明日、君に会いに行く
早紀は、僕の書く旅行記によく赤を入れる。
誤字ではなく、主に自分のせりふに。
「私、こんなこと言わない」
そう言いながら、ためらいなく線を引く。
僕としては、なるべく彼女らしく書いているつもりだった。
彼女の口癖も、笑う前に一度だけ唇を結ぶところも、考え事をすると右の耳たぶを触る癖も、知っている。
それでも、彼女の返事はよく間違えた。
一日目。晴れ。
待ち合わせの十五分前に、僕は改札を出た。
駅前のロータリーには、誰も乗っていないバスが停まっていた。屋根の上で、鳥が一羽、こちらを見ていた。カモメだと思ったが、よく見れば鳩だった。
海の近くにいるというだけで、僕は鳥にまでそれらしい役を与えようとしていた。
早紀は、駅前の通りの向こうからやってきた。
肩に掛けているのは、見慣れた紺色の鞄だった。普段よりずっと膨らんでいて、口のところから白い布がはみ出している。
「早い」
僕を見つけた早紀が、最初に言った。
「こんにちは、くらい言えない?」
「圭が待ち合わせ場所にいる」
「珍しい生き物みたいに」
「しかも、合ってる」
前科があったので、反論はしなかった。
僕たちの初めてのデートは、僕が駅の出口を間違えたせいで、別々の広場から同じ時計塔を見上げるところから始まった。
その次は、美術館の休館日だった。
早紀は閉ざされた門の前でしばらく黙り、それから、「作品の保存状態、よさそうだね」と言った。
僕はあの日から、彼女と出かけるのが好きになった。
「今日こそ、失敗しないことにしたんだ」
「決めたらしなくて済むんだっけ」
「今日だけは」
手を差し出すと、早紀は自分の鞄を見た。
「これ、重いよ」
「一泊なのに?」
「一泊だから。何が足りないかわからないじゃん」
僕は鞄を受け取り、海へ向かって歩き始めた。
駅前の通りは、すぐに細くなった。軒先に干されたタオルの向こうに、青いものが見え隠れしていた。空なのか、海なのか、まだ区別がつかなかった。
途中の惣菜屋で、揚げたてのコロッケを買った。
僕は普通のものを、早紀はチーズ入りを選んだ。
「半分、交換しよう」
早紀はそう言って、自分のコロッケを差し出した。
彼女の分は、すでに三分の一ほどになっていた。
「半分という言葉の意味は知ってる?」
「味の交換です。量の交渉はしていません」
ひと口で、よくこんなに食べられる。
――ここには、早紀の赤い字が入っている。
〈せめて三口。私の口を大きく書かないでください〉
訂正を受け入れても、交換条件が不利なことは変わらなかった。
僕は自分のコロッケを半分に割った。
どちらを渡しても、彼女の残りより大きかった。
早紀は差し出された半分を両手で受け取った。紙袋の角が、油で少し透けていた。
「おいしい」
「そっちのも?」
「おいしい」
「僕がもらったほう、チーズがほとんどないけど」
「大事なところは確認しておいた」
そう言って、早紀が笑った。
通りを抜けると、海があった。
視界が急に広がったせいで、僕は一度、足を止めた。
海の色は、旅行案内の写真と同じ青だった。風は強すぎず、日差しも暑すぎなかった。波が崩れるたび、白い縁が手前へ寄ってきた。
早紀は最後のひと口を飲み込み、空になった袋を畳んだ。
「ほんとに来たね」
僕はうなずいた。
その言葉には、うまく返事ができなかった。
午後は、岬の灯台へ行った。
灯台へ続く階段を、僕は二段ずつ上った。
「待って」
振り返ると、早紀が数段下で手すりをつかんでいた。
僕は彼女の一段上まで戻り、手を伸ばした。
早紀は少し迷ったあと、その手を取った。鞄は僕の肩にあった。僕は先に立って、彼女が上がってくるのを待つことができた。
灯台から見る海は、駅前で見た海より、いくらか高級そうだった。
「入場料の分だね」
「同じ海なのに」
「でも、さっきより遠くまで見える」
早紀の髪が、風で頬に張りついていた。
彼女は片手でそれを押さえ、もう片方の手で、僕のシャツの裾をつかんだ。
僕はその手に、自分の手を重ねた。
どこまでも歩いていけそうな気がした。
この旅行では、僕たちは一度も道を間違えなかった。
電車にも乗り遅れず、行こうとした店も閉まっていなかった。
予約した宿の窓からは、写真で見たとおりの海が見えた。
夕食のあと、早紀が言った。
「次は、冬に来るのもよさそう」
僕は、湯飲みを持ち上げた。
「寒いよ」
「そのための温泉でしょ」
窓に映った彼女の顔は、海を向いていた。
僕の顔は、湯飲みで半分隠れていた。
「デザート、頼む?」
少し間を置いて、早紀は僕を見た。
「頼む」
その返事に、僕はほっとした。
二日目。晴れ。
帰りの電車まで、あと四十分あった。
僕たちは駅前のベンチに並んで座っていた。
風は穏やかで、早紀の髪も乱れていなかった。
遠くで、踏切の音がした。
「早紀」
僕が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「この旅行を、最後にしよう」
彼女は何も言わなかった。
「これからは、僕のことを気にしなくていい。行きたいところに行って、したいことをしてほしい」
僕はできるだけ穏やかに言った。
早紀が困らないように。
僕のことで、これ以上、何かをあきらめなくて済むように。
「別れよう」
早紀は泣かなかった。
少しだけ笑って、言った。
「楽しかった。私、もう大丈夫だよ」
「言わない」
赤い線が、「私」を斜めに貫いた。
早紀は、今度は最後の一文を丸ごと消した。
筆圧が強くて、ペンの先が紙の裏まで響いた。
「こんなこと、私、言わない」
僕はノートから顔を上げた。
窓の外に、海はなかった。
見えるのは、駐車場と、向かいの病棟だった。面会の終わりが近づくと、通路を歩く人の靴音が増える。どこかの部屋でテレビがついていた。
早紀は、僕のベッドの脇に置かれた丸椅子に座っていた。
紺色の鞄は、その足元にある。
鞄の隣には、僕の車椅子があった。
僕たちは、この旅行に、まだ行っていない。
一泊二日の旅行記だけを、二人で書いていた。
*
事故に遭ったのは、春だった。
初めて泊まりで旅行に行く約束をしていた。
宿を予約した翌週、僕は病院の天井を見ることになった。
初めのうちは、日付を数えていた。
旅行まで、あと何日。
仕事の予定まで、あと何日。
予約を取り消すなら、あと何日。
そのうち、数えるものがなくなった。
宿を取り消した夜、僕は早紀に謝った。
彼女は「また予約すればいいよ」と言った。
その「また」が、僕にはずいぶん遠く聞こえた。
できることは、少しずつ増えていた。
けれど、前と同じように歩けるようになるか、なるとして、それがいつなのか。まだ答えは出ていなかった。
来月のことを考えようとしても、うまくいかなかった。
明日の予定表に書かれたことを、一つずつ終わらせるだけで日が暮れた。
ノートを持ってきたのは、早紀だった。
まだ夏になる前のことだ。
「旅行記、書いてよ」
僕は表紙を見た。青い、ごく普通の大学ノートだった。
「行ってないのに?」
「先に書いておこう」
「それは旅行の計画っていうんじゃない?」
「計画だと、何時に出発、何時に到着、何円、で終わるじゃん」
早紀はベッドの脇に椅子を寄せた。
「コロッケがおいしかったとか、旅館の枕が高かったとか。そういうのがいい」
「枕、高い予定なんだ」
「そこは未定です」
行くはずだった町には、海があった。
僕たちは宿の写真や町の地図を見ながら、まだしていない旅行を、したことにして書き始めた。
実際に行けたら、違っていたところを直す。
それが早紀の提案だった。
僕は、いつも遅れる待ち合わせに、十五分前に着くことにした。
「いきなり創作が入ってますね」
早紀は笑ったが、そこには線を引かなかった。
彼女が帰ったあとも、僕は続きを書いた。
ノートの中で、僕は歩いた。
早紀の鞄を持ち、階段を上り、彼女を待った。
疲れた彼女のために店を探し、すぐに席を見つけた。
僕が困らなければ、早紀も困らなかった。
書き上がったページを見せると、早紀は笑った。
面会の時間に、検査や体調以外の話ができるようになった。
そのことが、僕はうれしかった。
だから、うまく書かなければと思った。
ノートの中にだけは、彼女をどこへでも連れていける僕がいた。
*
「これ、いつ考えたの」
早紀は、赤く消された結末を見ていた。
「この前」
「この前って、いつ」
「……早紀が、旅行の写真を見せてくれた日」
彼女は、口を閉じた。
会社の人たちと行った山の写真だった。
早紀は頂上の標識の隣で笑っていた。首にタオルを巻いて、風に吹かれて、頬を赤くしていた。
僕は、その写真を何度も見た。
好きな顔だった。
僕の病室では見せなくなった顔だ、とも思った。
「楽しかったんだろ」
「うん」
「これからも、ああいうところに行ってほしい」
早紀は、ペンのキャップを閉めた。
「行くよ」
僕は顔を上げた。
「誘われたら、また行く。圭と行けない場所にも、行くと思う」
予想していなかった返事だった。
胸のどこかが傷ついて、それから、そのことを恥ずかしいと思った。
自由になってほしい、と言いながら。
僕は、彼女に否定してほしかった。
口に出すのが怖くて、別れ話をノートに書いた。
それなのに、見せれば、いつものように赤で直してくれるかもしれないと、どこかで期待していた。
きれいに別れようとする僕も、それに納得する早紀も、僕に都合よく書かれていた。
「でも、それと、別れるのは別の話でしょ」
早紀はノートを僕の膝に戻した。
「山から帰って、圭に写真を見せたかった。お土産の変なお菓子、二人で食べたかった。そこまで含めて、私の旅行だったんだけど」
僕は、あのお菓子を思い出した。
丸い箱に入っていたのに、中身は全部四角かった。
早紀はそのことに、妙に腹を立てていた。
僕たちは笑った。
箱の蓋を裏返して、早紀がお菓子を並べたことも思い出した。
ベッドの上に粉を落として、二人で慌てて拾ったことも。
写真を何度も見返しながら、僕はそのあとのことを見ないようにしていた。
「でも、僕とじゃ、前みたいには――」
「うん」
早紀は、そこを否定しなかった。
「前と同じには、できないことがあると思う」
通路を、配膳車が通った。
車輪が床の継ぎ目を越えるたび、小さく鳴った。
僕は、その音が遠ざかるのを待った。
「待たせてばっかりになる」
早紀は僕を見た。
すぐには、返事をしなかった。
「私、会いに来てるんだよ」
膝の上で、ノートの角が折れていた。
僕はそれを指で戻した。戻しても、白い筋が残った。
「歩けるようになった圭に会うために、今の圭のところで順番待ちしてるわけじゃない」
早紀の声は、少し固かった。
「もちろん、よくなってほしいよ。できることが増えたらうれしい。でも、会いに来たとき、まだだめだって顔をされると……私、誰に会いに来たことになってるんだろうって思う」
僕は、何も言えなかった。
来てくれてありがとう、と言う前に、謝っていたことを思い出した。
今日はあまり調子がよくない。
この前より、できなくなった。
せっかく来てくれたのに、ごめん。
彼女が持ってきた話を聞く前に、そういうことを言っていた。
「しんどい日もあるよ」
早紀は続けた。
「仕事が遅くなって、今日は帰って寝たいなって思う日もある。そういう日は、来ないって言えるようにしたい」
「……うん」
「来ない日があっても、嫌いになった日じゃないから」
僕は、ノートを閉じようとした。
早紀が、その表紙を押さえた。
「最後まで言って」
僕は手を止めた。
「私をどうしたいかじゃなくて、圭はどうしたいの」
言わなければいけないことは、用意してあった。
幸せになってほしい。
迷惑をかけたくない。
もっといい人がいる。
紙に書けば、どれもきれいなせりふになった。
けれど、早紀がこちらを見ていると、そのどれも口にできなかった。
「……別れたくない」
一度目は、ほとんど息だった。
僕は彼女を見て、言い直した。
「別れたくない。早紀と、旅行に行きたい」
早紀は、目を伏せた。
ペンを握っていないほうの手が、スカートの布をつかんでいた。
その指が、ゆっくりほどけた。
「そういうのを、私に言ってよ」
僕はうなずいた。
「ごめん。早紀の気持ち、聞いてなかった」
しばらく、僕たちは黙っていた。
早紀は何か言いかけて、やめた。
僕は、その先を勝手に埋めずに待った。
やがて彼女が、ベッドの端に手を置いた。
僕はその近くに、自分の手を置いた。
「手、つないでて」
早紀はうなずいた。
ノートが邪魔になったので、脇へよけた。
帰る前に、彼女はもう一度、赤いペンを開いた。
消された結末の横に、短く書いた。
〈本人に確認〉
「圭が別れたいなら、そう言っていいよ」
キャップを閉めながら、早紀は言った。
「でも、私が納得して笑ったところまで、勝手に書かないで」
僕は、もう一度うなずいた。
早紀は鞄を持ち上げ、それから思い出したように、ノートを指さした。
「あと、ずっと晴れてる」
「晴れてるほうがいいだろ」
「そうだけど、天気予報より強気だなと思って」
僕は少し笑った。
彼女も、少しだけ笑った。
その笑い方は、ノートに書いてあったものとは違っていた。
*
それから、何もかもすぐにうまくいったわけではない。
早紀が来られないと連絡してきた日は、やっぱり寂しかった。
短い返事を送ってしまい、あとから「ちょっと寂しかっただけ」と送り直したこともある。
早紀からも、「今日は心配しすぎた。ごめん」と届く日があった。
僕たちは、少しずつ、言い直すようになった。
彼女が友達と温泉へ行ったとき、僕は「僕のことは気にしなくていい」と打ちかけて、消した。
代わりに送った。
〈お土産は、まんじゅうがいい〉
返事はすぐに来た。
〈何個?〉
僕は少し考えてから、六個と答えた。
翌週、早紀は四個持ってきた。
「途中で何かあった?」
「旅には予定外のことが起こるからね」
僕は、ようやくその旅行の話を、ただ面白がって聞くことができた。
ノートの使い方も、変わった。
灯台の階段を上る場面の隣に、別の場所から海を見る案を書いた。
駅からの道を調べ、途中で休める店を探した。
入口の写真だけではわからないことは、宿に問い合わせた。
わからないところは、わからないまま空けておいた。
僕が早紀の荷物を持つ場面は、消さなかった。
どうやって持つかは、そのとき相談すればよかった。
*
翌年の春には、僕は病院ではなく、自宅で暮らしていた。
車椅子は、毎日の暮らしに必要だった。
慣れないことも、うまくいかないことも多かった。それでも、家の近くの店へ行ったり、電車に乗ったりする経験は、少しずつ増えていった。
そんな頃、早紀の出張が決まった。
出張先の町から、電車で二駅行くと海があるという。
ノートに書いた町ではなかった。
行くつもりだった灯台も、あの宿もない。
「金曜に仕事が終わるから、土曜はそっちに寄って帰ろうかな」
早紀がそう言ったとき、僕は、壁のカレンダーを見た。
「僕も、そこに行きたい」
早紀は、右の耳たぶを触った。
すぐにはうなずかなかった。
「行けそう?」
僕も、すぐには答えなかった。
「調べてみる。泊まれるところがあったら、一緒に一泊しよう」
そう言ってから、僕たちは二人で考えた。
早紀が帰る日を、日曜に延ばす。
土曜の朝に駅で落ち合って、その日は海の近くに泊まる。
宿に部屋までの段差や設備を確かめ、列車の乗り換えも調べた。最初に考えた宿はやめて、別の宿を予約した。
海を見ること以外には、あまり予定を入れなかった。
旅行の前の晩、僕は鞄の中身を三回確かめた。
雨の予報だった。
海沿いは風も強そうだった。
列車の乗り換えには余裕を持たせていたし、必要な手伝いも頼んであった。それでも、何か忘れている気がした。
鞄のいちばん上に、あのノートを入れた。
スマートフォンを持ち、早紀とのやり取りを開いた。
〈明日、行くね〉
これまで、何度も受け取った言葉だった。
明日、行くね。
仕事が終わったら、会いに行く。
少し遅れるけど、行くね。
いつも、向こうから届いていた。
僕は文字を打った。
明日、君に会いに行く。
送ってから、少し大げさだったかもしれないと思った。
早紀から返事が来た。
〈知ってる。三週間前から計画してる〉
そのあと、もう一つ。
〈待ってる。気をつけて〉
僕は鞄の口を閉じた。
四回目の確認は、しなかった。
*
待ち合わせには、七分遅れた。
乗り換えはうまくいった。
駅では、お願いしていたとおりに手を貸してもらえた。
最後の最後で、僕が出口を間違えた。
屋根のない広場へ出た瞬間、雨が頬に当たった。
早紀から電話が来た。
「いま、何が見える?」
「時計」
「丸い?」
「丸くない時計もあるだろうけど」
「余裕があるなら大丈夫だね。そっちは反対です」
電話の向こうで、彼女が笑った。
僕も笑った。
笑ってから、いま本当に迷っているのだと気づいて、困った。
困っているのに、少しうれしかった。
正しい出口へたどり着くと、早紀がいた。
紺色の鞄を足元に置き、傘を畳んでいた。風のせいで、前髪が片側に寄っている。コートの裾も濡れていた。
旅行記に書いた彼女より、ずっと寒そうだった。
「来たね」
「来たよ」
それだけ言うと、早紀は一度、口を結んだ。
僕は、そのあとに笑うことを知っていた。
彼女は笑った。
「荷物、重そうだな」
鞄を指さすと、早紀は肩をすくめた。
「今回は出張の分もあるから」
「小さいほうなら持てる」
「じゃあ、これ」
彼女は土産の入った袋を、僕の膝に載せた。
ノートの中では、僕は先に歩いていた。
その日は、早紀が隣にいた。
早紀が調べておいてくれたコロッケ屋は、売り切れだった。
海の見える喫茶店は、満席だった。
風で傘がひっくり返り、早紀が「いま裏側です」と冷静に報告した。
僕たちはコンビニでサンドイッチを買い、海沿いの屋根のある休憩所へ入った。
海は、灰色だった。
遠くへ行くほど、空との境目がわからなくなった。
手前の波だけが、白くなって、消えた。
濡れた手すりには小さな水滴が並んでいて、風が吹くたび、いくつかがまとめて落ちた。
僕はしばらく、その景色を見ていた。
ノートの海には、こういう色がなかった。
早紀がベンチに座り、僕はその横につけた。
「思ってたのと、だいぶ違うな」
僕が言うと、早紀はサンドイッチの袋を開けながらうなずいた。
「コロッケは残念だった」
「海の話」
「あ、海ね」
彼女は顔を上げた。
風が吹いて、また前髪が寄った。
「寒いね」
「うん」
「でも、海のにおいがする」
僕は息を吸った。
湿った風が、鼻の奥を通った。
何かを懐かしいと思った。
この場所には、初めて来たのに。
いつの間にか、雨音がやんでいた。
屋根の端から、残った雫が時々落ちた。空はまだ、雲で埋まっていた。
早紀がサンドイッチを一つ差し出した。
「半分こ」
「今日は公平だ」
「雨だからね」
「晴れてると不公平でいいのか」
食べると、どこにでもあるたまごサンドの味がした。
特別ではなかった。
早紀は、袋を風に飛ばされないよう、膝の下へ押し込んでいた。
その手つきまで見ていると、急に、返事をし損ねていた言葉を思い出した。
「ほんとに来たね」
ノートの中で、早紀が言った言葉だった。
今度は、僕が言った。
早紀はサンドイッチを飲み込んでから、うなずいた。
「来たね」
それから、僕を見た。
「会いに来てくれて、ありがとう」
僕は海を向いた。
あまり急に顔をそむけたせいで、早紀には、すぐにわかったらしい。
何も言わずに、彼女の手が伸びてきた。
僕の上着の裾を、少しだけつかんだ。
灯台の上で、そうするはずだった手だった。
僕はそこに、自分の手を重ねた。
階段は上っていない。
彼女をどこへでも連れていけるようになったわけでもない。
今日は、駅の出口さえ間違えた。
それでも、ここに来た。
早紀の手は、風に当たって冷たかった。
「もう少し、見ててもいい?」
「いいよ」
今度の返事は、僕が書いたものではなかった。
*
その晩、宿の机で、僕はノートを開いた。
晴れた日の旅行記は、そのまま残っていた。
僕が間違えなかった道も、二段ずつ上った階段も、きれいに別れようとした駅前のベンチも。
赤い線の隣に、早紀の字があった。
〈本人に確認〉
僕は、何も書いていないページまでめくった。
今日の日付を書いた。
天気は、雨のち曇り。
それから、続きを書こうとして、しばらく手が止まった。
書きたいことが多すぎた。
車窓に海が見えた瞬間のこと。
反対側の出口で、知らない人に道を教えてもらったこと。
早紀の前髪。
冷たい手。
灰色の海。
どれも、ノートにあらかじめ用意しておいたものではなかった。
迷った末に、僕は一行だけ書いた。
今日は、早紀と海を見た。
湯上がりの早紀が、後ろからのぞき込んだ。
「短い」
「これから書く」
「私のせりふは?」
「まだ書いてない」
早紀は隣に座った。
僕は彼女を見た。
「楽しかった?」
早紀は、すぐには答えなかった。
鞄から赤いペンを取り出し、キャップを開けた。
僕はノートを、彼女のほうへ寄せた。
早紀は、僕の書いた一行を消さなかった。
その下に、自分の字で書き足した。
寒かった。
コロッケは、次こそ食べる。
楽しかった。
また、行こう。
僕はペンを借りた。
最後の一行の下に、赤い線を二本引いた。
旅行の計画を立てていると、頭の中では、だいたい晴れています。
電車には間に合い、お目当ての店は開いていて、同行者もちょうどいいところで笑ってくれる。
実際の旅行は、もう少し勝手です。
雨は降るし、道は間違えるし、コロッケは売り切れます。
それでも、帰ってから何度も話すのは、案外そういう出来事だったりします。
この物語では、まだ行っていない旅行を、過去形で書いてみました。
圭にとってそれは、楽しみを先取りする方法であると同時に、失敗するかもしれない未来を、自分の手で決めてしまう方法にもなっていました。早紀の幸せを願いながら、早紀の返事まで書いてしまったのです。
けれど、一緒にいる相手は、こちらの用意した結末どおりには話してくれません。
そのことは、怖い。
そして、きっと、うれしいことでもあると思います。
最後の旅行記には、赤い字が残りました。
今度は、間違いを消すためではなく、二人の続きを書くために。
なお、コロッケについては、次の旅行でも必ず食べられるとは限りません。
そのあたりは、お店にも都合がありますので。




