第十三章「封じられし記憶の森」後編
霧が森を覆うように濃くなり、空気は急にひんやりと冷たさを帯びていた。
木々の葉が風もないのに微かに揺れ、耳に届く音は自分たちの足音と、どこからともなく響く不思議な囁きだけだった。
封印された扉は、巨大な樹の根元に埋め込まれるようにして存在していた。古代文字が刻まれた石板が何枚も周囲に散らばり、中央にはかすかに光を放つ円形の紋章が刻まれていた。
「これは……古の精霊封印術式。かなり高度なものね」ノイラが石板に手を翳し、額に汗をにじませながら呟いた。
「解けるのか?」ヴェリタスが後ろから問いかける。
「……解くというより、“応える”必要がある。試されてるのは、私たちの記憶と、心の強さ」
ノイラの手が紋章の中心に触れた瞬間、柔らかな光が森全体に広がった。
空気が震え、視界が揺らぐ。そして――
世界が変わった。
四人は、いつの間にか“白い世界”の中に立っていた。
足元に草も土もなく、空は灰色の雲に覆われていた。だが、音は確かにあった。心の奥底に響くような、言葉にならない感情のざわめき。
「ここは……記憶の中の場所……?」リューシャが不安げに周囲を見渡した。
「いや、これは“精霊の記憶領域”だ」ドゥラニエルが前へ出る。「人の記憶と、精霊の記録が交差する場だ。……気を抜くな、心の隙を見せれば、飲み込まれるぞ」
その言葉の直後、霧の中から人影が現れた。
最初に動いたのはノイラだった。彼女の目の前に現れたのは――あの村の神官たちだった。
「災いの子……この地を穢すな」
「お前が現れたから、火が起きたのだ」
「神の声を語る者に罰を」
罵声は幻であるとわかっていても、心の奥に染み込むように響いてくる。
ノイラは唇をかみ、肩を震わせた。
(もう終わったこと……もう、乗り越えたはず……なのに)
だがそのとき、後ろから誰かがノイラの手を握った。
振り返ると、リューシャが無言で彼女を見つめていた。
「……私のために剣を振るってくれた人がいる。優しい手を、差し伸べてくれた人がいる。それだけで、十分……」ノイラは静かに呟いた。
幻影は、静かに霧の中に消えていった。
次に現れたのは、ドゥラニエルの前だった。
かつての騎士団の仲間たちが、血まみれで倒れている。少女を守ることができなかった後悔。
自らが信じた正義が、結果として守るべき命を奪ったという罪悪感が、幻の姿となって現れていた。
「お前は、誰も救えなかった……」
「聖騎士?笑わせるな。名ばかりの剣に何の意味がある」
「あの少女を、見殺しにしたくせに」
(……そうだ。俺はあのとき、何もできなかった。だが――)
ドゥラニエルは剣を抜いた。そして、虚空に向けて静かに構えた。
「俺の剣は、罪を償うためのものだ。守れなかった命の重さを、忘れないために振るう。それが、今の俺の誓いだ」
その一閃と共に、幻影は霧に溶けていった。
そして、ヴェリタスの前に現れたのは――神々だった。
「お前は選ばれし者……だが、その力は世界を壊す」
「その血は、災いを招く」
「我らの意志に背くというのか?」
「なぜ、人のために……?」
声が四方から響く。
ヴェリタスは立ち尽くしていた。
胸の奥に、“神に愛されていたい”という感情と、“神に操られたくない”という怒りが交錯していた。
(俺は……選ばれた。でも、それは“操られるため”だったのか?)
彼の中で、何かが静かに崩れ、そして再び築かれていく。
「俺は……神のために生きない。人のために生きる。ノイラのために、仲間のために。……俺自身の意志で、世界を見極める」
その声に反応するかのように、神々の幻は砕け、光となって霧に散った。
それと同時に、森の景色が戻ってきた。
だが、その中心に――ひときわ大きな精霊の姿が立っていた。
忘却の精霊。
羽根を持たず、淡い銀の光をまとうその姿は、老人のようにも、幼子のようにも見えた。
その瞳は、何千年という時の重みを宿していた。
『試練を超えし者たちよ。記憶を捨てぬ者たちよ。汝らに“真実への鍵”を授けよう』
精霊の言葉と共に、大地が震えた。封印されていた扉が開き、その奥から浮かび上がるようにして一枚の“光の地図”が現れた。
それは、“隠された聖域”の在処を示すものであり、この世界の真実に繋がる道しるべだった。
「これが……道標」ノイラが呟いた。
「次はここを目指すことになるな」ドゥラニエルが真剣な眼差しで地図を見つめる。
「ここが終点じゃない。始まりだ」ヴェリタスが、静かに拳を握った。
そのとき、リューシャの背に、淡く“精霊の羽”が現れた。
彼女の表情はどこか曇っており、光の気配に身を引くような仕草を見せていた。
ノイラがふと、それに気づいた。
(リューシャ……あなたも何かを隠しているの?)
だが、その疑問に答える時間はなかった。
霧が再び森を包み、封印の扉が静かに閉じていく。
彼らの旅は、次なる地へと向かって動き出していた。
光と闇が交差する運命の先に、未だ知られざる真実が待っていることを、誰もまだ知らないまま――。




