第1章:愛の罪 (名前は)
鳥の声が、遠くの森から重なり合って聞こえてくる。
ジールはゆっくりと目を開けた。天井の木目がかすかに揺れているのは、風が吹いているせいだろう。
小屋の中はまだ薄暗く、朝の冷たい空気が頬に触れる。
火はとっくに消えている。昨夜、早くに眠ってしまったのを思い出した。
「……もう朝か」
低くつぶやいて、彼は体を起こした。
まだ赤子は布団に包まっていた。
小さく丸まったその姿からは、寝息すら聞こえない。
「やっと起きたのね」
かすかな声が、ジールの眠気を引き裂く。ミリュエルだ。
「あ、おはよう……」
ジールは少し気まずそうに答えた。目を合わせるのがどこか落ち着かない。
ミリュエルは木の実と水瓶を両腕に抱えて、小屋の入り口に立っていた。
まだ目元に眠気を残したまま、ため息のように言葉を落とす。
「薪、とってきてもらえるかしら」
「……わかった」
ジールは布団から体を起こた。外はまだ薄暗く、白んだ空の下に、湿った森の匂いが広がっていた。
昨夜のやり取りが、頭の隅で繰り返される。
ミリュエルの言葉。あの視線。
それはどこか、呆れと期待が混ざったようなものだった。
(本当に……自分が育てる必要があるのか?)
選びかけた薪を、一度手にしたまま止める。
人間の町や村に預けることはできないのか――
そんな考えが、また頭によぎる。
小屋に戻ると、ミリュエルは火の前にしゃがんでいた。
顔は見えないが、黙ったまま手を動かしている。
何か言うべきか迷ったが、言葉が出てこない。
ジールは火の近くに薪を置き、赤子の様子をうかがった。
「名前、決まった?」
「え、まだ、」
突然の問いかけにジールは少し驚きながら答えた。
「そう、あなたが育てるならちゃんと決めてあげなさい」
優しくそう言うミリュエルに対してジールは少し迷っていた。
「なぁ、本当に俺が育てた方がいいんだろうか、人間に預けた方がこの子は…いやなんでもない…」
そう言うとミリュエルは黙り込み、視線を少し下した。
(あなたが育てるべき――そんなことは、どうしても言えない。)
あまりにも無責任すぎる気がした。
昨夜、あれだけきつくあたってしまった自分を思い返す。
彼は間違ってはいなかった。
誰だって、それくらいは分かっている。
けれど、この世界がそれを許さないのだ。
竜族は強大な力を持っていたため、他のどの種族にも受け入れられなかった。
その反発から、多くの種族が互いに争い、時に襲い合ってきた歴史を、ミリュエルは知っている。
だからこそ、彼女は竜族が人間を助けようとしたあの姿に、心から感動を覚えたのだった。
でもだからこそ…
「うーん、うーん……ぎゃああん!」
彼女の思考を切り裂くように、大きな泣き声が響いた。
まだ小さな体を震わせて、布団の端からじたばたと動く。
とっさに駆け寄り、赤子を抱きかかえるジール。
「……少し、重くなったか」
「そうかもね。その子、よく食べるから」
「腹空かせちまったよな……」
、ミリュエルは一瞬だけ目を伏せた。
ジールがそう優しく笑うのを見て
「育てていいのかは……私にはわからない。でも、あなた……父親、向いてると思う」
その声は少し震えていて、語尾は小さく消えていった。
「……なんか言ったか?」
「……ううん、なんでもない」
なんとも言えない空気の中、ミリュエルは朝食の準備を終えた。
一口食べると、じんわりと優しい味が広がり、体に力が戻っていくのを感じる。
「どう?」
その声には、少しの期待と不安が混じっていた。
「うん、うまいよ!」
「……よかった」
ミリュエルはほっとしたように小さく笑った。
ジールはここ最近、まともな食事をとれていなかったせいか、とてもうまく感じた。
「ねぇ、昨日は……その、ごめんなさい。」
突然の謝罪に、ジールは目を見開いて驚いた。
「私は……あなたの気持ちをちゃんと考えられてなかった。あなたの覚悟とか、苦しさとか……全部、無視して、私のことばっかりで、責めてしまって……」
ミリュエルは珍しく言葉を探すように視線をさまよわせ、戸惑っている。
”私のことばっか”その言葉に少し引っ掛かり、なにかあったのか──そう思ったが、今はそれを問いただすのは違う気がした。
「おまえは悪くないよ。それに……これは俺が決めたことだ。」
ジールは少し間を置いて言葉を選ぶように続けた。
「俺、頭よくないから、おまえみたいに全部ちゃんとは考えられてなかった。それに、昨日は感情的になって怒鳴っちまった。……ごめん。」
そう言って、ジールは立ち上がり、真正面からミリュエルを見つめた。
ふふっ……うふふ……
突然、ミリュエルの笑い声が小屋の中に響いた。ジールはまたしても驚いた表情を見せる。
「ごめんなさい……でも、なんだか安心したの。」
ミリュエルは微かに滲んだ涙をそっと拭い、少しだけ笑顔を浮かべた。
赤子もつられてか笑みを浮かべていた。
ジールは一瞬、赤子を見つめた。
まだ何も知らず、無防備に眠るその小さな顔。
心の奥にしまっていた何かが、静かに揺れた。
「……ちょっと、いいか」
「ん、なに?」
改まった様子でジールが言った。
「“レイ”って、どうかな」
「え?」
「名前。レイにしようと思ったんだけど――」
少し照れたように、けれど真剣な眼差しでジールは言葉を続けた。
「この子、俺にとって…光みたいだったからさ。闇の中にひとつだけ、まっすぐに射してきた。」
ミリュエルは驚いた顔をして、それからふっと笑った。
「ジールって、詩人だったっけ?」
「……うるせえよ」
少し顔をそらしながらも、ジールは口元だけ笑っていた。
「でも、いい名前だと思う」
「そうか」
二人の間に、ほんの少しだけ静かな時間が流れた。
ミリュエルがぽつりとこぼすように言った。
「名前があると…ちゃんと生きてるって感じするね」
「……ああ。だから、俺は…この子をちゃんと育てる。責任、取るよ」
「ふふ。じゃあもう"お父さん"って呼ぼうかな?」
「やめろって」
ミリュエルの笑い声が、さっきまでのもやもやを吹き飛ばすように、空気を軽くした。
ジールはある作業に取り掛かっている。
そうだ、家の修理、いや新しい家を建てていた。
(あの女、なめやがって)
あれは朝食後のことだった。
彼女はこう言った。
「家を建てる代わりに、少しの間ここで過ごしていいわよ」
正直、そんなうまい話があるとは思わなかった。
俺はともかく、あの子にとっては、安定した衣食住こそが何より大切だ。
俺ひとりじゃ、ちゃんと育てきれる自信なんて、正直なかった。
――あのとき、もしかしたら一緒に死んでいたかもしれない。
だからせめて、あの子が大きくなるまでの間だけでも、ここで過ごさせてもらおう。
そんなことを考えながら、ジールは作業をしていた。
一方そのころ、ミリュエルはレイと共に、森の川辺にいた。
「レイ、いくよ」
ミリュエルは手を前に差し出し、柔らかな声で唱える。
「清き流れよ、心をなでて潤せ。しずく一粒、命を育む。水精たちよ、優しき波をここに――アクアリーネ」
指先から淡い光が花のようにほころび、水が花びらのように宙に舞う。空気が静かに震え、優しい雨が、ふわりと降り注ぐ。
レイはくすぐったそうに手を伸ばし、水の粒を掴もうとしてと、笑顔を咲かせた。
「そうだ。レイにも魔法教えてあげる。どんなのがいいかな。」
ミリュエルはそう言って、レイと一緒に小屋へ戻った。
彼女は棚から魔導書を取り出し、ページをめくりながら読み聞かせを始めた。
ジールが戻った頃には、空はすっかり赤く染まっていた。
「って、寝てるし……」
二人は、魔導書を開いたまま、並んで床で寝入っていた。
「はぁ……まったく。……って、これ、魔導書か? 人間に読んでも意味ないだろうに。」
「そうでもないよ。人間だって、魔法を使える時代が来る。」
――起きてたのかよ。
ミリュエルはどこか自信ありげに、まっすぐこちらを見つめてそう言った。
確かに、人間が魔法を使えないわけじゃない。だが、それはほんの一部の才能ある者に限られる。しかも、人の寿命は竜族よりもずっと短い。
たとえレイに魔法の才能があったとしても、「人類が魔法を使える時代」なんて、到底信じられない。
「この子ね、私の魔法を見て、すっごく楽しそうに笑ったの。」
ミリュエルの目が細まり、どこか誇らしげに微笑む。
彼女の表情からは、これから何かが始まる――そんな期待がにじんでいた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。これからはできる限り週1で投稿していきたいです。
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