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一文字違いの契約書を見抜く私が、無口な辺境伯と水の都を守ります  作者: 銀細工ナギ


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19/20

契約のない贈り物は、断ってもいい

 セレネは、ラウルの手元に残された印章を見つめた。


「頼みたいことがあるなら、聞きます。ただし、契約に書かないことなら、なおさら断る権利を残してください」


「分かっている」


 ラウルはそう答えたが、声はいつもより低かった。


 広場では、住民たちが新しい契約を読み上げていた。字を読める者が紙を持ち、読めない者の隣で一行ずつ言葉にする。水を受け取った人は、欄外に印をつけるか、立会人に自分の意見を伝えている。


 その輪の外で、ラウルはセレネと向き合った。


「王都へ戻る前に、ヴァイスレイに残ってほしい」


 予想していなかった言葉ではない。けれど、聞いた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。


「改革担当として、ですか」


「それなら、契約にできる」


「では、何として?」


 ラウルは答えなかった。


 彼が沈黙すると、周囲の音がかえってはっきり聞こえた。桶に水が満ちる音。子どもが笑う声。水番の交代を知らせる鐘。広場の隅で、マティアが誰かに記録の綴じ方を説明している。


 やがてラウルは、印章を握りしめた。


「私のそばにいてほしい」


 短い言葉だった。


 セレネの中で、いくつもの赤い線が走ったような気がした。命令なのか。領主としての要請なのか。仕事の依頼なのか。それとも、一人の男が差し出した願いなのか。


 だが、契約魔法の赤い線は現れなかった。


 彼の言葉には、彼女を縛る効力がなかった。拒めば失うものがあるとしても、拒む自由は残されている。


「それは、頼みですか」


「そうだ」


「命令ではなく?」


「命令にしたくない」


「辺境伯として、私を必要としているのではなく?」


「必要としている。だが、それだけではない」


 ラウルはセレネから目を逸らさなかった。


「あなたがいなければ、私はまた、正しいと思ったものを一人で決める。誰かの言葉を聞いたつもりになり、聞き落とした人間を置き去りにする。あなたには、それを止めてほしい」


「それは、私を監視役にしたいということですか」


「違う。あなたが、あなたの望む仕事をする場所を、私の領地に作りたい」


「私の望む仕事?」


「読めない人にも読める契約を作る。署名できない人の声を記録する。契約を結んだ後も、見直せる仕組みを残す。王立契約院だけでなく、各領地にそれを広げる」


 セレネは、乾きかけた契約書へ目を落とした。


 彼女が長い間、願っていたことだった。けれど、願いはいつも、身分や予算や古い規則の前で小さく折りたたまれてきた。


「私を辺境伯の庇護下に置けば、また別の契約院員が、あなたに都合のいい文書だと言います」


「そう言われない方法を考える」


「あなたが考えるだけでは足りません」


「分かっている」


「雇用条件、独立した監査、住民が意見を言える場所。すべて必要です」


「書類にする」


 ラウルは即答した。


「けれど、その書類はあなたが断っても効力を持たないようにする」


 セレネは思わず笑った。


「契約なのに?」


「あなたが選ばなければ、始まらない契約にする」


「随分と難しい注文ですね」


「あなたから教わった」


 彼がそんなふうに言うとは思わなかった。セレネは笑いを消し、まっすぐ彼を見た。


「それでも、今すぐ答えは出せません」


「待つ」


「王都へ戻って、総監の裁定を覆した記録を正式に提出します。改革担当に任命される可能性もあります」


「ならば、王都で働きながらでもいい」


「水の都へ通うのは簡単ではありません」


「水路を整えれば、道も整える」


「また契約に頼るのですか」


「今度は、誰か一人が決めない」


 ラウルの口元が、ごくわずかに緩んだ。


 その表情を見て、セレネの胸に別の問いが浮かんだ。彼は仕事の話をしている。けれど、今、印章を使わずに差し出しているのは、領地でも職でもない。


 彼自身の時間と、信頼と、選ばれないかもしれない不安だった。


「もう一つ、聞いてもいいですか」


「何でも」


「私が断ったら?」


 ラウルは少しだけ目を伏せた。


「あなたがここで作った仕組みは残す。王都へ戻る道を用意する。必要なら、いつでも水路の記録を送る」


「あなたは?」


「残る」


「一人で?」


「一人ではない。住民がいる。ノエルもいる。マティアも、時々来るだろう」


「私がいなくても、あなたは大丈夫ですか」


「大丈夫ではないかもしれない」


 正直な答えに、セレネは息を止めた。


「だが、あなたを引き留める理由にはしない」


 それは、契約書には書けない言葉だった。


 強制する効力も、違反を裁く条項もない。ただ、相手が自分の意思で選ぶまで、相手の自由を守るための言葉だった。


 セレネは広場の水盤へ歩み寄った。水面に映る空は、昨日までより広く見えた。水は戻った。憲章も、署名も、守るための仕組みもできた。けれど、守る仕組みは完成したのではない。明日も誰かが読み、問い、直し続けなければならない。


 彼女はラウルのもとへ戻った。


「返事は、王都へ戻ってからします」


「分かった」


「ただし、今、一つだけ贈り物をします」


 ラウルが顔を上げた。


 セレネは彼の手から印章を取り、そっと脇の机へ置いた。それから、空いた手を彼の前へ差し出した。


「契約ではない約束を、一度だけ」


 ラウルはその手を見た。


「どんな約束だ」


「あなたが一人で決めそうになったら、私は止めます。私が一人で抱え込もうとしたら、あなたも止めてください」


「それは、断れないのか」


「断ってもいいです。贈り物ですから」


 ラウルは長い沈黙のあと、彼女の手を取った。


「断らない」


 大きな手だった。剣を握り、印章を押し、過去には誤った決定にも関わった手。その手が今は、彼女を縛るためではなく、確かめるように触れている。


 セレネは指を絡めなかった。ただ、離さなかった。


 その時、広場の中央でノエルが声を上げた。


「水番会議、始めるぞ! 今日の意見を読む!」


 旅人の女が手を挙げた。


「夜にも水が欲しい!」


 老人が続ける。


「礼拝堂の桶を一つ、広場に置いてくれ!」


 声は重なり、互いに遮り、何度も聞き返された。それでも誰かが記録し、誰かが読み上げる。


 セレネはラウルの手を離した。


「行きましょう。最初の見直しです」


「ああ」


 二人は人々の輪へ戻っていった。


 水を分ける決まりは、今日も書き直される。明日も、きっと直される。そのたびに、誰かの声が余白へ加わっていく。


 そしてセレネは知っていた。


 自分が選ぶべきなのは、誰かに必要とされることではない。必要とされても、されなくても、自分が守りたい言葉のそばに立つことだ。


 その隣にラウルがいるなら、それは契約の報酬ではない。


 彼女が、自分の意思で受け取る贈り物だった。

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