま閉じない。モルガーヌ様が、その手を強く引く。
「ねえ、私と踊ってるんだけど?」
「わ、悪い、モルガーヌ。けど、マリエットが」
「ちょっと! 相手を放り出さないでよ! 自分から誘っといて、それはないじゃん!」
団長様が、私の手を握り直す。
「……続きを踊ろう」
「ええ。まだ曲は終わっていませんもの」
止まっていた足が、また動きだす。団長様は私が踏み出すのを待ってから、次の音へ導いてくれる。
「……団長様、足は痛くありません?」
「痛くない。君は上手い」
足元を確かめるふりで、目を伏せる。
「上手い。……それは、務めで仰っているのですか?」
「踏まれていないのは事実だ」
「もう。褒めていただいたのかと思いましたわ」
顔を上げると、団長様は真顔で私を見ている。
「褒めている」
曲の終わりの和音が、高い天井に溶けていく。私は返事の代わりに、その手に指を預け直す。踊り終えると、私は団長様と、夜風の通る露台へ出る。
◇
なのに、女友達の団長様が、ある夜ぽつりと言った。
「女友達は、今日で辞めたい」
露台の夜気が、首筋を冷やす。背中の窓の向こうで、広間の弦が遠く鳴っている。
「……クビ、ですか?」
「違う。君のせいではない」
すぐに返ってきた声に、装いをつまんでいた指が緩む。けれど団長様は、その続きを言わない。
「では、務めがつまらなくなりました?」
「……逆だ」
「逆。では、楽しかったのですか?」
「……楽しすぎた」
低い声が、最後のところでわずかにかすれる。団長様は手帳を開き、最後の項目を指す。恋の相談に乗る。令嬢たちの丸い字が、月の光を受けて浮かぶ。
「君の恋の相談には、乗れない」
「なぜです? これからも、女友達でいてはくださらないのですか?」
頁を持つ指が止まる。私はその手元を見つめる。会で確かめたときと同じ字の下を、指が押さえている。
「友達の顔をして、別の気持ちで隣に居る。それでは、セルジュと同じだ」
「別の気持ち。……続きは、ないのですか?」
手帳が閉じる。乾いた音が、広間からこぼれる弦の音を切る。団長様の靴先は、少しも近づかない。
「婚約者の居る君に、これ以上は言えない」
「言えない、で終わらせないでくださいませ。私、まだお返事を……」
途中で声が細くなる。団長様は動かずに待っている。胸の前で自分の両手を重ねても、その先の言葉は出てこない。
「……君を困らせたいわけではない」
「困ってなど。……明日の会にも、お席を空けておきます。ですから、団長様」
名を呼んだ私に、団長様は静かに一礼する。そのまま広間の明かりのほうへ戻っていく背中に、渡せる言葉がない。大きな背中が、夜会の客たちの装いに少しずつ隠れる。
女友達、と声にしかける。けれど、もう、その名では呼べない。
夜気の中で、空いた手を握る。さっきまで包まれていた指が、まだ温かい。失いたくないのは、この人だ。消えないように強く握ってから、ゆっくりほどく。
遠ざかる背中へ、開いた指を伸ばしかける。あの手が差し出されるのを、今度も待とうとしている自分に気づく。
私は手を下ろし、その手を自分で握り直す。
今度は、私が答える番だ。
◇
翌日の午前。今朝いちばんに、私は自分の口で父に話し、父はすぐに子爵家へ使いを出した。人前で先に線を越えた側の当主は、異を唱えない。婚約は、その通知で解ける。伯爵家の客間で、私はセルジュ様を迎える。
セルジュ様の目の下には薄い影がある。戸口で足を止めると、こちらへ顔を上げ、早口で言う。
「友達ごっこはやめてくれ」
「ええ、やめましょう。婚約のほうを」
セルジュ様が、戸口の前で固まる。
「は!?」
「父には今朝、話しました。子爵家にも、もう使いが着いています」
「そんな、待ってくれ。婚約まで、やめることないだろう?」
「婚約まで。ええ、私は、それをやめると申しております」
セルジュ様は何か言いかけて、口を閉じる。しばらく立ち尽くしてから深く下げた頭に、いつもの勢いはない。
「……俺が、悪かった。マリエットが嫌だと言ったときに、聞けばよかった」
「お詫びは、受け取ります」
「……怒って、ないのか?」
「怒っていましたわ。ずっと前から。私がお話ししている間くらい、私を見てほしかった」
セルジュ様が顔を上げる。私は重ねた手をほどき、膝の上に置き直す。いつもの軽口は来ない。
「……マリエットの話、いつも途中で遮ってたな」
「ええ。いつも」
それだけ答えると、私も次の言葉がすぐには出ない。窓から差す光が、午後には針を並べる場所を照らしている。
「俺だけ、まだ続くと思ってた。マリエット、やり直せないか?」
「返事は変わりません」
「……そう、だよな。続けたいのは、俺だけなんだな」
上官に問われたわけでもないのに、セルジュ様が私へ敬礼する。今は足も言葉も、どこへも逃げていかない。私はその手が下がるまで、顔を上げている。
そのとき、戸口にモルガーヌ様が立つ。まくった袖にほこりがつき、縁へ掛けかけた手を、自分の脇へ戻す。
「掃除を抜けて謝りに来る許し、兄さんにもらってきた。……ごめん。男みたいなもんだって言えば、全部通ると思ってた」
「全部、ですか?」
「……マリエットが嫌だって言っても、私には関係ないって。そういう顔、してたと思う」
モルガーヌ様の目が、敷居へ落ちる。戸口で、返事を待っている。
「ええ。今度は女友達として、戸口で声を掛けてくださいませ」
「……いいの?」
「私がお招きしますもの」
モルガーヌ様が顔を上げる。言葉が出てくるまでに、少し間がある。
「……じゃあ、刺繍、教えてよね。針の持ち方からでも、笑わないでよ」
「針の持ち方から。ええ、そこは丁寧に教えますわ」
「私、兄さんみたいに器用じゃないからね!」
言い終えると、モルガーヌ様は掃除途中の袖を見下ろす。ほこりをつまみ、口を曲げる。
「……まず掃除、終わらせてくる」
遠ざかる二人の足音が聞こえなくなるまで、私は戸口を見ている。
午後の会を開くと、団長様の席だけが空いている。焼き菓子のそばにも、針山の隣にも、角ばった字の手帳はない。針を持っても、糸の先が穴の縁に触れて曲がる。
指で糸を整え、通す。会が終わるとすぐ、私は詰所へ向かう。
◇
同じ日の夕方、同僚の騎士が詰所の奥を指す。
「団長なら旗の前です」
窓から斜めに差す光が、旗の針目を照らしている。団長様は、その前に立っている。走ってきたせいで、私の息はまだ上がったまま。手帳へ目を落とされる前に、私は声を出す。
「婚約は、今朝で解けました。……昨日の続きを、伺いに来ました」
手帳を持つ団長様の手が、宙で止まる。
「君が決めたのだな?」
「はい。自分で。父には、私からお願いしました」
「……そうか」
手帳がぱたんと閉じる。団長様の指がその角を押さえ、私の続きが出てくるのを待っている。
「女友達の務めは、全部覚えられました?」
「できなかったことがある」
私は手帳の角へそっと触れる。指の下で、使い込まれた端が柔らかい。
「できなかったこと? 団長様にも、苦手な務めがありましたの?」
「恋の相談だ」
団長様の耳が赤くなる。私は手帳から指を離し、顔を上げる。
「恋の相談。ふふ、今は私にお話しくださいませ」
「……相談ではなく、願いだ」
「では、最後まで伺いますわ。途中で答えが分かっても、遮りません」
団長様が手帳を懐へしまう。夕方の光を背に受けて、まっすぐ私を見る。
「君が好きだ。務めでなく、君の隣にいたい」
返事が遅れる。団長様は、今度も言葉を足さずに待ってくれる。私は装いの縫い目をつかみかけた手を開く。
「……私も。女友達のお席だけでは、足りませんでした」
団長様の口元が緩む。大きな手が、ゆっくりこちらへ差し出される。
「恋人の席は、空いているか?」
夕方の光の中で、私の針目がきちんと並んでいる。旗を見上げ、それから団長様を見る。声は、まだ整わない。けれど手は迷わず、差し出された大きな手を、私から取る。
「はい。これからは、ちゃんと嫉妬してくださいね?」




