ほんの少し、違う景色
「じゃあ、これで席替え完了としまーす」
先生のその声を合図に、教室がざわついた。机を引きずる音、軽いため息、微妙な表情の交換。
みんなが新しい景色に目を慣らそうとする中で、僕――笹本悠人は、自分の机の前で静かに立っていた。
水月さんは、もう僕の近くじゃなかった。
ほんの少し、心に穴が開いたような感覚。だけど、口に出すほどのことでもないし、そういう関係でもない。……はずだ。
「よろしくね、笹本くん」
そう声をかけてきたのは、斜め前の席になった女子だった。名前はたしか、佐伯さん。明るくて、友達が多くて、けっこうクラスの中心にいるような子だ。
「あ、うん。よろしく」
僕は少しだけ頭を下げて、いつもどおりの笑顔をつくった。大丈夫。こういう場面は慣れてる。
必要以上に深入りせず、でも波風立てないようにうまく振る舞う。それが僕のスタイルだ。
けれど、水月さんは――。
ちらりと、彼女のほうを見ると、ちょっとだけ視線が交わった。けどすぐに、彼女は窓のほうを向いてしまった。
なんだろう、この胸のあたりのざわざわ。
それから、数日が過ぎた。
新しい席にも慣れてきて、クラスの空気もほんの少しだけ変わったような気がする。
僕が佐伯さんと話してるのを見て、何人かの女子も話しかけてきたりして、いつの間にか、今までより少し目立つようになっていた。
そして今日――それは、美術の授業でのことだった。
「今日は、好きなものを描いてください」
美術の先生の言葉に、クラス中がいっせいに「えー」とか「めんどくさー」とか言いながらも、各自スケッチブックを広げ始めた。
好きなもの、か。
僕は手を止めたまま、しばらく考える。
何を描こう。
特別好きなものなんて、すぐには出てこない。でも、筆が自然と動き出したのは――なぜか“あの人”の後ろ姿だった。
髪が肩にかかる感じとか、ちょっとだけ膨らんだ制服の袖とか。
教室の中で誰よりも静かなその存在が、気がつけば僕のスケッチブックの中にいた。
描き終えたころ、先生が僕の机の前で止まった。
「笹本……これ、お前が描いたのか?」
「はい」
先生はしばらく黙って絵を見つめ、それから口を開いた。
「……いいな。線がやわらかくて、空気が伝わってくる。教科書通りの描き方じゃないけど、これ、クラスで一番かもしれないぞ」
教室がざわついた。
「笹本くん、そんなに絵うまいの!?」
「見せて見せて!」
と、女子たちが僕のスケッチブックを覗き込んでくる。
「いや、そんな大したことじゃ……」
あわてて隠そうとするけど、もう遅かった。
絵を見た一人の男子が、思わず言った。
「え、これ……水月じゃね?」
一瞬、時間が止まったような気がした。
「え、ちが……たまたま、似ちゃって……」
なんとか否定するけど、言えば言うほど、空気が重くなる。水月さんの方を見たら、彼女は僕のほうを見ていなかった。
でも、顔は少しだけうつむいていて、その頬がほんのり赤く染まっているように見えた。
その表情が、なぜか、やけに頭から離れなかった。
放課後、水月さんは教室をすぐに出ていった。
追いかけようとは思わなかった。というか、行けなかった。
これはきっと、“僕”がしてはいけない領域に触れてしまったから。
だけど、次の日から――
水月さんは、ほんの少しだけ、僕との距離を取るようになった。
必要最低限の会話。視線は合っても、すぐに逸らされる。
その変化に気づかないフリをするのが、すごく苦しかった。
教室のざわめきの中で、僕は一人、静かに息を吐いた。
ほんの少し前まで、そこにあったはずの距離感が、いまはやけに遠く感じる。
気づいてしまった。
“僕”は、あの人のことを、ただのクラスメイトとして見ていない。
でも、たぶんそれは――恋じゃない。
だけど。
きっと、それ以上の何かだった。