凍れる命の王子と、解かす乙女
◆ 世界観設定
この異世界には「クリオ封印」と呼ばれる凍結保存術がある。不治の病、重篤な呪い、致命的な傷を負った者を、特殊な氷の結晶(クリオ結晶)の中に封じ込め、肉体の時間を止める技術だ。封印中の体は老いず、傷も進行しない。しかし「蘇生」は封印より遥かに難しく、解凍の過程で生命活動が再開できなければ、そのまま消える。
「クリオ術師」は蘇生を専門とする術者で、世界に数十人しかいない。蘇生成功率は封印の深さと期間によって異なる。一年以内の軽い封印なら九割を超えるが、深い封印・長期封印は格段に難しくなる。「深度Ⅴ・十七年封印」は、理論上蘇生可能とされているが、実際に成功した者はまだいない。
蘇生術の鍵は「解凍の速度制御」と「生命波の同調」だ。クリオ術師は自分の生命波を封印された者の生命波に合わせ、氷の結晶を少しずつ、正確な速度で溶かしていく。焦れば内部で細胞が壊れる。遅すぎれば途中で生命波が途切れる。この繊細な作業を何日もかけて行う。術師自身の消耗も大きく、深い蘇生ほど術師の命を削る。
「解かす乙女」という言葉は、クリオ術師の女性を指す古い呼び名だ。なぜ女性が多いかは定かではないが、生命波の繊細さが女性に適していると言われている。
◆ 主要登場人物
メア・フロスト 18歳 / ヒロイン
辺境の小さなクリオ術師の工房で育った少女。師匠(老クリオ術師のヤロウ)から技を受け継ぎ、この春から一人で仕事をしている。「生命波の感度が歴代最高」とヤロウに言われた素質を持つが、自分ではまだその意味がよくわかっていない。感情が直接的で、思ったことを口に出してしまう。王都からの使者に呼ばれ、生まれて初めて王宮に足を踏み入れる。
クレイス・ヴァルド 23歳(封印時) / ヒーロー
王家の第一王子。十七年前、六歳のとき、王宮で起きた謀反に巻き込まれ「深度Ⅴ」のクリオ封印に入った。現在は二十三歳相当の体のまま、封印の中で眠り続けている。封印に入る直前、自分を守ろうとした騎士の言葉だけが記憶にある。十七年間、誰も蘇生できなかった。
ヤロウ 70代 / サブキャラクター
メアの師匠。若い頃は王都で活躍した名クリオ術師。老齢と病のため現役を退いているが、理論的知識は誰よりも深い。メアに「深度Ⅴを解かすのは、お前しかいない」と言い残し、物語の前に逝去している。
リア 25歳 / サブキャラクター
王宮のクリオ管理官。クレイスの封印状態を十年間管理してきた。感情的ではなく、事務的に見えるが、クレイスを守り続けることへの静かな使命感を持つ。メアの技術を最初は信用しないが、施術を見て変わる。
エルダ王妃 50代 / サブキャラクター
クレイスの母。息子が封印されてから十七年、毎日封印室に通い続けてきた。「解かせば死ぬかもしれない。でも解かさなければ絶対に死ぬ」という選択を、ずっと一人で抱えてきた人。メアを最初に信じる。
◆ 詳細あらすじ
辺境のクリオ術師の工房で一人になったメア・フロストのもとに、王宮からの使者が来た。依頼は「深度Ⅴ・十七年封印の王子の蘇生」。師匠のヤロウが「深度Ⅴを解かせるのはお前しかいない」と言い残していた言葉を胸に、メアは王都へ向かった。
王宮の封印室。高さ二メートルほどのクリオ結晶の中に、六歳のままの顔をした「二十三歳の王子」が眠っていた。リアからの反発、エルダ王妃の静かな希望。そして期限——あと三ヶ月で封印が自壊を始め、その時点でクレイスは消える。「解かせば死ぬかもしれない。でも解かさなければ絶対に死ぬ」。メアは「やります」と言った。
施術が始まった。生命波を送り込み、十七年分の静寂の中にある、計測器でも反応が確認されるクレイスの生命波を探す。子供の声のような振動。施術中にメアは、クレイスが六歳のとき見ていた世界の断片を感じるようになった。謀反の夜の恐怖。「眠れ、必ず迎えに来る」という騎士の声。その騎士はもう死んでいた。クレイスはずっと、来るはずのない人を待って眠り続けていた。
施術が深まるにつれ、メアの消耗も大きくなった。リアが少しずつ信頼を寄せ、エルダ王妃が夜ごと傍に来て、メアを支えた。
最終施術の夜。封印の核心部に届いたとき、意識の交信が起きた。「誰かいるか」とクレイスが問いかけてきた。「います。来ました」とメアが答えた。封印が崩壊を始め、同時にメアの生命波が危機的に低下した。リアがメアを支え、エルダが息子の名を叫んだ。封印が崩れた。クレイスが目を開けた。最初に見た顔は、メアだった。
十七年ぶりに目覚めたクレイスは、六歳の記憶を持ったまま、二十三歳の体に入っていた。混乱と悲しみ。二週間後には廊下を歩き、食堂で食事をし、一人で着替えられるようになる回復。王妃との再会。騎士はもう来られないと知ったとき、クレイスは窓の外を見たまま黙っていた。それからメアを見て「お前が来た」と言った。
三ヶ月後、辺境に戻ろうとするメアをクレイスが引き止めた。「また会える?」という問いと、「また凍らないと呼べないのか」という言葉と、ふたりの笑い。春の王宮で、封印室に最後に入ったメアが空になった結晶を見る。そこにあったものが、もうない。そこにいた人が、今は外にいる。
それだけで、十分だった。
第一章
辺境の術師
師匠が死んで、三ヶ月が経った。
ヤロウ・クリオスは七十四歳で逝った。「眠るように」と言えば聞こえはいい。実際は三日間苦しみ、四日目の朝に静かになった。メアは最後まで傍にいた。手を握って、呼吸が止まるのを、感じた。
葬儀は小さかった。辺境の村だから、集まる人も少なかった。でも、ヤロウを知っていた人たちが来て、それぞれに言葉を置いていった。「お世話になった」「あの人がいなければ、今の私はなかった」そういう言葉たちが、メアには何より重かった。
三ヶ月が過ぎて、工房は静かだった。
クリオ工房というのは、凍結保存術を扱う場所だ。この村では、年老いた家畜を封印して冬を越させたり、村人が長期の旅に出る前に貴重品を保護封印したりする依頼がある。ヤロウの現役時代は、もっと難しい依頼も来た。重傷の兵士、不治の病の子供。でも今のメアには、そこまでの依頼は来ない。来ても、まだ受けられない。
そう思っていた。
* * *
使者が来たのは、秋の初めの朝だった。
工房の扉を叩いた音で、メアは作業台から顔を上げた。扉を開けると、王宮の紋章をつけた馬車が止まっていた。乗ってきた男は、礼儀正しかった。帽子を取り、お辞儀をして、封蝋のついた封書を差し出した。
「ヤロウ・クリオス師の工房に、依頼を届けに参りました。メア・フロスト様でいらっしゃいますか」
「……はい」
封書を受け取った。開けた。中には一枚の用紙があった。王宮の紋章が入り、きれいな字で書かれていた。
メアはそれを二回読んだ。三回読んだ。
「深度Ⅴ、十七年封印。蘇生依頼。術師・ヤロウ・クリオスに打診済みだったが、逝去のため後継者に引き継ぎを希望する」
深度Ⅴ。十七年。
その数字が何を意味するか、メアは知っていた。ヤロウに教わった。深度Ⅴは封印の中で最も深いレベルで、解凍成功例は世界でほぼない。十七年は、現存する封印の中で最長クラスだ。
メアは使者を見た。
「……王宮に行けばいいんですか」
「はい。馬車でご案内いたします。ご都合はいかがですか」
メアは工房を見回した。師匠がいなくなって、少し物が減った。でも道具は全部ある。技術も、できる限りは受け継いだ。
ヤロウが最後に言っていた言葉を、思い出した。
「お前には、俺より繊細な生命波感度がある。深度Ⅴを解かせるのは、世界でお前しかいない。必ず依頼が来る。逃げるな」
「……明日の朝、出発できます」
* * *
王都は、メアが今まで見た中で最も大きな街だった。
辺境の村は百人ほどが住むだけで、一番大きな建物が村長の家だった。でも王都には何万人もいて、建物が空まで続いていた。石造りの道が整備されていて、馬車が何台も通っていた。市場の声が遠くから聞こえた。
その奥に、王宮があった。
メアは馬車の窓から王宮を見て、息が止まった。巨大だった。城壁が白く、塔がいくつもあった。あんな場所に自分が入っていいのか、という感覚があった。でも依頼書を持っている。招かれた側だ。と自分に言い聞かせた。
王宮に入って、廊下を歩いて、「封印室」に案内された。
扉を開けた瞬間、温度が変わった。冷たかった。クリオ術の特性で、封印が維持されている場所は常に低温に保たれる。息が白くなった。
部屋の中央に、それはあった。
高さ二メートルほどの、半透明の氷の塊。クリオ結晶だった。その中に、人がいた。
少年の顔だった。
目を閉じて、穏やかな顔で、氷の中にいた。眠っているように見えた。でも眠っているのではなく、封印されている。十七年間。この顔のまま、時間が止まっている。
メアは結晶に近づいた。手を当てた。冷たかった。その向こうに人がいる温度とは思えないくらい、冷たかった。
「クレイス・ヴァルド第一王子。六歳のときに封印に入りました」
声がした。振り返ると、二十五歳くらいの女性が立っていた。短い黒髪に、事務的な顔。クリオ管理官のリアだと名乗った。
「十七年間、私がこの封印を維持してきました」
「……リアさん。私、メア・フロストといいます。クリオ術師です」
「存じています。ヤロウ師の後継者と聞きました」
リアの目が、冷たかった。評価している目だった。
「正直に言います。私は、あなたに期待していません」
メアは驚いた。
「理由を聞いていいですか」
「深度Ⅴの蘇生は、世界で前例がない。十七年間、多くの術師が試みて、全員が失敗した。あなたが十八歳だから、ではありません。「深度Ⅴ・十七年封印は、これまで蘇生成功例がありません」
メアは結晶を見た。少年の顔。六歳のままの顔。
「……その子は、今、苦しんでいますか」
リアが止まった。
「苦しんでいる状態ではありません。封印中は感覚も時間も止まっています」
「じゃあ、今この瞬間に起こすことはできませんが、苦しんでいないなら、最初の三日間を準備加温に使える」
「時間はありません。三ヶ月後、封印が自壊を始めます。それを過ぎると——」
「わかっています。ヤロウ師から聞いていました。封印の自壊が始まったら、解けても生命活動が再開できない。だから三ヶ月以内に解かなければならない」
リアが黙った。
「……やります」とメアは言った。「失敗するかもしれません。でも、やります」
リアはメアを見た。何かを測るような目で。それから短く「わかりました」と言った。
第二章
解凍の条件
翌日の朝、エルダ王妃が封印室に来た。
五十代の女性だった。静かな顔をしていた。感情を表に出さない雰囲気ではなく、感情が深すぎて外に出てこない感じ。こういう顔を、メアは知っていた。師匠ヤロウが病で弱っていく間、毎日看ていた自分の顔に似ていると思った。
王妃はまず息子の封印に手を当てた。長い間、当てていた。それからメアを振り返った。
「ヤロウ師に会ったことがあります。十年前に」
「そうですか」
「あの方は「この封印を解かせるのは、私の弟子になる」と言っていた。あなたがその方ですか」
「……そう言われています。でも、確信はありません」
「正直な方ですね」
「嘘をついても、意味がないので」
王妃が顔が変わった。笑いではなかったが、何かが緩んだ。
「一つ、聞いていいですか」とメアは言った。「……解かすことを、なぜ今まで続けてきたんですか。十七年間」
「続けることと、諦めることの、どちらが怖いかを考えてきました。諦める方が怖かった」
メアはその言葉を、聞いた。
「……今も怖いですか」
「今は、違う種類の怖さがあります。解かしたら死ぬかもしれない。でも解かさなければ、絶対に消える。どちらも怖い。でも、解かす方を選びます」
メアは封印の結晶を見た。
「……やります。全力でやります」
「ありがとう」と王妃は言った。「メア。あなたが来てくれて、よかった」
* * *
施術の前に、リアとの打ち合わせがあった。
テーブルを挟んで向かいに座り、リアが封印の詳細を説明した。深度Ⅴがどのような状態か、十七年でどのように変化したか、自壊までの残り時間。メアは全部メモした。
説明が終わって、リアが言った。
「施術の手順を教えてください。確認したい」
「最初の三日間は準備加温です。封印の外側から温度を上げながら、中の生命波を探ります。生命波が確認できたら、その周波数に合わせて波を送り込む。生命波を確認した後、核心部に向けて波を送る」
「生命波の確認は、できるんですか。十七年、誰も感知できていない」
「昨日、手を当てたとき、生命波を感じました」
リアが止まった。
「……感知した、とおっしゃいましたか」
「ほんの少しです。でも、あります。生命波がゼロではない」
リアはメアを見た。
「……確かめさせてください。あなたが感知した生命波の周波数を、計測器で確認します」
封印室に戻って、メアが結晶に両手を当てた。感覚を探った。昨日感じたもの。子供の振動みたいな波。
ある。まだある。
リアが持ってきた計測器を結晶に当てた。数字が出た。リアの顔が変わった。
「……数値が出た。数値が出た。生命波の反応がある」
「わかっていただけましたか」
「……はい」とリアは言った。「私は十年間、感知できなかった。あなたは初日に感知した」
またしばらく沈黙。
「……信じます」とリアが言った。「施術を始めてください」
* * *
夜、一人で封印室にいるとき、メアは結晶の前に椅子を置いて座った。
ヤロウが言っていたことを思い出した。「クリオ術師は、封印された者と対話しながら解かす。術だけではなく、存在として関わることが大切だ」
対話。でも相手は封印されている。言葉は届かないかもしれない。でも、生命波は届くかもしれない。
メアは結晶に手を当てた。
「クレイス。私はメア・フロストといいます。あなたを解かしに来ました」
返事は来なかった。当然だ。でも、言った。
「怖いかもしれないけど、時間をかけてやります。急がない。でも確実に」
氷は冷たかった。でも、その中に生命波がある。生命波はゼロではなかった。
それだけで、十分だと思った。
第三章
氷の内側
施術が始まって、一週間が経った。
毎日、朝と夕方の二回、封印室でメアは施術を行った。準備加温の段階は、封印に直接触れずに、周囲の温度を少しずつ上げながら生命波を探る作業だ。地味で、成果がすぐには見えない。でも、毎日少しずつ変化していた。
生命波の反応が、少しずつ強くなっていた。
五日目の夕方、施術中に初めて「映像」が来た。
目を閉じて生命波を送り込んでいたとき、突然、視野の端に何かが見えた気がした。色。光。それから、小さな手。子供の手が、何かをつかもうとしている。
メアは施術を続けながら、その感覚に意識を向けた。押しつけるのではなく、ただ、受け取るように。
映像が来た。断片的な。
青い空。走っている。風が強い。誰かの声。笑い声。子供の笑い声が複数。それから暗くなって、終わった。
施術が終わって、メアは座り込んだ。疲れが来た。今日は、クレイスの記憶の断片が来た。
リアが来た。
「顔色が悪い」
「施術後に座り込むくらい消耗しました。大丈夫です」
「……施術中、何かありましたか」
メアは考えた。
「クレイスの記憶の断片みたいなものが、来ました。映像として。子供の頃の。空と、誰かの声と、笑い声」
「それは……」
「生命波が強くなっている証拠だと思います。クリオ術師が深い封印に触れると、対象の記憶に共鳴することがある、とヤロウ師に教わっていました。今日、初めて経験しました」
リアがメアを見た。最初の日より、少し違う目で。
「……続けてください」
「はい」
* * *
施術の二週間目、王妃が夜に来た。
メアが施術を終えて、封印室で記録をつけているとき、扉が開いた。王妃は一人だった。護衛もなく、静かに入ってきた。
「邪魔をするつもりではありません。ただ……時々、夜にここに来るので」
「構いません。一緒にいてください」
王妃が結晶の傍に座った。メアも座った。二人で封印を見ていた。
「クレイスはどんな子でしたか」とメアが聞いた。
「……活発な子でした。走るのが好きで、騎士に憧れていた。六歳なのに、剣の練習をしたいと言って」
「封印の日の前、何か変わったことはありましたか」
「あの日は、何もありませんでした。普通の夜だった。夕食を食べて、私が寝かしつけて。それから謀反が起きた。夜中に。クレイスの部屋に暗殺者が来た」
メアは黙って聞いた。
「騎士のカルスが守ってくれた。体を張って。でも状況が悪くなって、クリオ術師を呼んで……封印にするしかなかった。あの子は、怖かったと思う。でも、泣かなかった。カルスが「眠れ」と言って、あの子が頷いて」
「カルスという騎士は、今も」
「……五年後に戦いで亡くなりました。あの子が封印されて、五年後に」
長い沈黙があった。
「……クレイスは、カルスが来ると思っているかもしれません」とメアは言った。「「眠れ、必ず迎えに来る」と言ったなら」
「そうだと思います。あの子が封印の中で意識があるなら、待っているかもしれない」
「……カルスはもういない、ということを、起こした後に伝えなければなりません」
「それが、辛い。でも、伝えなければならない」
メアは王妃を見た。十七年間、息子の封印の前で、そのことを抱えてきた人の顔だった。
「……私が一緒にいます。伝えるとき」
王妃がメアを見た。それから静かに「ありがとう」と言った。
第四章
六歳の王子が見ていたもの
三週間目に入ると、施術中の映像が毎回来るようになった。
毎日違う断片だった。青空の日。廊下を走る日。食堂での食事の場面。そして何度も繰り返すのは、ある一人の人物との場面だった。大きな男の人。騎士の服を着ている。その人が六歳のクレイスに何かを教えている。剣の持ち方。馬の乗り方。笑い声が多い場面だった。
カルスだ、とメアは思った。
最も多く来た映像は、夜のものだった。暗い部屋。物音。恐怖。走ってくる足音。カルスが扉を開けて、クレイスを抱え上げる。廊下を走る。どこかへ向かいながら、カルスが言う。
「大丈夫だ。俺がいる」
その場面を、メアは何度も経験した。施術中に、クレイスの目で見た。カルスの顔が、下から見上げた角度で見えた。大きくて、温かくて、怖くない顔。
施術が終わった後、メアは泣いていた。
気づいたらそうなっていた。意識して泣いたわけではなかった。でも、涙が出ていた。
リアが来て、メアの顔を見た。何も言わなかった。ただ、お茶を持ってきて、横に置いた。
「……ありがとうございます」とメアは言った。
「施術中に、何かを感じたんですか」
「……クレイスの記憶を、また見ました。カルスという騎士の場面を」
リアが止まった。
「カルスのことを、知っているんですか」
「王妃から少し。あとは、記憶の断片から。あの騎士は、クレイスにとって特別な人だったんですね」
「……私がここに来た頃、カルスのことを聞きました。クレイス様を守った後、五年間は封印の前で毎日誓いを立てていたそうです。「必ず迎えに来る、と言った。その言葉を果たすまで生きる」と」
「……それでも、亡くなった」
「戦場で。自分の意志ではどうにもできない場所で」
メアはお茶を飲んだ。温かかった。
「……クレイスを起こしたら、伝えなければならない。カルスはもう来られない、と」
「はい」
「それを伝えた後、クレイスがどうなるか、怖いです」
「……私も怖い」とリアが言った。「でも、それを言ったのはあなたが初めてです。今まで話し合いでも、誰も怖いと言わなかった」
「怖いと言った方がいいんですか」
「……あなたが怖いと言ったことで、私も怖いと言えた気がします」
メアはリアを見た。初日に「期待していません」と言ったリアが、今は「私も怖い」と言った。
* * *
一ヶ月が経った頃、施術の段階が変わった。
準備加温が終わり、「深層加温」が始まった。封印の中心部に向けて、生命波を直接送り込む段階だ。最初の深層施術は三時間かかり、メアは施術後に椅子から立てなかった。
最初の深層施術の夜、メアは三時間かけて施術を行い、終わった後に動けなくなった。椅子から立てなかった。リアが気づいて、部屋まで送ってくれた。
翌朝、王妃が来た。
「顔色が悪い。無理をしていませんか」
「施術の段階が変わったので、しばらく慣れるまでこうです」
「……休んでもいいんですよ。三ヶ月まで、まだ時間があります」
「休むより、続けた方がいい。毎日少しずつの方が、急ぐより安全です」
王妃は間を置いた。
「……クレイスが起きたら、何を最初に食べさせようか、ずっと考えているんです」
メアは笑った。
「どんなものが好きだったんですか」
「甘いものが好きで。特に、林檎を蜂蜜で煮たものが大好きだった。今の季節は林檎が出ています」
「じゃあ、今から作り始めてもいいですね」
王妃がまた、感情が緩んだような顔をした。
「……そうですね。準備しておきましょう」
メアはその言葉が、王妃にとってどれだけの意味を持つか、少しだけわかった気がした。
第五章
解凍の夜
二ヶ月目の後半、施術中の感触が変わった。
深層に送り込んだ生命波が、「何かに当たる」感覚があった。壁ではなく、もっと柔らかいもの。圧縮されて、凝縮されて、でも消えていない何かに。
「核心部に近づいている」とメアは思った。
その夜の施術後、メアはリアに言った。
「来週、最終施術を行います」
「……最終施術、とは」
「核心部への直接介入。封印の中心にある、クレイスの意識の残核に触れます。それが成功すれば、封印が崩壊を始める」
「崩壊、ということは」
「氷が溶ける。クレイスの体が戻ってくる。でも、その過程で生命活動が再開されなければ、消える」
リアが黙った。
「……術師への負担は」
「大きいです。核心部への介入は、今まで以上の消耗があります。私の生命波がある程度削れることは、覚悟しています」
「……どのくらい」
「わかりません。でも、準備は十分しました。あとは、やるだけです」
リアはメアを見た。
「……私に、できることはありますか」
「施術中、傍にいてください。私が倒れそうになったら、支えてください。それだけで十分です」
「……わかりました。必ずいます」
* * *
最終施術の前の夜、メアは師匠の手紙を読んだ。
ヤロウが亡くなる一週間前に書いた手紙だった。「深度Ⅴの依頼が来たとき、必ず読むように」と言われていた。封筒を開けた。
「メア。お前には伝えるべきことがある。クリオ術師が核心部に触れると、対象の意識と一時的に交信できることがある。めったに起きないが、深い封印ほど起きやすい。もし交信が起きたら、怖がるな。そのまま、言葉を交わせ。それが蘇生の最後の鍵になる。術師が交信を恐れて離れると、核心が閉じる。閉じたら、もう開かない。だから、交信が来たら、応えろ。お前なら、できる」
メアは手紙を折り畳んだ。枕元に置いた。
眠れると思っていなかったが、眠れた。
* * *
最終施術は、翌朝から始まった。
封印室に、メアとリアと、途中から王妃も来た。三人で、封印の前に集まった。
メアは結晶に両手を当てた。今日は全力で行く。今まで少しずつ積み上げてきた全部を、今日使う。
生命波を送り込んだ。
深く。今まで届いたことのない深さに。層を越えて、越えて、越えて。封印の氷が、内側から少しずつ変化していくのを感じた。微かに、温度が変わっていく。
核心部に触れた。
「何かに触れた」という感覚とは違った。「誰かに触れた」という感覚だった。
意識の断片。凝縮されて、縮まって、でも消えていない。六歳の意識が、十七年間、この場所にあった。
交信が、来た。
「誰かいるか」
声ではなかった。振動だった。でも、メアには言葉として届いた。
「います」とメアは答えた。声を出したかどうかわからなかったが、生命波に乗せて答えた。「来ました」
「……カルスか?」
メアの胸が、痛くなった。
「違います。私はメアといいます。カルスは……今は来られないけど、あなたを解かしに来ました」
間があった。
「……メア」
「そうです」
「……怖い」
「知っています。でも、私がいます。離れません」
また間があった。長い間。メアは離れなかった。核心部への接触を維持し続けた。消耗が来ていた。頭が重くなってきた。でも、離れなかった。
「……眠いのか」と意識が問いかけてきた。
「眠くない。起きています」
「……俺も、起きていていいか」
「はい。起きていてください」
封印の結晶が、動いた。
最初は微かだった。でも、核心部から何かが広がっていくのがわかった。封印が崩壊を始めていた。氷の内側から、ひびが入り始めた。
その瞬間、メアの生命波が急激に低下した。
「メア!」とリアが叫んだ。メアが傾いた。リアが支えた。
「離すな」とメアは言った。「まだ、離すな」
王妃が封印の前に進んだ。結晶に手を当てた。「クレイス!」と叫んだ。「クレイス、出ておいで!」
封印が、崩れた。
音がした。氷が割れる音。光が散った。冷たい霧が広がった。
リアがメアを支えたまま、前を見た。
霧の中に、人が立っていた。
二十三歳の体をした、青年だった。目を閉じていた。足がふらついていた。それでも、彼は自分の足で立っている。
「クレイス」と王妃が言った。声が割れていた。
青年が目を開けた。
視線が動いた。部屋の中を見た。王妃を見た。次に、視線をリアへ移した。それから、リアに支えられているメアを見た。
最初に言った言葉は、「メア?」だった。
メアは笑った。
「そうです。来ました」
封印から出てきた後、クレイスが一番最初に呼んだのは「メア」という名前だった。
メアは笑った。「そうです。来ました」
「メア?」と最初に言った。
目を開けた直後、クレイスの視線が止まった。リアに支えられているメアを見て。
クレイスが、また視線を動かした。部屋の中を、もう一度見た。それから、王妃を見た。
「……お母さん」
王妃が、初めて泣いた。
第六章
目覚めた世界で
クレイスが目覚めて、最初の三日間は医術師がつきっきりだった。
体の状態を確認し、十七年眠っていた筋肉を少しずつ動かす練習をし、食事を少しずつ始めた。最初は水だけ。それから粥。メアはその間、別の部屋で休んでいた。生命波の消耗が大きく、歩くのも辛かった。リアが毎日状態を確認しに来た。
四日目の朝、クレイスが「メアに会いたい」と言ったとリアが伝えた。
「会いに行きます」とメアは言って、部屋を出た。
クレイスの部屋は、封印室から遠い場所にあった。廊下を歩いて、扉をノックした。「どうぞ」という声がした。声が、少し低かった。六歳の記憶があるのに、声は二十三歳の声だ。
扉を開けると、クレイスがベッドに座っていた。
目が合った。
青い目だった。封印の中で見た映像では、子供の顔だった。でも今は二十三歳の顔で、同じ青い目がこちらを見ていた。
「……メアか」
「はい。メア・フロストです」
「おれを解かした」
「はい」
クレイスはメアを見た。それから自分の手を見た。
「……大きくなっている」と彼は言った。「手が」
「十七年分、体は成長していたようです。でも記憶は六歳のまま、と医術師が言っていました」
「……おれは、六歳のままか」
「記憶は。でも、これからです。十七年分、これから」
クレイスが窓を見た。外に空が見えた。
「……カルスは」
メアは間を置いた。
「……来られませんでした。五年前に、戦場で。ごめんなさい」
クレイスは何も言わなかった。しばらく、窓の外を見ていた。
メアはその沈黙の中に、何も言えなかった。何かを言うべきかとも思ったが、この沈黙には入らない方がいい気がした。
長い間が過ぎた。
「……おれを待っていてくれたか」とクレイスが言った。「お母さんは」
「毎日、封印室に来ていました。十七年間」
また沈黙。
「……カルスは、来ると言った。でも来なかった」
「はい」
「おれは信じて待っていた」
「知っています」
「でも、来なかった」
「……代わりに、私が来ました。カルスの代わりにはなれない。でも、来ました」
クレイスがメアを見た。
「……お前が来た」
「はい」
また沈黙。でも、さっきより少し、軽い沈黙だった。
* * *
二週間が過ぎて、クレイスは廊下を歩き、食堂で食事をし、一人で着替えられるようになった。
廊下を歩けるようになり、食堂で食事ができるようになり、一人で着替えられるようになった。一つずつ、体の使い方を確かめながら。
メアもその頃には、歩けるようになっていた。生命波の回復は遅かったが、少しずつ戻ってきていた。
廊下を歩いていて、クレイスが段差でつまずきそうになった場面があった。メアが黙って腕を差し伸べた。クレイスが掴んだ。「十七年ぶりに歩くんです。つまずくのが普通です」とメアが答えた。その言い方が優しかったから、クレイスは少しの間、メアの腕を離さなかった。
ある夕方、廊下でクレイスとばったり会った。
「どこへ行くんだ」とクレイスが聞いた。
「封印室です。クリオ結晶の後処理があるので」
「……ついていっていいか」
メアは驚いた。
「怖くないですか」
「怖い。でも、見ておきたい」
ふたりで封印室に行った。
扉を開けると、封印室はひんやりしていたが、もう霜がなかった。結晶が崩れた後の残骸が、少し残っていたが、ほとんど処理済みだった。
クレイスが部屋の中央に立った。何もない場所。十七年間、自分がいた場所。
しばらく、そこに立っていた。メアは遠くに立って、何も言わなかった。
「……長かったか」とクレイスが言った。「俺は、ちっとも長く感じなかったが」
「十七年は、長いです」
「外では、色々なことがあったんだろう」
「はい。いろいろ」
「……一つずつ、知っていく」
「いい方法だと思います」
クレイスがメアを見た。
「お前は、どのくらい王宮にいる」
「後処理が終われば、辺境に戻ります。工房があるので」
「……いつ?」
「もう少し。生命波が戻れば」
クレイスは部屋の中央から動かなかった。
「……お前がいなくなると、寂しい」
メアは笑った。
「会いに来てください。辺境まで」
「王子が辺境に行けるのか」
「行けないことはないと思います」
クレイスが考えた。
「……行く」
その言葉が、メアには少し、温かく聞こえた。
エピローグ
春の封印室
三ヶ月後、メアは荷物をまとめていた。
生命波は七割まで戻っていた。完全ではないが、工房に戻って仕事を再開できるくらいには戻った。後処理も終わった。王宮での仕事は終わりだった。
辞去の挨拶をしようと廊下に出たとき、クレイスがいた。
三ヶ月で、見た目が少し変わっていた。顔つきが少し変わった。王子らしくなってきたというより、人間らしくなってきたというほうが正確かもしれなかった。
「待て」とクレイスが言った。「どこへ行く」
「辺境です。工房に戻ります」
「今日か」
「はい。挨拶に行こうとしていました」
クレイスはメアを見た。何か言いたそうで、でも言葉を探しているような顔だった。
クレイスが言った。それが初めてだった。今まで「お前」だったのが、名前になった。「今、名前で呼びましたか」「王族だから言いたいことは言う」
「……メア」
「……また会えるか」
「お声をかけてください。呼ばれれば来ます」
「また凍らないと、呼べないのか」
メアは笑った。
「凍らなくても、来ます。辺境は遠いですけど」
「……来る」とクレイスは言った。「必ず来る。カルスみたいに言えないが」
メアは間を置いた。
「……カルスみたいに言わなくていいです。あなたはあなたでいい」
クレイスはメアを見た。
「……辺境は、寒いか」
「冬は寒いです」
「凍るか」
「凍りません」
「……俺はもう、凍らない」
メアは笑った。
「知っています」
クレイスも笑った。
初めて、笑った。メアが見ている前で。それは子供の笑顔ではなく、二十三歳の青年の笑顔だった。でも、どこか六歳のときの映像の中で見た笑顔に、似ていた。
* * *
王宮を出る前に、メアはもう一度だけ封印室に入った。
誰もいない部屋。冷たさが少し残っていたが、霜はなかった。光が窓から入っていた。春の光だった。
部屋の中央に立った。何もない。あった場所に、もうない。
十七年間、この部屋の中央にあったものが、今は外にいる。廊下を歩いていて、食堂で食事をして、笑っている。
メアは中央に立って、少し目を閉じた。
生命波を、一度だけ出した。部屋の中に。誰もいないけれど、向けた。「終わりました」という意味で。「解かしました」という意味で。師匠への報告のような、クレイスへの挨拶のような。
何も返ってこなかった。
それでよかった。何も返ってこないのは、封印がないからだ。もう、誰も凍っていないからだ。
メアは目を開けた。部屋を見渡した。空だった。きれいに空だった。
封印室の扉を閉めた。廊下に出た。
春の光が廊下を照らしていた。王宮の外に出ると、庭に花が咲いていた。白い花だった。
クレイスが、庭の端に立っていた。メアが来るのを待っていたかのように。でも待っていたとは言わなかった。ただ、立っていた。
「花が咲いている」とクレイスが言った。
「春ですから」
「……六歳の冬から、いきなり今の春になった」
「十七年分の春が、一度に来た感じですね」
クレイスが花を見た。白い花が、風に揺れていた。
「……きれいだ」
メアも花を見た。
「きれいですね」
しばらく、ふたりで庭の花を見ていた。言葉のいらない時間が、春の光の中にあった。
風が通り、メアは無意識に両手を擦った。
クレイスが気づいた。
「冷たいのか」
「少しだけ」
クレイスは迷ってから、メアの手を両手で包んだ。
「十七年分、俺を温めたのはお前だろう」
「私は数週間しか施術していません」
「それでもだ。今度は、俺の番でいいか」
メアは答える代わりに、包まれた手の力を抜いた。
メアの生命波が、温かく揺れた。
それが、終わりだった。そして、始まりだった。
了
(本作品は第9回アイリス異世界ファンタジー大賞への応募作品です)




