潮風の甘さと塩辛さと
第一部 寄せては返す潮
第一章 青の縁に立つミズキ
東シナ海を見下ろす崖の上のカフェ。海に突き出すように作られたテラス席で、ミズキ(35歳)はノートパソコンのキーを叩いていた。潮風が運んでくるハイビスカスの甘い香りと、遠くで砕ける波の音が混じり合う。目の前には、絵の具を溶かしたようなターコイズブルーの海が広がり、グラスの中のさんぴん茶が氷を鳴らした。
彼女が執筆しているのは、都会の女性をターゲットにしたオンラインマガジンの特集記事だ。タイトルは「沖縄で見つける、自分だけの時間」。指先から紡がれる言葉は、読者の心をくすぐるように計算されていた。「都会の喧騒を離れ、ただゆっくりと流れる時間に身を委ねる贅沢。それは、失いかけていた自分自身を取り戻すためのヒーリングの旅…」 。ミズキは、5年前に自分が求めていた言葉を、今、商品として売っている。
しかし、彼女の思考の半分は、もっと現実的な計算に占められていた。この記事の原稿料は税込みで5万円。来月に迫った軽自動車の車検代が約8万円。本土からの輸送費が上乗せされた牛乳と卵の値段を思い出し、溜息を一つつく 。この記事を書き終えたら、渋滞で有名な国道58号線を走ってスーパーに行かなければならない。東京の満員電車から逃れても、沖縄には沖縄の移動ストレスがあるのだ 。
5年前、広告代理店の激務に心身をすり減らし、東京から逃げるようにこの島へ来た。殺伐とした人間関係と、終わりの見えない仕事。山手線の窓に映る自分の顔が、まるで知らない他人のように見えた夜、移住を決意した 。
沖縄での生活は、決して楽園ではなかった。給料は東京時代の半分以下になり、湿気とカビとの戦いは今も続いている 。老朽化した中古の外人住宅は、夏は蒸し暑く、冬はコンクリートが芯から冷える 。愛車は潮風で錆が浮き始めている 。
それでも、ミズキは後悔していなかった。ここには、東京では感じられなかった「生きがい」があった。何気ない会話を交わす近所のおばぁ、夕暮れのビーチをただ眺める時間、そして、自分と同じように都会に疲れ、救いを求めてくる女性たちの相談に乗ること。彼女は、沖縄の魅力を発信するジャーナリストとして、この島の光と影の両方を、誠実に伝えていきたいと思っていた。それは、過去の自分への、そして未来の誰かへの、ささやかな責任のようなものだった。
第二章 一通のメール
カフェからの帰り道、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。ミズキは車を走らせ、浦添市にある自宅へ向かった。彼女が住むのは、かつて米軍関係者が住んでいた通称「外人住宅」。白いコンクリートの平屋で、広めの庭には月桃の木が青々と茂っている 。
部屋に入ると、除湿器が低い唸りをあげていた。スイッチを入れたままにしておかなければ、あっという間にカビの匂いが立ち込める 。テーブルに買ってきたばかりの食材を置き、ノートパソコンを開くと、受信トレイに数件の新しいメールが届いていた。
そのほとんどは、月に数件来る移住相談のメールだった。ミズキはそれらを素早く分類していく。「ロマンチスト」—沖縄での生活が永遠のバカンスだと信じているタイプ 。「燃え尽き症候群」—かつての自分のように、ただ逃げ出したい一心の人。「準備不足」—仕事のあてもなく「何とかなるだろう」と考えている、最も危険なタイプ 。
その中で、一通のメールが彼女の目を引いた。差出人は、ユイ、25歳、東京在住。
「はじめまして。突然のメール失礼いたします。ウェブマガジンで溝口様の記事を拝見し、ご連絡いたしました」
丁寧な書き出しに続く文章は、他の相談者とは少し違っていた。そこには、切実でありながらも、冷静な自己分析があった。
「今の仕事に大きな不満があるわけではありません。ですが、まるで自分ではない誰かの人生を生きているような感覚が、日に日に強くなっています。東京から逃げたいのではなく、新しい自分と、自分の人生をこの手で掴みたいのです」
「新しい自分を掴みたい」。その言葉が、ミズキの心に小さな波紋を広げた。多くの相談者が「何かから逃れる」ことを目的にする中で、ユイは「何かを始める」ために沖縄を見つめている。それは、ミズキが5年かけてようやく辿り着いた境地だった。
ミズキは、この相談に乗ることが、どれほど感情を消耗するかを知っている。沖縄移住者の約8割が3年以内に島を離れるという厳しい現実も 。自分の言葉一つが、他人の人生を大きく左右するかもしれないという重圧。それが、この無償の役割の裏側にあるものだった。
それでも、彼女は返信ボタンをクリックした。「一度、沖縄に来て、話をしませんか」。ユイの中に、かつての自分とは違う、新しい希望の形が見えた気がした。
第三章 山手線の亡霊
ユイからのメールは、ミズキの記憶の蓋をこじ開けた。東京での最後の日々。あの息苦しい感覚が、昨日のことのように蘇る。
朝7時半、総武線の快速電車。新小岩から錦糸町へ向かうその区間は、国土交通省が発表する混雑率ランキングの常連だ 。ドアが開くたびに、人の波が雪崩のように流れ込んでくる。ガラスが歪むほどの圧力。誰かの肘が脇腹に食い込み、知らない人の吐息が首筋にかかる。息を吸うことさえままならず、ただ人々の塊の一部として運ばれていく 。プライバシーという概念が蒸発した空間で、人々は互いを「障害物」として認識していた 。
丸の内のオフィスビルは、静かな戦場だった 。効率最優先のコミュニケーション。会話は常に要件のみで、プライベートな話題は敬遠される 。誰もが自分の役割をこなし、他者との間に見えない線を引いている 。ミズキは深夜まで働き、上司からはその勤勉さを評価されたが、彼女の心が悲鳴をあげていることには誰も気づかなかった。
決定的な瞬間は、ある雨の夜に訪れた。終電間際の山手線。疲れ果てて座席に身を沈め、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。暗い窓ガラスに映った自分の顔。そこにいたのは、感情を失った人形のような、まったく知らない女だった。目の光は消え、頬はこけ、ただ生きるために呼吸をしているだけの存在。
その時、ミズキは悟った。このままでは、私は私でなくなってしまう。この街は、私から人間らしさを少しずつ奪い、空っぽの器に変えてしまう。
それは、沖縄への憧れではなかった。南の島への逃避でもない。それは、自分自身を救うための、必死の脱出計画の始まりだった。東京という巨大な群衆の中で感じる、絶対的な孤独。物理的には誰かに触れているのに、魂は誰とも繋がっていない。ミズキが求めていたのは、暖かな気候ではなく、人の温もりだったのかもしれない。
第二部 来訪者
第四章 南風の洗礼
那覇空港の到着ゲートから一歩踏み出した瞬間、ユイ(25歳)は濃密な空気に包まれた。東京の乾いた空気とはまったく違う、湿り気を帯びた南風。それは肌にまとわりつき、肺を満たした。目に飛び込んでくるのは、原色の花々、赤瓦の屋根、そして突き抜けるような青い空。光の質そのものが、東京とは違っていた。
「ユイさん?」
声のする方へ振り向くと、リネンのシャツを着た女性が微笑んでいた。ミズキだった。写真で見たよりも、日に焼けて健康的で、落ち着いた雰囲気をまとっている。
ミズキの運転する車に乗り込むと、車窓の風景が次々とユイの目に飛び込んできた。高速道路から見える、きらきらと光る海。街の至る所にある、見慣れない形の石敢當。すべてが、彼女が雑誌やSNSで夢見ていた「沖縄」そのものだった。
「すごい…本当に、写真のままですね」
ユイの興奮した声に、ミズキは穏やかに頷いた。「景色は綺麗よ。急いでさえいなければね」。
その言葉の真意を、ユイはまだ理解できなかった。彼女は、広告代理店での日々を思い出していた。クライアントの要求と、終わりのない修正作業。若手社員として常にプレッシャーに晒され、自分の意見を殺して働く毎日 。この解放感は、そんな日常からの逃避の証のように感じられた。
ミズキは、ユイの心を読んだように言った。「湿気にはすぐ慣れるわ。でも、クローゼットの中の服は、なかなか慣れてくれないけどね」。
その小さな冗談に隠された現実の棘に、ユイはまだ気づいていなかった。彼女の心は、理想の沖縄像というフィルターを通して、目の前の景色をただ美しく映し出しているだけだった。
第五章 崖の上のカフェ
最初の面談の場所にミズキが選んだのは、第一章で彼女が仕事をしていた、あの崖の上のカフェだった 。これ以上ないほど完璧なロケーション。ミズキは、まずユイの夢を、その理想を、すべて吐き出させるつもりだった。
「どんな生活がしたいの?」
ミズキの問いに、ユイは目を輝かせながら語り始めた。それは、多くの都会の若者が抱く、漠然とした、しかし切実な願いだった。
「仕事とプライベートのバランスが取れた生活がしたいんです。東京では、平日は仕事のために生きて、週末は平日の疲れを取るためだけに存在するような感じで…」 。
彼女は、広告代理店での経験を語った。やりがいはある。でも、自分の時間も、健康も、すべてを犠牲にしている感覚。20代のうちに何かスキルを身につけなければという焦り 。結婚や出産といったライフイベントを考えると、このままの働き方は続けられないという不安 。
「沖縄に来れば、もっと人間らしい生活ができるんじゃないかって。午前中はリモートで仕事をして、午後は海辺で本を読んで、夜は地元の友達と笑い合って…そんな、地に足のついた生活がしたいんです」。
ミズキは黙って聞いていた。ユイの言葉の一つ一つが、かつての自分の叫びと重なる。だが、ミズキは5年の歳月を経て、その夢の裏側にある現実を知っていた。
ユイが話し終えるのを待って、ミズキは静かに口を開いた。「素敵なプランね。いくつか、質問してもいい?」
彼女は、夢を壊すためではなく、夢を現実に変えるための問いを投げかけた。
「沖縄の平均年収は、全国平均よりかなり低い。東京と比べたら3割から4割は下がるわ 。その中で、どうやって生計を立てていくか、具体的な計画はある?」
「コミュニティって言ったけど、沖縄の繋がりは濃密よ。それは温かい時もあるけど、時には義務や干渉にもなる 。地域の行事への参加とか、独特の人間関係とか。そういうものに、あなたは耐えられる?」
ミズキの言葉は、冷たい水を浴びせるようなものではなかった。それは、これから航海に出ようとする者に、海図に書かれた岩礁や浅瀬の場所を、静かに指し示すような行為だった。ユイの世代は、自己実現やキャリアデザインという言葉に慣れ親しんでいる。しかし、その計画が、沖縄の土壌で根を張れるかどうかは、まったく別の問題だった。
第六章 見えない値段
翌日、ミズキはユイを地元のスーパーマーケットへ連れて行った。観光客向けの土産物屋ではなく、地元の人々が日常的に利用する、生活感の漂う場所だ。
「これが、沖縄の現実を知る一番の近道だから」
店内に足を踏み入れたユイは、すぐに違和感に気づいた。乳製品コーナーに並ぶ牛乳の値段が、東京で見ていたものより明らかに高い。卵も、野菜も、本土から輸送されてくるものは、すべからく割高だった 。
「これが『離島コスト』よ。船か飛行機で運んでくるから、どうしても高くなるの」とミズキが説明した。
ユイの目を最も引いたのは、缶詰コーナーの一角を占める、膨大な種類のポークランチョンミートだった 。様々なブランドの缶詰が、壁のように積み上げられている。
「沖縄の食文化は、琉球王朝の歴史だけじゃなく、戦後のアメリカ統治時代の影響も色濃く残っているの。チャンプルーにも、おにぎりにも、味噌汁にさえ入れる家もあるわ」 。
それは、ユイが知らなかった沖縄の顔だった。美しい自然や伝統文化の裏側にある、複雑な歴史と、それによって形成された生活の知恵。
スーパーからの帰り道、彼らは国道330号線の激しい渋滞にはまった 。車は数メートル進んでは止まり、を繰り返す。クラクションの音と排気ガスの匂いが、開け放った窓から流れ込んできた。
「みんな、満員電車から逃げたくて沖縄に来る。でも、誰もが車社会のストレスに気づかないの」とミズキは言った。「東京では見知らぬ他人と体を密着させていたのが、ここでは鉄の箱の中で一人、孤立する。ストレスの種類が変わるだけよ」 。
ユイは黙って、前に連なるブレーキランプの赤い列を眺めていた。昨日までキラキラと輝いて見えた沖縄の風景が、少しずつ、現実的な色彩を帯び始めていた。美しい海を見るためには、この退屈な渋滞を耐えなければならない。のんびりした時間を手に入れるためには、割高な生活費を払い続けなければならない。すべてのものには、目に見えない値段がつけられているのだと、ユイは静かに理解し始めていた。
第三部 素顔の島
第七章 仕事という現実
その夜、ミズキはユイを地元の居酒屋へ連れて行った。待ち合わせていたのは、ミズキと同じ「ナイチャー」(本土出身者)の友人たちだった。
アカリは、リゾートホテルで働く30代の女性。ケンジは、自宅で仕事をするフリーランスのウェブ開発者だ。オリオンビールのジョッキを片手に、彼らは飾らない言葉で沖縄での仕事の現実を語り始めた。
「やりがいはあるよ。お客さんの笑顔を見ると嬉しいし」とアカリが口火を切った。「でも、給料は本当に安い。正社員でも手取り20万を切ることも珍しくないし、ボーナスがない会社も多い 。観光業だから景気にも左右されるしね。このままずっとここで暮らしていけるのかなって、時々不安になる」 。
ケンジは、もっと構造的な問題を指摘した。「沖縄はIT系の仕事が少ないんだ 。リモートで本土の仕事を受けられるから僕はまだマシだけど、それでもキャリアアップの面では限界を感じる。それに、何より大変なのが『ウチナータイム』かな」 。
彼は苦笑しながら続けた。「納期がある仕事なのに、クライアントとの打ち合わせに平気で1時間遅れてきたりするんだ。『ごめんごめん、道が混んでてさー』って 。悪気がないのはわかるんだけど、こっちの仕事のリズムはめちゃくちゃになる。この緩さが沖縄の魅力でもあるんだろうけど、仕事となると話は別だね」 。
アカリも頷いた。「あと、やっぱりどこか『ナイチャーはいつか帰る人』って見られてる感じはあるかな 。すごく親切にしてくれるんだけど、本当の意味でコミュニティの一員になるには、見えない壁がある気がする。孤独を感じる移住者って、実は少なくないと思うよ」 。
ユイは、彼らの話に真剣に耳を傾けていた。それは、移住の成功例ばかりが並ぶ雑誌の記事からは決して窺い知ることのできない、生々しい現実の声だった。憧れだけでは越えられない、生活の、文化の、そして仕事の壁が、そこには確かに存在していた。
第八章 島の匂い、島の手触り
厳しい現実の話が続いた翌日、ミズキはユイを別の場所へ案内した。経済的な豊かさとは違う、この島が持つ本質的な価値を感じられる場所へ。
車で向かったのは、緑豊かなやんばるの森に抱かれた、やちむん(焼き物)の里だった。赤瓦の屋根の工房が点在し、登り窯からうっすらと煙が立ち上っている。二人は一つの工房に入り、棚に並べられた器を手に取った。
ユイが手に取った茶碗は、一つ一つ形が微妙に違い、土の温かみが直接伝わってくるような、素朴で力強い手触りだった 。機械で作られた製品のつるりとした均一さとは全く違う、作り手の指先の跡が残るような質感。ミズキは言った。「400年以上続く、この島の歴史がこの土の中に練り込まれているのよ」。
その日の夕方、二人は公民館の広場にいた。地域の青年会がエイサーの練習をしているのだ。観光客向けのショーではない、旧盆に自分たちの集落を練り歩き、祖先の霊を送迎するための、真剣な練習だった 。
日が落ち始め、空が茜色に染まる中、大太鼓の音が響き渡る。地を揺るがすような、腹の底に直接響く音。三線の物悲しい音色と、若者たちの力強い掛け声。それは、ユイの鼓動と共鳴し、彼女の身体を内側から震わせた 。これはパフォーマンスではない。祈りであり、魂の継承なのだと直感的に理解した。
練習の合間に、青年会のお母さんたちが差し入れてくれた「ムーチー」(餅)を振る舞われた。月桃の葉で包んで蒸されたその餅からは、独特の甘くスパイシーな香りが立ち上った 。その香りは、防虫効果や薬効もある、島の暮らしに深く根付いた植物のものだとミズキが教えてくれた 。
ユイは、月桃の香りを深く吸い込んだ。それは、昨日までの不安を洗い流してくれるような、清々しくも力強い香りだった。お金では買えないもの。給料明細には載らない豊かさ。ミズキがなぜこの島に留まり続けるのか、その理由の一端に、ユイは触れた気がした。それは、島の匂い、島の手触り、そして島の音が教えてくれた、生きることの根源的な手応えだった。
第九章 台風の兆し
ユイの滞在も終わりに近づいた頃、島の空気が変わった。湿気を帯びた生暖かい風が吹き始め、空は不気味なほどの深いオレンジ色に染まった。テレビからは、大型で非常に強い台風が沖縄本島に接近しているというニュースが、繰り返し流されていた。
「台風が来るわね」
ミズキは、落ち着き払った様子で言った。彼女の顔には、長年の経験からくる覚悟が滲んでいた。
島の雰囲気は一変した。のんびりとした空気は消え、人々は黙々と、しかし迅速に備えを始める。スーパーの棚からは、水、パン、カップ麺、そして乾電池が瞬く間に消えていった 。ホームセンターには、窓ガラスの飛散を防ぐための養生テープを求める人々が列を作っていた。
ミズキの家でも、二人は台風対策を始めた。庭にある植木鉢を家の中に入れ、窓にはガムテープを米印に貼っていく。
「風だけじゃないのよ」とミズキは説明した。「停電は当たり前。ひどい時は断水もする。それに、潮風が内陸まで吹き付けて、植物を枯らし、金属を錆びさせる『塩害』も怖いの」 。
ユイは、生まれて初めて体験するその状況に、言いようのない恐怖を感じていた。東京で経験する台風は、交通機関が乱れる程度の「不便」な出来事だった。しかし、ここで迫りくるそれは、生活そのものを脅かす「脅威」だった。
自然の力の前では、人間の計画などいかに脆いものであるか。美しい海も、穏やかな気候も、この島の一つの側面に過ぎない。その裏側には、すべてを破壊し尽くすほどの、荒々しい素顔が隠されている。ユイは、ミズキが語ってきた沖縄の「デメリット」が、単なる知識ではなく、命に関わる現実なのだと、肌で感じていた。
第四部 潮の変わり目
第十章 長い夜
夜になると、風雨はさらに勢いを増した。窓ガラスがガタガタと音を立てて震え、家全体が風の力で軋むようだった。そして、午後9時を過ぎた頃、予告なくぷつりと明かりが消え、完全な闇が訪れた。
ミズキが慣れた手つきでランタンとキャンドルに火を灯すと、部屋の中に小さな光の輪が生まれた。外では、獣の咆哮のような風の音が鳴り響いている。その非日常的な空間で、二人は静かに向かい合っていた。
沈黙を破ったのは、ユイだった。声が、わずかに震えていた。
「私…もしかしたら、一つの檻から逃げ出して、別の檻に入ろうとしてるだけなのかもしれません」
彼女は、この数日間で感じたこと、見たこと、聞いたことすべてを吐き出した。低い給料、都会とは違う種類のストレス、ナイチャーであることの疎外感、そして、今まさに体験している自然の脅威。
「私の夢は、ただの甘い幻想だったんでしょうか…」
その問いに、ミズキはゆっくりと首を振った。そして、これまで誰にも深くは語らなかった、自分自身の話を始めた。
「私も、最初の1年は地獄だった」
彼女の声は、ランタンの光の中で静かに響いた。「友達もいなくて、仕事も不安定で、ひどい孤独を感じていた 。貯金が底をつきかけて、本気で東京に帰ろうと思ったことも何度もあったわ 。実家の親からは『いつまで遊んでいるんだ』と言われ、島の言葉もわからず、誰にも本音を話せなくて、毎晩車の中で泣いていた」 。
それは、ミズキがいつも見せている、落ち着いたメンターとしての姿からは想像もできない、弱さと脆さの告白だった。
「でも、そんな時にね、隣のおばぁが『顔色が悪いさー』って、ジューシー(沖縄の炊き込みご飯)を黙って玄関に置いていってくれたり、仕事で大失敗して落ち込んでいたら、地元の友達が何も聞かずに夜中の海に連れ出してくれたりしたの」
彼女は、窓の外の闇を見つめながら続けた。
「沖縄は楽園じゃない。それは確かよ。でも、ここは戦う場所なの。東京とは違う種類の戦い。お金やキャリアのためじゃなく、自分らしい生き方を守るための戦い。だから、ユイ。これは逃げるかどうかの問題じゃないの。あなたにとって、どっちの戦いが、戦う価値があるかってことなのよ」
風の音に混じって、ミズキの言葉が、ユイの心の奥深くに、静かに染み込んでいった。
第十一章 凪
長い夜が明け、嵐は過ぎ去った。嘘のように静まり返った朝、ミズキとユイは家の外に出た。
世界は、洗い清められたように澄み渡っていた。空気はひんやりと新鮮で、雲の切れ間からは力強い太陽の光が差し込んでいる。庭には折れた枝や葉が散乱し、月桃の木も少し傾いていた。被害は確かにある。しかし、それ以上に、すべてを耐え抜いた生命の力強さが、あたりを満たしていた。
近所の人々が家から出てきて、「大丈夫だったねー」と声を掛け合いながら、黙々と片付けを始めている。そこには悲壮感はなく、当たり前の日常を取り戻すための、静かで力強い共同作業があった。
ユイは、その光景を黙って見つめていた。ミズキの幸福が、常夏の楽園でのんびりと過ごすことではないのだと、ようやく理解できた。彼女の幸福は、この嵐の後の凪のようなものだ。破壊と再生を繰り返し、それでもなお、ここに根を張り、生き続けるという、しなやかで、たくましい覚悟そのものなのだ。
ユイが求めていたのは、完璧な場所ではなかったはずだ。彼女が本当に掴みたかったのは、どんな場所でも、どんな困難の中でも、自分自身の足で立って、意味のある人生を築いていける、そんな新しい自分自身だったのではないか。
嵐の後の、あまりにも青く、あまりにも美しい空を見上げながら、ユイは自分の進むべき道が、少しだけ見えたような気がした。
第十二章 決断
帰りの飛行機を待つ那覇空港の出発ロビーで、ユイはミズキに自分の決断を告げた。
「私、すぐには移住しません」
その言葉に、ミズキは驚かなかった。ただ、静かに続きを待った。
「今回の旅で、私に足りないものがよくわかりました。覚悟も、準備も、そして何より、どこでも生きていけるスキルも、今の私にはありません」
ユイの表情は、沖縄に来た時のような夢見るようなものではなく、現実を見据えた落ち着いたものに変わっていた。
「だから、まずは東京で、もう一度ちゃんと戦ってみようと思います。でも、戦い方を変えます。ミズキさんが言っていたように、『自分の戦い』を選びます」
彼女は、具体的な計画を語った。
「まず、半年間、本気で貯金をします。そして、そのお金で、来年の夏に『リゾートバイト』を利用して、もう一度沖縄に来ます 。今度は観光客としてじゃなく、働く人間として、この島を体験してみたいんです。生活者としての沖縄を、自分の肌で感じてみたい。それで、本当にここでやっていけるのか、自分自身を試してみます」
それは、0か100かではない、現実的で賢明なプランだった。憧れに飛びつくのではなく、地に足のついた一歩を踏み出そうという意思の表れだった。
ミズキは、心から微笑んだ。「それが、きっと正解よ」
搭乗ゲートへ向かうユイの後ろ姿を見送りながら、ミズキは安堵のため息をついた。自分の役割は、誰かの背中を押すことでも、引き留めることでもない。ただ、正直な地図を渡すこと。その地図を手に、どの道を選ぶかは、本人にしか決められない。
ユイは、自分だけの航路を見つけ出したのだ。
エピローグ 潮風の便り
半年後。ミズキは、再びあの崖の上のカフェにいた。いつもの席で、いつものように海を眺めながら、ノートパソコンを開いている。
受信トレイに、ユイからのメールが届いていた。
件名は「ご報告」。本文には、彼女が宣言通り、東京で働きながら貯金に励んでいること、そして、来月からのリゾートバイト先が石垣島のホテルに決まったことが、生き生きとした言葉で綴られていた。
「東京での毎日も、不思議と以前より苦しくなくなりました。沖縄での数日間が、私に新しい視点をくれたからです。ミズキさんは、私に答えではなく、正しい問いをくれました。本当にありがとうございました」
メールを読み終えたミズキは、顔を上げた。目の前には、半年前と何も変わらない、雄大な青い海が広がっている。寄せては返し、決して同じ姿を見せることのない潮の流れ。
この島は、訪れる者すべてを受け入れる。そして、去っていく者も、留まる者も、ただ静かに見守っている。ミズキは、その大きな懐の中で、自分もまた生かされているのだと感じた。
潮風が、甘さと塩辛さをないまぜにして、彼女の頬を優しく撫でていった。




