秘密を知っている、彼女
僕は目立たない。
……いや、目立たないようにしている。
教室で発言するときは、答えをちょっとだけ間違える。
テストの点も、85点が取れそうでも75点で止めておく。
スポーツだって、真剣にやればもう少し目立てるけど、
別にすごい実力があるとかそういうのじゃない。
「ちょっと動けるけど、地味なやつ」くらいの位置がちょうどいい。
それくらいの“空気感”が、僕にとっては居場所だった。
誰にも干渉されず、誰かに期待されず、気楽で静か。
正面から誰かとぶつかるほど、僕は強くないから。
──そう思っていた。
「……あんた、わざと間違えたでしょ」
放課後、昇降口。
靴を履こうとしていた僕の後ろから声がして、僕はびくっと震えた。
振り返ると、そこには水月紗夜がいた。
長い黒髪と、淡い光を含んだ瞳。
整った顔立ちと、どこか冷めたような口調。
でも誰にでも分け隔てなく優しい──僕以外には。
「……え? 何の話?」
曖昧に笑って返すと、彼女は目を細めた。
まるで何かを見透かすような、強い視線。
「今日の授業。あれ、正解だったんじゃないの? わざと外したでしょ」
……バレてた。
普通、あれで気づく人なんていないはずなのに。
「当たりすぎると、目立つから」
言い訳のつもりじゃなかった。
でも、それはまるで呆れる隙もないような本音で。
彼女の眉がピクリと動いた。
「なにそれ。バカみたい」
小さく吐き捨てて、彼女はくるりと背を向けた。
そのまま靴音を鳴らして昇降口を出ていく。
僕は動けなかった。
心の中に、何かを突かれたような感じがして。
……嫌われてるんだろうな、僕。
だけど。
最後に見た彼女の横顔は、怒っているようで、
どこか、ほんの少しだけ──楽しそうにも見えた。
* * *
翌朝。
教室に入ると、空気の濃度が微かに違っていた。
何か、ざわざわとした気配がある。
僕のような“空気”には、少しだけ不安になる空気。
席に向かおうとしたとき、後ろから声が飛んできた。
「笹本くん、昨日の答え、本当は合ってたんでしょ?」
──またか。
一瞬で脳内に“彼女”の顔が浮かぶ。
「水月さんが言ってたよ。“あの子、絶対わざと間違えた”って」
視線を感じて、ゆっくりと振り返る。
窓際の席。
淡い朝日が差し込む中、彼女がこちらを見ていた。
その瞳には、冷たさも優しさもなくて、
ただ一つ、“知っている”という光だけがあった。
そして、ほんのわずか──誇らしげに、笑った。
それは他人に見せるような笑顔じゃなかった。
クラスメイトには決して見せない、秘密の表情。
“秘密を知っている”って、ずるい。
今、この教室で、
彼女は僕を「見ている」。
そのことが、思ったよりずっと、胸の奥に響いた。
──でも、それが恋だなんて、そんなのあるわけない。
この感情は、まだ知らないふりをしていたい。
名前なんてつけたら、崩れてしまいそうだから。