アンドロマケー〜トロイアの英雄ヘクトールの妻〜
早朝の港は、まだ人の喧騒が聞こえるに早く、穏やかな波の音が耳に心地良い刺激を与えてくれる。海を見詰める彼女の顔には18年の苦難を刻まれていた。がその目は解放された喜びで輝いていた。
18年。奴隷としてネオプトレモスに、エーペイロスの地に連れていかれてからの年月だ。それはまた我が子アステュアナクスを、ネオプトレモスに亡き者にされてからの年月だった。
この18年を様々な感情を抑えながら回想していると、背後から彼女に声がかかった。
「アンドロマケー義姉さま。昨日は長旅でお疲れかと思い、お声掛けを控えさせて頂きましたが、体調は如何でしょうか?」
そこには、不思議な目の色をした、アンドロマケーと同じくらい苦難を刻んだ顔の義妹と、更に年齢と苦難を味わった様子の義母が立っていた。
「ヘカベー義母様、カッサンドラ。ええ、わたしは大丈夫。この18年に比べれば大した事では無いわ」
三人の顔は、それぞれが味わったであろう屈辱の日々を思い出したのか、苦い笑みが浮んでいた。
「義姉様。もしお嫌でなければこの18年の事、お聞かせ願えませんか?」
「ええ、わたくしも聞きたいわ。アンドロマケー」
少し遠慮勝ちに義妹と義母の二人がねだるのに、アンドロマケーは軽く頷いて応える。
「それ程、楽しい話題ではありませんが、お話しする事に差し支えはありません」
そう言って、一度目を瞑った彼女は一つ深呼吸する。
「18年前。私達はアカイアの奴隷に落されて、私はネオプトレモスのモノとなりました……」
◇◇◇
そう、アカイアに破れたトロイアの王族の一人である私は奴隷としてネオプトレモスのモノになってしまいました。正しく言うと子を成すための奴隷として、でした。私の夫ヘクトールを殺し、その亡骸を恥しめたアキレウスの息子であり、義父プリアモスを弑したネオプトレモスにです。
あのネオプトレモスは将来の禍根を断つため、私とヘクトール様の最愛の息子アステュアナクスを、よりにもよってトロイアのあのポセイドーン樣がお創りになった高い城壁から真っ逆さまに投げ捨てたのです。幼いアステュアナクスにとっては一溜りもなかったでしょう。
私が何度、泣いて叫んでも、彼の方は聞く耳を持ちませんでした。それどころか、愉しげに笑っていたのでした。
この時です。私は彼の方への復讐を成し遂げると誓ったのは。幾ら時間がかかろうと、例え子を生む道具にされようと、彼の方だけは必ずや亡き者にして差し上げようと私は、今は亡き夫と息子に誓ったのです。
なぜか、ネオプトレモスは陸路でトラキアを目指しテッサリアへ向かったのですが、そんな事は些細な事でした。彼の地へ向う行軍の中で私は意外な人物と出あってしまったからでした。
ヘレノス様。ヘクトール様の弟君でした。
「何故ヘレノス様がここに? デーイポポス様と仲違いされた後、イーデー山に去ったのではないのですか?」
私の疑問にヘレノス様は俯くだけで答えてはくれませんでした。
代りに答えたのは、あのネオプトレモスです。
「ああ、こいつはオデュッセウスに捕えられて我々アカイアに協力してくれた、言ってみればトロイア攻略の功労者の一人さ」
嗚呼、なんという事を。
ヘレノス様の助言が無ければトロイアは、義父は、義弟達は、アステュアナクスは生命を失しう事は無かったのでは……
最早どう足掻いても取り戻せない現実に、私の心は悲嘆で震えるのでした。
ネオプトレモスはテッサリアを過ぎエーペイロスの地を目指します。彼の何故父祖の地であるテッサリアを素通りするのか、奴隷である私に説明する者は居りませんでした。私に求められるのは只一つ、子を成す行為のみです。私は復讐を叶える日の為に、ネオプトレモスに従順なフリを続けるのでした。そして、そんな事をしていれば当然の事ですが、私は懐胎いたしました。エーペイロスへ着いてから産まれた子の名は、モロッソスと名付けられました。
エーペイロスへ着いた頃でしょうか。ネオプトレモスは婚約を交していたヘルミオネー様と正式に婚姻を結びました。しかし、二人の仲は決して良いものではありませんでした。中々二人の間にお子はできず、私との間にはピエロス、ベルガモスと更に二人の子が産まれました。
この頃になると、幾ら奴隷とはいえ私にも少しは外出の自由が与えられておりました。私は時間が許せばドードーナの神託所へと足を運んでおりました。この神託所は大地母神そしてへーラー様縁という事もあり、多産を希うふりをする私が訪ずれるのに不審に思われる事はありませんでした。
ある日の事です。ドードーナの神託所で私は思わぬ方にお目にかかりました。ネオプトレモスの正妻、ヘルミオネー様です。あんなに仲の良くないヘルミオネー様でも子は欲しいものなのでしょうか? 子を産めなければ生命の保証の無い私には窺い知れぬ理由があったのでしょうか? でも彼女の様子からはそんな理由は無いようでした。何故なら。
「アンドロマケー樣。我が義母、クリュタイムネーストラーからの言伝てです。『アガメムノーンとネオプトレモスはわたくしたちで始末します。時機が来たら、ミュケーナイへいらっしゃい』」
あまりの事に私は、返事をする事もできませんでした。この方は何のおっしゃっているのだろう。アガメムノーン王を弑すると? アキレウスの子ネオプトレモスさえも?
怪訝な顔をしたであろう私に、ヘルミオネー樣は説明して下さいました。
「我が義母、クリュタイムネーストラー樣の実の娘、イーピゲネイア樣はアガメムノーンの短慮によって、贄として生命を散らされました。その恨み、義母は決して忘れてはおりません。そして今になって分かった事ですが義母の前夫であるタンタロスはアガメムノーンの謀計によって亡くなったのです。義母は前夫の弟であるアイギストスと謀りアガメムノーンを亡き者とします」
何たる事を。アガメムノーンの暴虐がそこ迄酷いものだったとは。でも、ネオプトレモスは関係無いのでは? その疑問が顔に出ていたのでしょう。ヘルミオネー樣は凄い笑顔を創り出しました。凄艶な笑みと言っても良いでしょうか。
「わたくしは元々、義理の兄弟であるオレステース樣をお慕いしておりました。ですがネオプトレモスの横槍によって、こちらへ嫁いで参ったのです。決して本意ではございません。なので、ネオプトレモスはオレステース樣に討っていただきます。この事はエーレクトラ義姉樣も了解の事です」
余りに予想外の事実の連続に、頭が混乱しそうでしたが、一点だけ気になる事がありました。
「エーレクトラ樣は、お父上を、その大変慕ってらっしゃると伺った事がございますが。そのあたりの事情は問題ないのでしょか?」
するとヘルミオネー樣は薄く嗤い、誰かを嘲笑するような光を目に宿す。
「それはあの方の、アガメムノーンを油断させる為の演技です。実の所、戦争中10年もの間家族と民を省みず、さらには実の姉を己れの都合で贄として差し出すような父を、あの方は心底憎んでおります。エーレクトラ樣は今の仮面を被り続けるため、アガメムノーン亡き後、実母クリュタイムネーストラー樣と ヘレネー樣を弑したと嘘をつきますでしょう。カッサンドラ樣もです。そして、彼女達を隠匿いたします。そこにアンドロマケー樣にも合流して頂きたい。それが義母の望みです」
私はようやく納得できました。やはり、奢り高ぶった者は何時かその報いを受けるのです。私ははたと気付きました。このまま彼女達に全てを任せてしまうのでは、私の復讐を遂げた事にはならない、と。
「私に、何か出きる事はありませんか?」
ヘルミオネー樣は私のその言葉を聞いて満面の笑みを浮べます。
「そう言って下さると思っておりました。お願いがございます。このエーペイロスの民を安らかにしては下さいませんでしょうか。わたくしは、事が成った後ミュケーナイを治める立場に就くでしょう。その時、貴女の様な方がこの地を治めて下されば、心安んじるというものです。如何でしょうか?」
私は暫く考えました。そして、ゆっくりと一つの案が浮びあがりました。
「ヘレノスを夫として迎えましょう。そして、モロッソスを次代の為政者として育てながら、この地を治めるのです。モロッソスが一人前になれば、私はミュケーナイへと向えるでしょう」
ヘルミオネー樣は深く頷きました。
「では、それでお願いいたします。義母にはその旨お伝えいたします。その日が早く来ますようへーラー樣にお祈りいたします」
そう言って彼女は神託所を出て行かれました。私も事の成功を大地母神樣とへーラー樣にお祈りいたしました。
神人の言葉を賜るこの場所でお祈りするなど、周りからはどの様に見えたでしょか。でも私の心はその様な事など気にはなりませんでした。ネオプトレモスなど居なくともこの地はやっていける。それを示す事がネオプトレモスへの復讐となるなど、これ程愉快な事は無いと思ってしまったからです。
私は心からの笑みを浮べ神託所を後にしたのでした。
それから10数年。モロッソスは立派な為政者となりました。
私は、夫となったヘレノスと共にエーペイロスを離れ、海路ミュケーナイへと向かったのでした。
◇◇◇
「という事がございましたのよ」
話を締め括ったアンドロマケーの顔は一点の曇りも無かった。やるべき事を遣り遂げた者特有の充足感に溢れていたのだ。
「では、心置き無く新天地へと向かえますね。お義姉樣」
まだ少し暗いカッサンドラの声が、アンドロマケーの耳を打つ。ああ、この義妹はまだ太陽神樣の呪いを克服できてはいないのだ、とアンドロマケーは思う。だが、新天地ではもう彼女の予言を必要とする事は無いだろう。そうなって初めてカッサンドラは自由になれるのだ。
そう感得したアンドロマケーは、努めて明い声を出す。
「ええ、今迄苦労した分、これからは良い事にだけ出あえますよ。カッサンドラ、お義母樣も」
これからクレタ島経由で、フリュギアへ向う彼女達。彼の地は義母ヘカベーの故郷にあたる。
「そろそろ船員達も集ってきましたし、乗船するといたしましょう」
アンドロマケーの明るい声が、居並ぶ女性達に元気を与えてくれるようだった。
終
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