第六章 偽りの都ファルセリア
―― 仮面の都 ――
王都ファルセリアへの道は、やがて硬い石畳に変わっていった。山間の村を出てから幾日、ヴェリタスとノイラは長い旅路を共にしていた。森と川、丘陵地帯を越え、ようやく王都の外縁に至った時、そこに広がっていたのは、彼らの想像をはるかに超える巨大な人の営みだった。
農夫たちが広大な畑を耕し、荷馬車に揺られる巡礼者の一団が、神々の紋章を刻んだ旗を掲げながら静かに進む。その脇を、騎馬に乗った兵士たちが威風堂々と行き交い、道ばたには露店が並び、子どもたちの笑い声と商人たちの叫び声が交錯していた。
「……すごい、人の波だね」
ノイラがつぶやく。
「これが、都か……」
ヴェリタスも言葉を失っていた。
二人の目の前に、城壁がそびえていた。薄灰色の石で築かれたその壁は、まるで山脈のように大地を断ち切り、その先にある世界を拒絶しているようだった。城壁の上には鋭い槍のような装飾が連なり、監視台からは常に兵士たちが睨みをきかせている。
正門には、長蛇の列ができていた。農夫、商人、旅人、信者……その一人一人に兵士が声をかけ、名前と目的を尋ね、時には荷物の中身を調べる。誰もが従順に、それを受け入れていた。
「……歓迎されてる感じは、あまりしないね」
ノイラの声が、どこか乾いていた。
兵士とのやり取りは事務的で、冷たい。彼らが神殿の書簡を見せると、やっとのことで通行を許された。
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
石畳の道は広く、両側には壮麗な建築物が立ち並ぶ。黄金のドームを戴いた神殿、白い石造りの貴族の館、精巧な彫像が並ぶ噴水広場……その全てが、まるで絵画のように整っていた。
だが――。
そこには不気味な静けさがあった。喧騒は確かにある。だが、人々の顔には笑顔がなく、どこか仮面をつけているような均質な表情が浮かんでいた。露店の店主たちはよく通る声で客を呼んでいるが、声には熱がなかった。子どもたちは遊んでいたが、時折、大人たちに睨まれると、一瞬で沈黙した。
「ここ……何かがおかしい」
ノイラが立ち止まり、足を止めた。
彼女の視界の端に、奇妙なものが映った。神殿の方角に向かって歩く巡礼者たちの足首から、黒い糸のようなものが地面に吸い込まれている。よく見ると、それは糸ではなく――鎖だった。
透明で、闇のように冷たく重い“何か”が、人々の足元に絡みつき、神殿へと導いていた。誰もそれに気づかない。ただ歩く。ただ祈る。ただ従う。
(これは……見えてはいけないもの)
ノイラの喉が乾く。
一方、ヴェリタスは別の感覚に囚われていた。
城壁の内側に足を踏み入れてから、ずっと胸の奥がざわついている。神殿の尖塔を見上げたとき、不意に強烈な既視感に襲われた。
(来たことなんて、ないはずなのに……)
そのくせ、すべてがどこか懐かしい。いや、「覚えている」というよりも、「忘れさせられたものを思い出しそうな」奇妙な感覚――。
神殿の前で、ふと風が吹いた。神殿の入り口に掲げられた巨大な布幕が揺れ、その奥にある巨大な石像が垣間見えた。
その瞬間、ヴェリタスの背に冷たいものが走った。
それは神を模した像のはずだった。だが――その顔は、どこか“怒り”を含んだような歪みを持っていた。優しさも威厳もなく、ただ、見下ろすような視線だけが鋭く突き刺さる。
ノイラも、その視線に気づいた。
「ヴェリタス……神殿、入る前に、少し考えた方がいいかもしれない」
「……ああ。そうだな」
そのとき、背後から馬の蹄の音が響いた。振り返れば、漆黒のマントを羽織った騎士が馬を駆って通りすぎていった。一瞬、鋭い目がこちらを見た気がして、ヴェリタスは眉をひそめる。
それが、後に仲間となる騎士――ドゥラニエルとの最初の接触だった。
しかし今の彼らには、それが“運命の始まり”だとは知る由もない。
神殿の扉は巨大だった。白大理石と青鋼で象られたその扉は、陽光を受けて微かに輝いていた。ヴェリタスとノイラが近づくと、左右に立つ衛士たちが無言で道を開いた。
中に入ると、外界の喧騒はまるで幻だったかのように消えた。空気が重い。光はあるのに、どこか薄暗く感じられる。高い天井には精緻な神々の壁画が描かれ、無数の蝋燭が壁際の燭台に灯されていた。
彼らを出迎えたのは、白い法衣を纏った中年の神官だった。整った顔立ちに薄い笑みを浮かべていたが、その目は笑っていなかった。
「遠き辺境よりよくぞお越しくださいました、選ばれし者よ。……神の祝福を」
神官の言葉は丁寧だったが、どこか芝居がかった響きがあった。ノイラは微かに眉をひそめ、ヴェリタスは口をつぐんだまま一礼だけを返した。
神官の案内で、彼らは神殿の奥へと進んだ。回廊を抜けた先には、祈祷の間と呼ばれる円形の広間があった。中央には一段高い台座と、そこに立つ大理石の神像。神像は腕を広げて空を仰いでいたが、どこか哀しげな顔をしていた。
「ここで、あなた方の“未来の道”が開かれます」
神官がそう告げた時、ノイラの心に冷たい予感が走った。
――これは、ただの祈りではない。
彼らは神像の前に立たされた。そして法衣の女神官たちが周囲に並び、神聖文を唱え始める。淡い光が床から浮かび上がり、祈祷の儀が始まった。
ノイラの身体がふわりと浮き上がるような感覚に包まれた。その瞬間、彼女の視界が白く染まった。
(……見える。未来が……!)
炎に包まれる森。剣を振るう自分。誰かを守って叫ぶ声。倒れ伏す仲間――そして、ヴェリタスの姿が、すべての中心に立っていた。
だが、その目は真っ赤に染まっていた。まるで神ではなく、“何か別のもの”がそこに宿っているような、底知れぬ力の奔流を感じた。
視界が戻ると、ノイラは肩で息をしていた。
「……すごく、強い……力が……」
女神官が彼女に薄く笑みを浮かべた。
「未来とは、常に多面性を持つもの。どの道を選ぶかは、神の導き次第です」
次に、ヴェリタスが神像の前に立たされた。再び文が詠まれる。しかし――
何も起こらなかった。
光も、浮遊も、未来の幻視も、なにも。
その静寂が逆に場を支配した。女神官たちが互いに目を交わし、ざわつき始める。だが、ヴェリタスの表情は揺るがなかった。彼自身、わかっていたのかもしれない――これは、自分の中にある“何か”が影響しているのだと。
ノイラが一歩前に出る。
「おかしい……私には見えました。彼の中に、すごく……大きくて、荒れ狂うような力が――」
その時だった。天井の隅、誰にも気づかれないように仕込まれた精霊の紋章が、微かに黒く輝いた。それをノイラだけが見た。否――見えてしまった。
(……これ、は……鎖?)
神像の足元に、黒い鎖が絡まっていた。まるで神自身が“何か”に縛られているように。
(いや、違う……これは……)
ノイラの目には、神官たちの背後にも同じ黒い“束縛”が見えた。彼らの足元から、黒い鎖が神像へと伸びている。
(……神を崇めているんじゃない。神に縛られている……?)
目の前の神像の表情が、さらに深い悲しみに変わったように思えた。
儀式は何事もなかったように終わりを告げた。神官は静かに告げる。
「……特別な結果が出なかったとしても、それは神の意志のひとつ。気にすることはありません」
その声は、どこか冷たかった。
---
その晩、ヴェリタスとノイラは神殿から離れた旅人宿に泊まることにした。古びた木造の建物だったが、部屋は清潔で、静かだった。だが、二人の心は穏やかではなかった。
宿の窓からは、夜のファルセリアの街並みが見えた。灯火のように輝く建物たちが美しい一方で、その下に流れる空気はどこか淀んでいた。遠くの塔の上に、小さな影が浮かんでいた。監視か、それとも――
「……何も起こらなかった、って言ってたけどさ」
ノイラが静かに口を開いた。「嘘、だよね」
「……ああ。何かが……起きた。けど、それはきっと……“見せてはいけないもの”だったんだ」
ヴェリタスの目が、静かに月を見上げていた。
「俺、自分のことがわからない。なぜこの都が、あんなにも懐かしく感じるのかも……」
ノイラはふと、彼の横顔を見つめた。
「でも、きっと意味がある。だって私には……見えたから」
沈黙が落ちる。
ファルセリアの夜は、美しく、そしてどこまでも嘘に満ちていた。
別れの朝と迫る影
夜が明け、ファルセリアの空は灰色に染まっていた。雲間から微かな朝日が覗くが、その光はどこか鈍く、まるで都そのものが夜を手放すことを拒んでいるかのようだった。
ヴェリタスとノイラは宿の食堂で簡素な朝食を取っていた。干し肉と黒パン、少しの果物。味気ないはずの食事だが、ノイラは無言のまま、それでも手を止めずに口へ運んでいた。
食堂の窓から見える通りには、人々がもう動き始めていた。荷車を引く男、急ぐ商人、笑いながら駆ける子どもたち――。だが、その一角で、道の隅に立ち尽くすフード姿の人物が、じっと宿の方を見ていた。顔は見えない。が、その視線だけは、確かに二人へ向けられていた。
ヴェリタスは気配を感じてそちらを見やるが、次の瞬間にはその影は人混みに紛れて消えていた。
「……見られてた?」
「……多分、ね。でも、追ってくるなら都の外だ」
ノイラはコートの襟を立て、荷を背負いなおした。
「ヴェリ、決めたよ。私は……この旅を続けたい。あなたと一緒に」
彼女の声は震えていたが、瞳には確かな意志が宿っていた。
「ありがとう、ノイラ」
ヴェリタスは小さく頷き、彼女の手を握った。
二人は宿を後にした。神殿には戻らなかった。代わりに、裏通りを抜け、都の東門へと向かう。まだ朝も浅いというのに、門の前にはすでに幾人もの旅人が列を成していた。
だがその中に、一人、異質な男がいた。背は高く、厚手の旅装束の上に銀の装飾が施されたプレートメイルを纏っていた。鋭い眼差しは旅人たちではなく、東の大地を見つめていた。
(……あれが、ドゥラニエル)
ノイラは心のどこかで確信していた。これから出会うことになる騎士――不屈の守護者、その名を持つ男の姿を。
門が開く。
旅は、ここから本格的に始まる。
だが、二人の背後には、もう一人の影があった。神殿の高楼から、白い法衣を纏った人物が彼らの背をじっと見つめていた。唇の端が、不気味に吊り上がる。
「……始まったか、“鍵”たちよ」
そして、都の地下。祭壇の奥で静かに眠る一冊の黒き書――それが微かに震えた。