契約のない贈り物は、断ってもいい
セレネは、ラウルの手元に残された印章を見つめた。
「頼みたいことがあるなら、聞きます。ただし、契約に書かないことなら、なおさら断る権利を残してください」
「分かっている」
ラウルはそう答えたが、声はいつもより低かった。
広場では、住民たちが新しい契約を読み上げていた。字を読める者が紙を持ち、読めない者の隣で一行ずつ言葉にする。水を受け取った人は、欄外に印をつけるか、立会人に自分の意見を伝えている。
その輪の外で、ラウルはセレネと向き合った。
「王都へ戻る前に、ヴァイスレイに残ってほしい」
予想していなかった言葉ではない。けれど、聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
「改革担当として、ですか」
「それなら、契約にできる」
「では、何として?」
ラウルは答えなかった。
彼が沈黙すると、周囲の音がかえってはっきり聞こえた。桶に水が満ちる音。子どもが笑う声。水番の交代を知らせる鐘。広場の隅で、マティアが誰かに記録の綴じ方を説明している。
やがてラウルは、印章を握りしめた。
「私のそばにいてほしい」
短い言葉だった。
セレネの中で、いくつもの赤い線が走ったような気がした。命令なのか。領主としての要請なのか。仕事の依頼なのか。それとも、一人の男が差し出した願いなのか。
だが、契約魔法の赤い線は現れなかった。
彼の言葉には、彼女を縛る効力がなかった。拒めば失うものがあるとしても、拒む自由は残されている。
「それは、頼みですか」
「そうだ」
「命令ではなく?」
「命令にしたくない」
「辺境伯として、私を必要としているのではなく?」
「必要としている。だが、それだけではない」
ラウルはセレネから目を逸らさなかった。
「あなたがいなければ、私はまた、正しいと思ったものを一人で決める。誰かの言葉を聞いたつもりになり、聞き落とした人間を置き去りにする。あなたには、それを止めてほしい」
「それは、私を監視役にしたいということですか」
「違う。あなたが、あなたの望む仕事をする場所を、私の領地に作りたい」
「私の望む仕事?」
「読めない人にも読める契約を作る。署名できない人の声を記録する。契約を結んだ後も、見直せる仕組みを残す。王立契約院だけでなく、各領地にそれを広げる」
セレネは、乾きかけた契約書へ目を落とした。
彼女が長い間、願っていたことだった。けれど、願いはいつも、身分や予算や古い規則の前で小さく折りたたまれてきた。
「私を辺境伯の庇護下に置けば、また別の契約院員が、あなたに都合のいい文書だと言います」
「そう言われない方法を考える」
「あなたが考えるだけでは足りません」
「分かっている」
「雇用条件、独立した監査、住民が意見を言える場所。すべて必要です」
「書類にする」
ラウルは即答した。
「けれど、その書類はあなたが断っても効力を持たないようにする」
セレネは思わず笑った。
「契約なのに?」
「あなたが選ばなければ、始まらない契約にする」
「随分と難しい注文ですね」
「あなたから教わった」
彼がそんなふうに言うとは思わなかった。セレネは笑いを消し、まっすぐ彼を見た。
「それでも、今すぐ答えは出せません」
「待つ」
「王都へ戻って、総監の裁定を覆した記録を正式に提出します。改革担当に任命される可能性もあります」
「ならば、王都で働きながらでもいい」
「水の都へ通うのは簡単ではありません」
「水路を整えれば、道も整える」
「また契約に頼るのですか」
「今度は、誰か一人が決めない」
ラウルの口元が、ごくわずかに緩んだ。
その表情を見て、セレネの胸に別の問いが浮かんだ。彼は仕事の話をしている。けれど、今、印章を使わずに差し出しているのは、領地でも職でもない。
彼自身の時間と、信頼と、選ばれないかもしれない不安だった。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「私が断ったら?」
ラウルは少しだけ目を伏せた。
「あなたがここで作った仕組みは残す。王都へ戻る道を用意する。必要なら、いつでも水路の記録を送る」
「あなたは?」
「残る」
「一人で?」
「一人ではない。住民がいる。ノエルもいる。マティアも、時々来るだろう」
「私がいなくても、あなたは大丈夫ですか」
「大丈夫ではないかもしれない」
正直な答えに、セレネは息を止めた。
「だが、あなたを引き留める理由にはしない」
それは、契約書には書けない言葉だった。
強制する効力も、違反を裁く条項もない。ただ、相手が自分の意思で選ぶまで、相手の自由を守るための言葉だった。
セレネは広場の水盤へ歩み寄った。水面に映る空は、昨日までより広く見えた。水は戻った。憲章も、署名も、守るための仕組みもできた。けれど、守る仕組みは完成したのではない。明日も誰かが読み、問い、直し続けなければならない。
彼女はラウルのもとへ戻った。
「返事は、王都へ戻ってからします」
「分かった」
「ただし、今、一つだけ贈り物をします」
ラウルが顔を上げた。
セレネは彼の手から印章を取り、そっと脇の机へ置いた。それから、空いた手を彼の前へ差し出した。
「契約ではない約束を、一度だけ」
ラウルはその手を見た。
「どんな約束だ」
「あなたが一人で決めそうになったら、私は止めます。私が一人で抱え込もうとしたら、あなたも止めてください」
「それは、断れないのか」
「断ってもいいです。贈り物ですから」
ラウルは長い沈黙のあと、彼女の手を取った。
「断らない」
大きな手だった。剣を握り、印章を押し、過去には誤った決定にも関わった手。その手が今は、彼女を縛るためではなく、確かめるように触れている。
セレネは指を絡めなかった。ただ、離さなかった。
その時、広場の中央でノエルが声を上げた。
「水番会議、始めるぞ! 今日の意見を読む!」
旅人の女が手を挙げた。
「夜にも水が欲しい!」
老人が続ける。
「礼拝堂の桶を一つ、広場に置いてくれ!」
声は重なり、互いに遮り、何度も聞き返された。それでも誰かが記録し、誰かが読み上げる。
セレネはラウルの手を離した。
「行きましょう。最初の見直しです」
「ああ」
二人は人々の輪へ戻っていった。
水を分ける決まりは、今日も書き直される。明日も、きっと直される。そのたびに、誰かの声が余白へ加わっていく。
そしてセレネは知っていた。
自分が選ぶべきなのは、誰かに必要とされることではない。必要とされても、されなくても、自分が守りたい言葉のそばに立つことだ。
その隣にラウルがいるなら、それは契約の報酬ではない。
彼女が、自分の意思で受け取る贈り物だった。




