知らない顔を、知りたくないのに
朝の風が、少しだけ冷たい。
蝉の声はうるさいのに、私は自分の心音ばかりが気になっていた。
靴箱の前で、ちょっとした騒ぎがあった。
「これ、落とした?」
小さく、でもはっきりとした声。
振り向くと、笹本悠人が、誰かのハンカチを指先で摘んでいた。
「え、あっ、うちのだ……ありがとう!」
相手はクラスの女子。前の席の子だ。
彼女がぱっと笑って受け取るその一瞬。
笹本くんは何か言うでもなく、曖昧に目をそらしていた。
……なんだろう、その表情。
まるで、「見られてはいけない何か」でも隠すような。
「ささもっちゃん、ありがとー!」
女子の軽い声が背中を打った。
ささもっちゃん?
呼んだのは、また別の子だった。
知らないあだ名。知らない距離感。
知らない“彼”がそこにいた。
私は声をかけなかった。
というより、かけられなかった。
教室に戻る途中、彼が私の横をすれ違った。
いつも通り、少しだけ下を向いて歩いている。
でもその姿が、今日は少しだけ、遠かった。
⸻
「じゃあ、次は二人組でストレッチ!」
体育の先生の号令とともに、ざわめく体育館。
床の照り返しがまぶしくて、私は思わず目を細めた。
「女子と男子でペアになってくださーい! あ、固定メンバーはナシねー!」
その言葉に、教室ではまず見ない種類の緊張が走る。
私は密かに隣を見た。……でも、笹本くんはすでに、他の子に声をかけられていた。
「一緒にやろ、ささもっちゃん!」
さっきの子だ。
あだ名で呼ばれて、当たり前みたいに笑いかける彼女。
そして、その誘いを特に否定もせず、うなずいた彼。
私は別の女子に声をかけられ、そのまま流れるようにペアになった。
でも目は、勝手に笹本くんを追っていた。
ストレッチが始まる。
手を伸ばす。肩を押す。背中に触れる。
――その手が、彼の肩にふれたとき。
彼は驚いたように一瞬だけ身をすくめた。
けれど、それでも反応は薄いままだった。
表情も変えず、ただ言われるまま、身体を倒す。
「思ったより、柔らかいんだね、笹本くん」
彼女の声が響く。彼女は小柄で、小動物のような可愛い顔をしている。
近い。近すぎる。
……べつに、そんなこと。どうでもいいはずなのに。
私は知らない感情に喉を詰まらせる。
つまらない。くだらない。だけど、気になって仕方がなかった。
「水月さん、次、お願い!」
ペアの子に呼ばれ、私は笑顔を作った。
――多分、少し引きつっていた。
体育が終わる頃には、汗よりも心が疲れていた。
笹本くんは、また教室の隅で静かに座っていた。
見慣れたその背中に、さっきの“他人”の気配が残っている気がした。
私は窓際の席に戻り、窓の外を眺めた。
光の粒がゆらゆらと踊っていて、どこか幻みたいだった。
なんでだろう。
べつに、私には関係ない。
関係ないのに、心がざわつく。
――まるで、知らない誰かに“彼”を奪われるような。
私は頭を軽く振った。
そんなの、おかしい。ばかみたい。
だけど、胸の奥はずっと、重たいままだった。