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明日、君に会いに行く

作者: 週休七日
掲載日:2026/09/24

 早紀(さき)は、僕の書く旅行記によく赤を入れる。

 誤字ではなく、主に自分のせりふに。


「私、こんなこと言わない」


 そう言いながら、ためらいなく線を引く。


 僕としては、なるべく彼女らしく書いているつもりだった。

 彼女の口癖も、笑う前に一度だけ唇を結ぶところも、考え事をすると右の耳たぶを触る癖も、知っている。


 それでも、彼女の返事はよく間違えた。



     一日目。晴れ。



 待ち合わせの十五分前に、僕は改札を出た。


 駅前のロータリーには、誰も乗っていないバスが停まっていた。屋根の上で、鳥が一羽、こちらを見ていた。カモメだと思ったが、よく見れば鳩だった。


 海の近くにいるというだけで、僕は鳥にまでそれらしい役を与えようとしていた。


 早紀は、駅前の通りの向こうからやってきた。


 肩に掛けているのは、見慣れた紺色の鞄だった。普段よりずっと膨らんでいて、口のところから白い布がはみ出している。


「早い」


 僕を見つけた早紀が、最初に言った。


「こんにちは、くらい言えない?」

「圭が待ち合わせ場所にいる」

「珍しい生き物みたいに」

「しかも、合ってる」


 前科があったので、反論はしなかった。


 僕たちの初めてのデートは、僕が駅の出口を間違えたせいで、別々の広場から同じ時計塔を見上げるところから始まった。


 その次は、美術館の休館日だった。


 早紀は閉ざされた門の前でしばらく黙り、それから、「作品の保存状態、よさそうだね」と言った。


 僕はあの日から、彼女と出かけるのが好きになった。


「今日こそ、失敗しないことにしたんだ」

「決めたらしなくて済むんだっけ」

「今日だけは」


 手を差し出すと、早紀は自分の鞄を見た。


「これ、重いよ」

「一泊なのに?」

「一泊だから。何が足りないかわからないじゃん」


 僕は鞄を受け取り、海へ向かって歩き始めた。


 駅前の通りは、すぐに細くなった。軒先に干されたタオルの向こうに、青いものが見え隠れしていた。空なのか、海なのか、まだ区別がつかなかった。


 途中の惣菜屋で、揚げたてのコロッケを買った。

 僕は普通のものを、早紀はチーズ入りを選んだ。


「半分、交換しよう」


 早紀はそう言って、自分のコロッケを差し出した。


 彼女の分は、すでに三分の一ほどになっていた。


「半分という言葉の意味は知ってる?」

「味の交換です。量の交渉はしていません」


 ひと口で、よくこんなに食べられる。


 ――ここには、早紀の赤い字が入っている。


 〈せめて三口。私の口を大きく書かないでください〉


 訂正を受け入れても、交換条件が不利なことは変わらなかった。


 僕は自分のコロッケを半分に割った。

 どちらを渡しても、彼女の残りより大きかった。


 早紀は差し出された半分を両手で受け取った。紙袋の角が、油で少し透けていた。


「おいしい」

「そっちのも?」

「おいしい」

「僕がもらったほう、チーズがほとんどないけど」

「大事なところは確認しておいた」


 そう言って、早紀が笑った。


 通りを抜けると、海があった。


 視界が急に広がったせいで、僕は一度、足を止めた。

 海の色は、旅行案内の写真と同じ青だった。風は強すぎず、日差しも暑すぎなかった。波が崩れるたび、白い縁が手前へ寄ってきた。


 早紀は最後のひと口を飲み込み、空になった袋を畳んだ。


「ほんとに来たね」


 僕はうなずいた。


 その言葉には、うまく返事ができなかった。



 午後は、岬の灯台へ行った。


 灯台へ続く階段を、僕は二段ずつ上った。


「待って」


 振り返ると、早紀が数段下で手すりをつかんでいた。


 僕は彼女の一段上まで戻り、手を伸ばした。


 早紀は少し迷ったあと、その手を取った。鞄は僕の肩にあった。僕は先に立って、彼女が上がってくるのを待つことができた。


 灯台から見る海は、駅前で見た海より、いくらか高級そうだった。


「入場料の分だね」

「同じ海なのに」

「でも、さっきより遠くまで見える」


 早紀の髪が、風で頬に張りついていた。


 彼女は片手でそれを押さえ、もう片方の手で、僕のシャツの裾をつかんだ。


 僕はその手に、自分の手を重ねた。


 どこまでも歩いていけそうな気がした。



 この旅行では、僕たちは一度も道を間違えなかった。


 電車にも乗り遅れず、行こうとした店も閉まっていなかった。

 予約した宿の窓からは、写真で見たとおりの海が見えた。


 夕食のあと、早紀が言った。


「次は、冬に来るのもよさそう」


 僕は、湯飲みを持ち上げた。


「寒いよ」

「そのための温泉でしょ」


 窓に映った彼女の顔は、海を向いていた。

 僕の顔は、湯飲みで半分隠れていた。


「デザート、頼む?」


 少し間を置いて、早紀は僕を見た。


「頼む」


 その返事に、僕はほっとした。



     二日目。晴れ。



 帰りの電車まで、あと四十分あった。


 僕たちは駅前のベンチに並んで座っていた。

 風は穏やかで、早紀の髪も乱れていなかった。


 遠くで、踏切の音がした。


「早紀」


 僕が呼ぶと、彼女は顔を上げた。


「この旅行を、最後にしよう」


 彼女は何も言わなかった。


「これからは、僕のことを気にしなくていい。行きたいところに行って、したいことをしてほしい」


 僕はできるだけ穏やかに言った。


 早紀が困らないように。

 僕のことで、これ以上、何かをあきらめなくて済むように。


「別れよう」


 早紀は泣かなかった。


 少しだけ笑って、言った。


「楽しかった。私、もう大丈夫だよ」



「言わない」



 赤い線が、「私」を斜めに貫いた。


 早紀は、今度は最後の一文を丸ごと消した。

 筆圧が強くて、ペンの先が紙の裏まで響いた。


「こんなこと、私、言わない」


 僕はノートから顔を上げた。


 窓の外に、海はなかった。


 見えるのは、駐車場と、向かいの病棟だった。面会の終わりが近づくと、通路を歩く人の靴音が増える。どこかの部屋でテレビがついていた。


 早紀は、僕のベッドの脇に置かれた丸椅子に座っていた。


 紺色の鞄は、その足元にある。

 鞄の隣には、僕の車椅子があった。


 僕たちは、この旅行に、まだ行っていない。


 一泊二日の旅行記だけを、二人で書いていた。



     *



 事故に遭ったのは、春だった。


 初めて泊まりで旅行に行く約束をしていた。

 宿を予約した翌週、僕は病院の天井を見ることになった。


 初めのうちは、日付を数えていた。


 旅行まで、あと何日。

 仕事の予定まで、あと何日。

 予約を取り消すなら、あと何日。


 そのうち、数えるものがなくなった。


 宿を取り消した夜、僕は早紀に謝った。


 彼女は「また予約すればいいよ」と言った。


 その「また」が、僕にはずいぶん遠く聞こえた。


 できることは、少しずつ増えていた。

 けれど、前と同じように歩けるようになるか、なるとして、それがいつなのか。まだ答えは出ていなかった。


 来月のことを考えようとしても、うまくいかなかった。

 明日の予定表に書かれたことを、一つずつ終わらせるだけで日が暮れた。



 ノートを持ってきたのは、早紀だった。


 まだ夏になる前のことだ。


「旅行記、書いてよ」


 僕は表紙を見た。青い、ごく普通の大学ノートだった。


「行ってないのに?」

「先に書いておこう」

「それは旅行の計画っていうんじゃない?」

「計画だと、何時に出発、何時に到着、何円、で終わるじゃん」


 早紀はベッドの脇に椅子を寄せた。


「コロッケがおいしかったとか、旅館の枕が高かったとか。そういうのがいい」

「枕、高い予定なんだ」

「そこは未定です」


 行くはずだった町には、海があった。


 僕たちは宿の写真や町の地図を見ながら、まだしていない旅行を、したことにして書き始めた。


 実際に行けたら、違っていたところを直す。

 それが早紀の提案だった。


 僕は、いつも遅れる待ち合わせに、十五分前に着くことにした。


「いきなり創作が入ってますね」


 早紀は笑ったが、そこには線を引かなかった。


 彼女が帰ったあとも、僕は続きを書いた。


 ノートの中で、僕は歩いた。

 早紀の鞄を持ち、階段を上り、彼女を待った。

 疲れた彼女のために店を探し、すぐに席を見つけた。


 僕が困らなければ、早紀も困らなかった。


 書き上がったページを見せると、早紀は笑った。

 面会の時間に、検査や体調以外の話ができるようになった。


 そのことが、僕はうれしかった。


 だから、うまく書かなければと思った。


 ノートの中にだけは、彼女をどこへでも連れていける僕がいた。



     *



「これ、いつ考えたの」


 早紀は、赤く消された結末を見ていた。


「この前」

「この前って、いつ」

「……早紀が、旅行の写真を見せてくれた日」


 彼女は、口を閉じた。


 会社の人たちと行った山の写真だった。

 早紀は頂上の標識の隣で笑っていた。首にタオルを巻いて、風に吹かれて、頬を赤くしていた。


 僕は、その写真を何度も見た。


 好きな顔だった。


 僕の病室では見せなくなった顔だ、とも思った。


「楽しかったんだろ」

「うん」

「これからも、ああいうところに行ってほしい」


 早紀は、ペンのキャップを閉めた。


「行くよ」


 僕は顔を上げた。


「誘われたら、また行く。圭と行けない場所にも、行くと思う」


 予想していなかった返事だった。


 胸のどこかが傷ついて、それから、そのことを恥ずかしいと思った。


 自由になってほしい、と言いながら。

 僕は、彼女に否定してほしかった。


 口に出すのが怖くて、別れ話をノートに書いた。

 それなのに、見せれば、いつものように赤で直してくれるかもしれないと、どこかで期待していた。


 きれいに別れようとする僕も、それに納得する早紀も、僕に都合よく書かれていた。


「でも、それと、別れるのは別の話でしょ」


 早紀はノートを僕の膝に戻した。


「山から帰って、圭に写真を見せたかった。お土産の変なお菓子、二人で食べたかった。そこまで含めて、私の旅行だったんだけど」


 僕は、あのお菓子を思い出した。


 丸い箱に入っていたのに、中身は全部四角かった。

 早紀はそのことに、妙に腹を立てていた。


 僕たちは笑った。


 箱の蓋を裏返して、早紀がお菓子を並べたことも思い出した。

 ベッドの上に粉を落として、二人で慌てて拾ったことも。


 写真を何度も見返しながら、僕はそのあとのことを見ないようにしていた。


「でも、僕とじゃ、前みたいには――」


「うん」


 早紀は、そこを否定しなかった。


「前と同じには、できないことがあると思う」


 通路を、配膳車が通った。

 車輪が床の継ぎ目を越えるたび、小さく鳴った。


 僕は、その音が遠ざかるのを待った。


「待たせてばっかりになる」


 早紀は僕を見た。


 すぐには、返事をしなかった。


「私、会いに来てるんだよ」


 膝の上で、ノートの角が折れていた。

 僕はそれを指で戻した。戻しても、白い筋が残った。


「歩けるようになった圭に会うために、今の圭のところで順番待ちしてるわけじゃない」


 早紀の声は、少し固かった。


「もちろん、よくなってほしいよ。できることが増えたらうれしい。でも、会いに来たとき、まだだめだって顔をされると……私、誰に会いに来たことになってるんだろうって思う」


 僕は、何も言えなかった。


 来てくれてありがとう、と言う前に、謝っていたことを思い出した。


 今日はあまり調子がよくない。

 この前より、できなくなった。

 せっかく来てくれたのに、ごめん。


 彼女が持ってきた話を聞く前に、そういうことを言っていた。


「しんどい日もあるよ」


 早紀は続けた。


「仕事が遅くなって、今日は帰って寝たいなって思う日もある。そういう日は、来ないって言えるようにしたい」

「……うん」

「来ない日があっても、嫌いになった日じゃないから」


 僕は、ノートを閉じようとした。


 早紀が、その表紙を押さえた。


「最後まで言って」


 僕は手を止めた。


「私をどうしたいかじゃなくて、圭はどうしたいの」


 言わなければいけないことは、用意してあった。


 幸せになってほしい。

 迷惑をかけたくない。

 もっといい人がいる。


 紙に書けば、どれもきれいなせりふになった。


 けれど、早紀がこちらを見ていると、そのどれも口にできなかった。


「……別れたくない」


 一度目は、ほとんど息だった。


 僕は彼女を見て、言い直した。


「別れたくない。早紀と、旅行に行きたい」


 早紀は、目を伏せた。


 ペンを握っていないほうの手が、スカートの布をつかんでいた。

 その指が、ゆっくりほどけた。


「そういうのを、私に言ってよ」


 僕はうなずいた。


「ごめん。早紀の気持ち、聞いてなかった」


 しばらく、僕たちは黙っていた。


 早紀は何か言いかけて、やめた。

 僕は、その先を勝手に埋めずに待った。


 やがて彼女が、ベッドの端に手を置いた。


 僕はその近くに、自分の手を置いた。


「手、つないでて」


 早紀はうなずいた。


 ノートが邪魔になったので、脇へよけた。



 帰る前に、彼女はもう一度、赤いペンを開いた。


 消された結末の横に、短く書いた。


 〈本人に確認〉


「圭が別れたいなら、そう言っていいよ」


 キャップを閉めながら、早紀は言った。


「でも、私が納得して笑ったところまで、勝手に書かないで」


 僕は、もう一度うなずいた。


 早紀は鞄を持ち上げ、それから思い出したように、ノートを指さした。


「あと、ずっと晴れてる」

「晴れてるほうがいいだろ」

「そうだけど、天気予報より強気だなと思って」


 僕は少し笑った。


 彼女も、少しだけ笑った。


 その笑い方は、ノートに書いてあったものとは違っていた。



     *



 それから、何もかもすぐにうまくいったわけではない。


 早紀が来られないと連絡してきた日は、やっぱり寂しかった。

 短い返事を送ってしまい、あとから「ちょっと寂しかっただけ」と送り直したこともある。


 早紀からも、「今日は心配しすぎた。ごめん」と届く日があった。


 僕たちは、少しずつ、言い直すようになった。


 彼女が友達と温泉へ行ったとき、僕は「僕のことは気にしなくていい」と打ちかけて、消した。


 代わりに送った。


 〈お土産は、まんじゅうがいい〉


 返事はすぐに来た。


 〈何個?〉


 僕は少し考えてから、六個と答えた。


 翌週、早紀は四個持ってきた。


「途中で何かあった?」

「旅には予定外のことが起こるからね」


 僕は、ようやくその旅行の話を、ただ面白がって聞くことができた。



 ノートの使い方も、変わった。


 灯台の階段を上る場面の隣に、別の場所から海を見る案を書いた。

 駅からの道を調べ、途中で休める店を探した。

 入口の写真だけではわからないことは、宿に問い合わせた。


 わからないところは、わからないまま空けておいた。


 僕が早紀の荷物を持つ場面は、消さなかった。


 どうやって持つかは、そのとき相談すればよかった。



     *



 翌年の春には、僕は病院ではなく、自宅で暮らしていた。


 車椅子は、毎日の暮らしに必要だった。

 慣れないことも、うまくいかないことも多かった。それでも、家の近くの店へ行ったり、電車に乗ったりする経験は、少しずつ増えていった。


 そんな頃、早紀の出張が決まった。


 出張先の町から、電車で二駅行くと海があるという。


 ノートに書いた町ではなかった。

 行くつもりだった灯台も、あの宿もない。


「金曜に仕事が終わるから、土曜はそっちに寄って帰ろうかな」


 早紀がそう言ったとき、僕は、壁のカレンダーを見た。


「僕も、そこに行きたい」


 早紀は、右の耳たぶを触った。

 すぐにはうなずかなかった。


「行けそう?」


 僕も、すぐには答えなかった。


「調べてみる。泊まれるところがあったら、一緒に一泊しよう」


 そう言ってから、僕たちは二人で考えた。


 早紀が帰る日を、日曜に延ばす。

 土曜の朝に駅で落ち合って、その日は海の近くに泊まる。


 宿に部屋までの段差や設備を確かめ、列車の乗り換えも調べた。最初に考えた宿はやめて、別の宿を予約した。


 海を見ること以外には、あまり予定を入れなかった。



 旅行の前の晩、僕は鞄の中身を三回確かめた。


 雨の予報だった。

 海沿いは風も強そうだった。


 列車の乗り換えには余裕を持たせていたし、必要な手伝いも頼んであった。それでも、何か忘れている気がした。


 鞄のいちばん上に、あのノートを入れた。


 スマートフォンを持ち、早紀とのやり取りを開いた。


 〈明日、行くね〉


 これまで、何度も受け取った言葉だった。


 明日、行くね。

 仕事が終わったら、会いに行く。

 少し遅れるけど、行くね。


 いつも、向こうから届いていた。


 僕は文字を打った。



 明日、君に会いに行く。



 送ってから、少し大げさだったかもしれないと思った。


 早紀から返事が来た。


 〈知ってる。三週間前から計画してる〉


 そのあと、もう一つ。


 〈待ってる。気をつけて〉


 僕は鞄の口を閉じた。


 四回目の確認は、しなかった。



     *



 待ち合わせには、七分遅れた。


 乗り換えはうまくいった。

 駅では、お願いしていたとおりに手を貸してもらえた。


 最後の最後で、僕が出口を間違えた。


 屋根のない広場へ出た瞬間、雨が頬に当たった。

 早紀から電話が来た。


「いま、何が見える?」

「時計」

「丸い?」

「丸くない時計もあるだろうけど」

「余裕があるなら大丈夫だね。そっちは反対です」


 電話の向こうで、彼女が笑った。


 僕も笑った。


 笑ってから、いま本当に迷っているのだと気づいて、困った。


 困っているのに、少しうれしかった。



 正しい出口へたどり着くと、早紀がいた。


 紺色の鞄を足元に置き、傘を畳んでいた。風のせいで、前髪が片側に寄っている。コートの裾も濡れていた。


 旅行記に書いた彼女より、ずっと寒そうだった。


「来たね」

「来たよ」


 それだけ言うと、早紀は一度、口を結んだ。


 僕は、そのあとに笑うことを知っていた。


 彼女は笑った。


「荷物、重そうだな」


 鞄を指さすと、早紀は肩をすくめた。


「今回は出張の分もあるから」

「小さいほうなら持てる」

「じゃあ、これ」


 彼女は土産の入った袋を、僕の膝に載せた。


 ノートの中では、僕は先に歩いていた。

 その日は、早紀が隣にいた。



 早紀が調べておいてくれたコロッケ屋は、売り切れだった。


 海の見える喫茶店は、満席だった。

 風で傘がひっくり返り、早紀が「いま裏側です」と冷静に報告した。


 僕たちはコンビニでサンドイッチを買い、海沿いの屋根のある休憩所へ入った。


 海は、灰色だった。


 遠くへ行くほど、空との境目がわからなくなった。

 手前の波だけが、白くなって、消えた。


 濡れた手すりには小さな水滴が並んでいて、風が吹くたび、いくつかがまとめて落ちた。


 僕はしばらく、その景色を見ていた。


 ノートの海には、こういう色がなかった。


 早紀がベンチに座り、僕はその横につけた。


「思ってたのと、だいぶ違うな」


 僕が言うと、早紀はサンドイッチの袋を開けながらうなずいた。


「コロッケは残念だった」

「海の話」

「あ、海ね」


 彼女は顔を上げた。


 風が吹いて、また前髪が寄った。


「寒いね」

「うん」

「でも、海のにおいがする」


 僕は息を吸った。


 湿った風が、鼻の奥を通った。

 何かを懐かしいと思った。

 この場所には、初めて来たのに。


 いつの間にか、雨音がやんでいた。

 屋根の端から、残った雫が時々落ちた。空はまだ、雲で埋まっていた。


 早紀がサンドイッチを一つ差し出した。


「半分こ」

「今日は公平だ」

「雨だからね」

「晴れてると不公平でいいのか」


 食べると、どこにでもあるたまごサンドの味がした。


 特別ではなかった。


 早紀は、袋を風に飛ばされないよう、膝の下へ押し込んでいた。


 その手つきまで見ていると、急に、返事をし損ねていた言葉を思い出した。


「ほんとに来たね」


 ノートの中で、早紀が言った言葉だった。


 今度は、僕が言った。


 早紀はサンドイッチを飲み込んでから、うなずいた。


「来たね」


 それから、僕を見た。


「会いに来てくれて、ありがとう」


 僕は海を向いた。


 あまり急に顔をそむけたせいで、早紀には、すぐにわかったらしい。


 何も言わずに、彼女の手が伸びてきた。

 僕の上着の裾を、少しだけつかんだ。


 灯台の上で、そうするはずだった手だった。


 僕はそこに、自分の手を重ねた。


 階段は上っていない。

 彼女をどこへでも連れていけるようになったわけでもない。

 今日は、駅の出口さえ間違えた。


 それでも、ここに来た。


 早紀の手は、風に当たって冷たかった。


「もう少し、見ててもいい?」

「いいよ」


 今度の返事は、僕が書いたものではなかった。



     *



 その晩、宿の机で、僕はノートを開いた。


 晴れた日の旅行記は、そのまま残っていた。


 僕が間違えなかった道も、二段ずつ上った階段も、きれいに別れようとした駅前のベンチも。


 赤い線の隣に、早紀の字があった。


 〈本人に確認〉


 僕は、何も書いていないページまでめくった。


 今日の日付を書いた。


 天気は、雨のち曇り。


 それから、続きを書こうとして、しばらく手が止まった。


 書きたいことが多すぎた。


 車窓に海が見えた瞬間のこと。

 反対側の出口で、知らない人に道を教えてもらったこと。

 早紀の前髪。

 冷たい手。

 灰色の海。


 どれも、ノートにあらかじめ用意しておいたものではなかった。


 迷った末に、僕は一行だけ書いた。



 今日は、早紀と海を見た。



 湯上がりの早紀が、後ろからのぞき込んだ。


「短い」

「これから書く」

「私のせりふは?」

「まだ書いてない」


 早紀は隣に座った。


 僕は彼女を見た。


「楽しかった?」


 早紀は、すぐには答えなかった。


 鞄から赤いペンを取り出し、キャップを開けた。

 僕はノートを、彼女のほうへ寄せた。


 早紀は、僕の書いた一行を消さなかった。


 その下に、自分の字で書き足した。



 寒かった。

 コロッケは、次こそ食べる。

 楽しかった。

 また、行こう。



 僕はペンを借りた。


 最後の一行の下に、赤い線を二本引いた。

旅行の計画を立てていると、頭の中では、だいたい晴れています。

電車には間に合い、お目当ての店は開いていて、同行者もちょうどいいところで笑ってくれる。


実際の旅行は、もう少し勝手です。

雨は降るし、道は間違えるし、コロッケは売り切れます。


それでも、帰ってから何度も話すのは、案外そういう出来事だったりします。


この物語では、まだ行っていない旅行を、過去形で書いてみました。


圭にとってそれは、楽しみを先取りする方法であると同時に、失敗するかもしれない未来を、自分の手で決めてしまう方法にもなっていました。早紀の幸せを願いながら、早紀の返事まで書いてしまったのです。


けれど、一緒にいる相手は、こちらの用意した結末どおりには話してくれません。


そのことは、怖い。

そして、きっと、うれしいことでもあると思います。


最後の旅行記には、赤い字が残りました。

今度は、間違いを消すためではなく、二人の続きを書くために。


なお、コロッケについては、次の旅行でも必ず食べられるとは限りません。

そのあたりは、お店にも都合がありますので。

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