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第十三章 封じられし記憶の森(前編)

谷を越え、幾重にも重なる山裾を下った先に、深い霧を湛えた“古代樹の森”が広がっていた。昼なお暗い森は、密やかな気配とどこか神聖さを帯びた沈黙に包まれており、風の音すら葉のざわめきに吸い込まれてしまいそうだった。


「……ここ、本当に通るの?」


リューシャが不満そうに口を尖らせた。足元は湿った落ち葉に覆われ、歩くたびに靴が沈み込む。微かに香る花と腐葉土の匂いが混ざり合い、奇妙な甘さが鼻をくすぐった。


「こんなにじめじめしてて、なにか出そうな雰囲気よ?」


「逆に、こうした道を選ぶ者はいない。それだけ追手の目を逃れられる可能性も高い」ドゥラニエルが低い声で返す。彼の背には重厚な剣が揺れ、無言のうちにも警戒を強めていた。


ノイラは立ち止まり、大きな樹の幹にそっと手を触れた。


「……ここ、空気が違う。深くて、静かで、まるで誰かの夢の中に入ったよう」


彼女の言葉に、周囲の空気がわずかに震えたように感じた。耳を澄ますと、木々の間から小さな囁きが流れてくる。


『還れ……還れ……記憶の主よ……』


リューシャの肩がぴくりと跳ねた。「今……何か言った?」


「いや、誰も」ヴェリタスが短く答える。「ただの風……ではないな」


ノイラの瞳にかすかな光が宿る。空気の層が揺れ、その中に薄く透ける小さな光の粒が舞っていた。羽のような輝き――それは、精霊の現れ。


「精霊が……この森には、まだ残っている」


道なき道を進みながら、一行は森の奥へと踏み込んでいった。


陽の光は枝葉にさえぎられ、地面にはほの暗い影が広がっていた。苔に覆われた倒木や、何百年も生きていると思しき巨木が行く手を塞ぐ。所々に咲く淡い青の花々が、霧の中で幻想的に揺れていた。


「この花……“ルセリナ”だわ。精霊が好む花って言われてる」ノイラが小声で呟いた。


リューシャは辺りを見回しながら腕を組む。「ここ、本当に“ただの森”なの……?」


ヴェリタスは沈黙を守っていたが、不意に立ち止まった。目の前に現れたのは、半ば崩れた石の祠だった。苔とツタに覆われたその姿は、まるで森に溶け込むように佇んでいる。


祠の奥には、光を放つ石の台座があった。そこに置かれていたのは、一振りの古びた剣だった。


「これは……」


ヴェリタスが呟き、剣に手を伸ばした瞬間、視界が一気に白く染まった。


――まるで夢の中。天上から降り注ぐ光、大理石の回廊、金の柱。


そこにいたのは、神々だった。柔らかながら威厳をたたえた声が降りてくる。


『我が子よ。力を持つ者は裁きを担う者なり』 『だが、その手は何を守るためにある?』 『選べ。破壊か、創造か』


声が交差し、重なり、そして割れた。


――意識が戻ると、ヴェリタスは再び祠の前にいた。剣は消え、彼の手には何もなかった。


「幻……なのか? いや、記憶……?」


ノイラがそっと近づく。「何が見えたの?」


「……選ばれし者の宿命。そのほんの欠片、だ」


彼の答えは短かったが、その声音には確かな動揺があった。


その時、ノイラの足元に一輪の白い花が咲いた。つま先に触れると、淡い光となって空へ昇っていく。


「……精霊が、何かを示してる」


ノイラは目を閉じた。瞬間、意識がどこかへと引き込まれていった。


彼女が見たのは、幼い自分だった。母の腕の中で笑い、村の広場を走る小さな自分。だが、次の瞬間には神殿が炎に包まれていた。


『神に見放された者』『災いの子』――そう罵られ、村から追われた日の記憶が甦る。


「これは……わたしの、過去……」


目を開けると、リューシャがそっと手を伸ばしていた。「……でも、あなたは今ここにいる」


ノイラは一瞬驚いたが、すぐにその手を握り返した。


「ありがとう」


その頃、ドゥラニエルは大樹の根元に刻まれた紋章に気づいていた。十字と光輪の組み合わせ――それは、かつての聖騎士団の紋。


「ここに……仲間がいたのか」


ふと脳裏に浮かぶのは、守れなかった少女の面影。自らの剣の無力さ、信じていた神の沈黙。心の奥底に封じていた記憶が、彼の胸を締めつけた。


その時、森全体に透明な音が響いた。


『訪れし者よ……記憶の重さを知れ……忘却の精霊は、お前たちを見ている』


空気が凍るように静まり返り、遠くから風を裂くような微かな鳴き声が届いた。


「試練が始まるのかもしれない」ヴェリタスが言った。


「……この先で、何かが目覚めようとしている」ノイラが続ける。


森の奥に続く獣道の先、薄く光る封印の扉が見えてきた。


そして、彼らは静かにその前に立った。





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