第十一章 黒き峰と忘れられた神殿(後編)
異形との戦いは、霧の中で激しさを増していた。
魔の者たちは理性を持たず、ただ呪いのような言葉を紡ぎ、神の名を嘲笑う。ヴェリタスは剣を振るいながら、その奇怪な呻きに心を揺さぶられそうになっていた。だが、ノイラの封印魔法が鋭く空間を刻み、ドゥラニエルの盾が仲間を守るたび、彼の足元は再び強く大地を踏みしめた。
「まだだ……こんなものじゃ終わらない!」
ヴェリタスは敵の懐に踏み込み、剣を突き立てる。切っ先から紅い光が走り、異形の肉を焼いた。
「この剣は、“力”の象徴じゃない。“選ばれる”ための証明でもない……!」
彼の内側からあふれる叫びが、力と一体化してゆく。神殿の床が震え、封印陣が光を発する。
一方、ノイラは高台から魔法を放っていた。黒い炎と白い光が織り交ざるような術式。視線の先では、異形の一体が口を大きく開け、彼女の名を模倣するように叫んでいた。
「ノ……イラ……汝もまた、力に縛られる者……」
「……うるさい!」
ノイラの術式が爆ぜた。その光の中に浮かび上がったのは、かつて神殿で見た“黒い鎖”――神に仕える者たちの魂を縛る何かの幻影だった。
(あれが……本当に、神の意志なの?)
答えは出ない。だが、恐れて止まるわけにはいかなかった。
ドゥラニエルは盾を大きく振るい、敵を押し返す。彼の動きは騎士団仕込みの正統派。だが、その裏にある信念は、ただの忠義ではなかった。
「守るべきものがある。それだけで、俺は動ける」
敵が振るった腕が、盾にぶつかり、火花が散る。重みを受け止めながらも、一歩も退かず、剣を振り下ろす。迷いはなかった。
リシェルは後方で震える手を抑えながら、周囲を見渡していた。これまでの旅では、何もできなかった自分。けれど、今は違った。
「……逃げない。あたしも、戦うって決めたんだから」
小さなナイフを手に、彼女は祈るように構える。その目には確かな意志が宿っていた。
戦いの終盤、神殿の奥の封印が揺れた。
ヴェリタスが最奥の扉に目を向けた瞬間、何かの気配が彼を射抜いた。冷たい視線。人ではない、しかし異様なほどに知性を帯びた“存在”が彼を見ている――そんな錯覚。
「気づいたようね。あの扉の向こう……そこにいるのは、“裏切りの神”よ」
ノイラが囁くように言った。
「裏切り……?」
「天界で禁忌を犯し、この地に堕ちた神。……その名はまだ記録に残されていない。けれど、その存在が歴史の影を動かしてきた」
ドゥラニエルが剣を鞘に収め、扉の前に立つ。
「この先に進むには……それなりの覚悟がいるな」
「……でも、進まなきゃいけないのよね」 ノイラが頷いた。
「私たちが知るべきことが、あの奥にある。あの神殿での“異常な無反応”の意味も、ヴェリタスが“選ばれなかった”理由も」
ヴェリタスは黙っていた。 (俺は、本当に選ばれなかったのか? それとも――)
「開けるわよ。術式、解きます」
ノイラが両手を掲げ、扉を封じていた光の紋章に触れる。神殿全体が振動し、重々しい音とともに石の扉がゆっくりと開いていく。
現れたのは、闇と光が交錯する不可思議な空間。壁も天井も存在しない。空間そのものが、神の残滓で満たされていた。
「……これは……!」
リシェルが一歩足を踏み入れた途端、光が脈動し、宙に浮かぶ数多の“記憶の断片”が姿を現した。
過去、現在、そして未来――それぞれの時代の出来事が重なり合い、空間を漂っていた。
そこに、黒い鎧を纏った人物が現れた。
顔は隠されていたが、その声には覚えがある。以前、夢の中でヴェリタスが聞いた“もう一人の自分”のような声。
『人は神に祈りながら、同時に恐れを抱く。だからこそ、神を縛り、崇め、支配しようとした』
『ならば我は、神の檻を壊し、真なる意思を解き放つ者となろう』
『そのためには、すべての記憶を壊さねばならぬ』
その声に応じるように、記憶の断片が一つ、また一つと崩れ始める。
「やめろッ!」
ヴェリタスが叫んだ。剣を構え、目の前の幻影へと斬りかかる。しかし、その刃は空を斬るだけだった。
「幻……か……」
だが、確かにその場に“意志”はあった。
ノイラが手をかざし、空間に残された“音の記憶”を辿る。
「……これは警告。あの存在は、私たちに試練を与えているの」
「それとも……呼び寄せているのかもしれないな」 ドゥラニエルが低く呟いた。
空間が収束し、再び石の神殿に戻る。
ヴェリタスはしばらく立ち尽くしていたが、やがて静かに振り返った。
「次に進もう。もう、誰かに決められた未来じゃなく、自分たちで選ぶ未来へ」
その言葉に、ノイラとドゥラニエルは頷く。
リシェルもまた、小さく拳を握りしめた。
霧の向こうに、新たな峠道が現れた。
彼らの旅は続く。裏切りの神の記憶と対峙し、未来を奪おうとする力に抗うための、終わりなき歩みが――始まろうとしていた。