第十二章 風の谷の遭遇(前編)
乾いた風が、岩々の裂け目を滑るように吹き抜けていた。
そこは、かつて商隊の拠点として栄えたという〈風の谷〉。今では荒れ果て、崩れた街道跡と打ち捨てられた石造りの廃墟が静かに眠っていた。谷の両脇には断崖絶壁がそびえ、遥か上空から薄く差す陽光が、灰色の岩肌に影を落としている。
「この道……地図には載っていたけれど、昔の道標は全部倒れてるわね」 ノイラが立ち止まり、地面に散らばる石片を見つめながら言った。白い手袋の指先が、割れた石碑の表面をなぞる。
「昔は交易路だったはずだ。今じゃ盗賊や流れ者の通り道になってるって話だが……」 ドゥラニエルが剣の柄に手を置いたまま、周囲に視線を巡らせる。その目は、微かな気配も見逃さぬよう研ぎ澄まされていた。
ヴェリタスは黙って前を見据えていた。風が吹き抜けるたび、彼の青い髪がなびき、その瞳にはどこか張り詰めた光が宿っていた。
「……何か、聞こえた」 彼が呟いた直後、岩陰の向こうから叫び声が響いた。
「や、やめなさいよ! この服、貴族のものなんだからね! 触ったらタダじゃ済まないわよ!」
「ふん、こんなとこに一人でいるのが悪いんだ。なぁ、ちょっとくらい、楽しませろよ……」
ノイラの顔色が変わる。 「誰か、襲われてる……!」
「行くぞ!」 ヴェリタスが駆け出し、ドゥラニエルが続く。ノイラも詠唱の構えを取りながらその後を追った。
岩の裂け目を抜けると、そこには三人の粗末な装備の男たちと、彼らに囲まれた一人の少女の姿があった。少女は背筋を伸ばし、鋭い目つきで男たちを睨みつけていた。
「どこ見てんのよ、下郎ども! このリューシャ様に指一本でも触れてみなさい。国が黙っちゃいないわよ!」
少女は金色の髪を編み込み、肩を大胆に出した濃紺の旅装束に身を包んでいた。腰には装飾の施された短剣を下げている。露出の多い服にも関わらず、彼女の態度は怯むどころか、むしろ誇らしげだった。
「貴族のお嬢様か……それにしちゃ、ずいぶん無鉄砲だな」 ドゥラニエルが低く呟く。
「援護する!」 ヴェリタスが一歩踏み出し、剣を抜いた。その瞬間、彼の瞳が赤く染まり、空気が震えた。
「ノイラ、左から回れ。ドゥラニエル、前を抑えて!」
「了解!」 ノイラが風の術式を展開し、周囲の砂塵が渦を巻く。
「リューシャ、伏せろ!」 ドゥラニエルの一声に、少女がしゃがみこむ。刹那、ヴェリタスの刃が賊の一人の剣を弾き飛ばし、ノイラの風刃がもう一人の頬をかすめた。
「な、なんだこいつら……っ!」 「退け! 相手が悪い!」
慌てて逃げようとする賊に、ドゥラニエルの盾が重く叩き込まれる。 「罪の重さは逃げても消えんぞ」
数合の交差の末、賊たちは敗走し、岩陰の向こうへと消えた。
静寂が戻った谷に、少女の不満げな声が響いた。
「……ちょっと、勝手に助けるなんて無礼じゃない?」
ノイラが呆れ顔でため息をつく。 「普通は“ありがとう”って言う場面なんだけど……」
「……ま、助けられたのは事実だし。一応、礼は言ってあげる。助かったわ」
ヴェリタスが眉をひそめる。 「一人で、こんな場所にいた理由を聞いてもいいか?」
「ふふん、気になる? あたしはリューシャ。とある貴族の娘で、ちょっとした家出中よ。ついでに、護衛がついてくるのが嫌だったから、こっそり抜け出したの」
「その結果がこれか……」 ドゥラニエルが腕を組んで呆れたように言う。
「あなたたち、旅をしてるんでしょ? 少しの間、同行してあげてもいいわ。危険な場所も多いし、あたしの情報は役に立つと思うわよ?」
「随分と上から目線だな……」 ヴェリタスが小さく笑った。
「とりあえず、谷を出た先で休もう。もう少しで次の宿場に着くはずだ」 ノイラが前を向いて歩き出す。
夕暮れが迫る風の谷に、四人の足音が小さく響いていった。その背後で、岩陰に隠れた“影”が彼らを見つめていたことに、まだ誰も気づいていなかった――。