秘密を持った笑顔
水月さんが、僕のことを知っている。
ただそれだけの事実が、いつまでも頭の片隅に居座っていた。
気にしないようにしても、意識は勝手に彼女を探している。
視線の先にいるのは、いつも通りクラスに馴染む水月さんだった。
誰にでも優しく、冗談も交えながら、少しお姉さんのような空気で周囲と接している。
……けれど、僕が近づくと、雰囲気が変わる。
「おはよう、笹本くん」
今朝もそうだった。
挨拶ひとつにしても、僕に向ける声は、他の人とどこか違う。
語尾が尖っていて、目線はあえて合わせないようにしている。
「……おはよう、水月さん」
僕は、なるべく普通の声で返した。
必要以上の感情を含まないように、息を整えて。
だけどその直後、水月さんの横顔がふっと緩んだ気がした。
わずかに唇が持ち上がる。
……笑った?
他の誰も気づかない、わずかな変化。
僕にしか見えないかもしれない、秘密の表情。
なんで僕にだけ、こんな態度を取るのか。
嫌われてるのか、それとも──そうじゃないのか。
分からない。
でも、知りたくなっている自分がいる。
目立つのが嫌だったはずだ。
誰にも気づかれずにいたかった。
平凡で、静かで、余計な摩擦のない毎日が一番いい。
けれどそれは、「逃げてるだけじゃないのか」って、
たまに心の奥で声がする。
……そういうの、ちゃんと分かってるつもりだ。
それでも僕は、僕なりに選んでる。
ただの傍観者でいたいわけじゃない。
巻き込まれるくらいなら、自分で立ち位置を決めたいだけだ。
* * *
放課後。
帰り支度をしていると、水月さんが僕の席の近くに来た。
手に下げた鞄を軽く揺らしながら、ふと立ち止まる。
「ねぇ、笹本くん」
呼びかけは、いつも通りすこし棘のある声。
「今日の問題、答え言わなかったのって、また目立ちたくなかったから?」
僕は一瞬、答えに詰まった。
だけど、否定する理由もない。
「……うん」
すると、水月さんは鼻で笑った。
けれどその目は、真っ直ぐ僕を見ていた。
「変な人」
「よく言われる」
軽く返すと、水月さんはなぜか満足そうに目を細めた。
その笑顔には、あの“誰にでも向ける優しさ”は含まれていない。
「──でも、私はそういうとこ、嫌いじゃないよ」
そう言い残して、彼女は教室を出て行った。
髪が揺れて、光を反射する。
僕はただ、ぽかんとその背中を見送っていた。
「……あの人、なんなんだ」
名前のつかない感情が、胸の奥に小さく溜まっていく。
それがいつか溢れ出すのだとしたら、
そのとき僕は──どうなるんだろう。