雨の帰り道、少しだけ縮まる距離
放課後の廊下には、しとしとと雨の匂いが漂っていた。
教室の窓を叩く音が、いつもより遠く感じるのはなぜだろう。
私は鞄を肩にかけたまま、教室の出口で立ち止まる。
――あ、傘。
昇降口のロッカーに置いたままにしていたのを、すっかり忘れていた。
今さら気づいても遅いけれど、誰かに借りるという選択肢は、私にはなかった。
誰かに甘えるのが苦手なだけ。
それを「高嶺の花ぶってる」と言われるのは、少し理不尽だと思っている。
「……まあ、走ればどうにかなるかな」
小さくつぶやいて、昇降口へ向かう。
思った通り、外は本降りだった。灰色の空の下、制服のスカートが風に揺れる。
ポツポツというレベルではなく、地面にはもう小さな水たまりができ始めていた。
靴を履き替え、肩をすくめて、意を決して一歩を踏み出そうとしたときだった。
右側から、ふわりと視界に差し込んできたものがある。
白と青のストライプ柄。少し古びていて、骨の一部が歪んでいる。
それは、誰かの傘だった。
差し出されるように、さりげなく、私の方へと寄せられている。
「……」
私は言葉を飲んだ。
そして、その傘の持ち主を視線でたどる。
「笹本くん……?」
そこにいたのは、クラスで特に目立たない、でもなぜか印象に残る男子。
地味な黒髪。無表情でも、どこか優しげな目元。
話したことは、ほんの数えるほど。
それなのに、なぜだろう。こんなときに、彼が現れるなんて。
「……傘、忘れたんだね」
笹本くんは、静かに言った。
でもそれは、問いかけではなかった。
あくまで状況を認識した、という風に。
私は一瞬、迷った。断る理由を探した。でも――
「……うん。忘れたの」
素直に認めてしまった自分に、少し驚いた。
それ以上、彼は何も言わなかった。
ただ、傘をこちらにぐっと寄せるようにして、私が入りやすいように少しだけ身体を傾けた。
沈黙が降りる。
言葉のない優しさは、ときに言葉以上に重たい。
どうして私は、彼のこのさりげない行動に、こんなにも戸惑っているんだろう。
私は小さく息を吸って、その傘の中へと滑り込む。
距離は、思っていたよりも近かった。
「……ありがとう」
ようやく声に出せたとき、笹本くんは目を合わせずに、ただ「うん」とだけ応えた。
その横顔は相変わらず静かで、無口で、でもどこかほんの少し、恥ずかしそうだった。
学校の坂道を、ふたりでゆっくり歩く。
傘の中に広がる空気は、妙にあたたかくて、呼吸が少しだけぎこちない。
「……」
なにか、話さなきゃ。
でも、何を話せばいいのかが分からない。
こんなにも近くにいるのに、まるで距離が測れない。
「いつも……こうやって、誰かに傘、貸してるの?」
私がそう聞くと、笹本くんは小さく首を振った。
「いや……水月さんが、帰れなさそうだったから」
「……そっか」
なんでもない一言なのに、胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。
なんだろう、この感じは。
私は、彼の名前を呼ぼうとした。
でも、口から出たのはまた違う言葉だった。
「……髪、ちょっと濡れてるよ」
「うん。水月さんも」
ふたりとも、苦笑した。
些細な会話。それだけなのに。
雨の音が、心の中で静かに響く。
やがて、交差点にたどり着く。
私と彼の家は、反対方向。
私は小さく頭を下げた。
「ここで、ありがとうね。助かった」
「うん」
そう言って、彼は傘をこちらに押しつけるようにしてから、くるりと背を向けて走っていった。
……それだけ。
たったそれだけの出来事。
それでも、私はその傘を見つめながら、
なんだか自分の心の中に、なにかが少しだけ変わったような気がしていた。
雨はまだ止まない。
でも、その帰り道は少しだけあたたかかった。