第十一章 黒き峰と忘れられた神殿(前編)
風が、冷たく吹き抜けていた。
灰色の雲が低く垂れこめ、朝日さえ地平線の向こうに沈んだまま昇らない。旅の一行は、険しい山道を歩いていた。ここは五大国の境界線からも遠く離れた〈黒き峰〉――古の大地の亀裂から生まれたと言われる岩山地帯だった。
岩肌は鋭く裂け、時折、地鳴りのような音が谷底から響く。道なき道を進む彼らの足元には、幾度となく崩れた石段や、風化した石柱の欠片が転がっていた。
「……誰がこんな場所に神殿なんか建てたんだろうな」 ドゥラニエルが、膝に手をつきながら呟いた。
「神がまだ、地を歩んでいた時代のものよ。人の願いが、今よりも純粋だった頃の遺構」 ノイラが冷たい風に髪を揺らしながら答える。声には確信があったが、同時に、どこか切なげでもあった。
「……風が冷たい。これって、気のせいじゃないわよね」 リシェルがコートの裾を押さえながら呟いた。彼女の装いは薄手の布に包まれた旅装束。露出は多いが、その分動きやすい設計になっている。しかし、この標高では身に染みる寒さだった。
「黒き峰の風は“過去の声”だと、精霊信仰では言われてる。生者を試す冷たさだよ」 ヴェリタスが歩きながら答えた。目は険しい山の奥を見据えている。
誰もが無言になった。足元の土が凍り、岩の裂け目からは白い霧がゆらゆらと立ち上っていた。
やがて、一行はようやく目的の場所――古の神殿跡にたどり着いた。
神殿と呼ぶには、あまりにも朽ちていた。天井はすでに崩れ去り、柱も苔に覆われ、かつて聖域であったことを示すものはほとんど残っていなかった。ただ、その中心だけは不自然なほど整っていた。
円形の床がわずかに凹み、まるで何かを封じているかのように刻まれた文様が薄く残っていた。
「ここか……。地図で見た“神の記憶”が眠る場所」 ドゥラニエルが地面を見つめながら呟いた。
ノイラは手袋を外し、そっと文様に触れた。その瞬間、空気が変わる。
「……違和感がある。この神殿、ただの遺跡じゃないわ。何かが“動いている”」
そのときだった。
リシェルの足元で、ぼうっと淡い光が灯った。地面に広がる文様が、一瞬だけ明確な輝きを帯び、そこから異様な風が吹き上がる。
「ちょっと……何これ……っ!」
リシェルが身を引くより早く、地に刻まれた魔法陣が完全に顕現した。だが、それは“神の印”ではなかった。
「逆紋……!」 ノイラが息を呑んだ。彼女の瞳が黒に染まり、魔の力に反応して震える。
そこに現れたのは、ねじれた腕、割れた顔、ぼやけた輪郭――人のようで人ではない、神官の成れの果てだった。もはや言葉も通じぬ“異形の魔”。神に仕えながらも、裏切り、呪われし者たち。
「こいつら……神殿を穢した元凶か」
ヴェリタスの瞳が赤く染まる。剣を抜いたその動きは、風の中で迷いなく流れるようだった。
「来るわよ……!」 ノイラの手に魔力が集い、霧が弾ける。
「リシェル、下がれ!」 ドゥラニエルがリシェルを背に庇いながら剣を構えた。
異形の魔たちは、呻き声のような音を立てながら、地を這うように近づいてくる。その動きはぎこちなくも、確実に殺意を孕んでいた。
そして、一体の魔が叫んだ――かつて神の言葉を述べていた声で。
「偽りの血脈……還れ……還れ……!」
その言葉に、ヴェリタスの動きが一瞬だけ止まる。
「……偽り? 俺のことを……?」
ノイラは彼の横顔を見つめた。 (やっぱり……あの神殿で、変化がなかったのは“異端”だから……?)
だが、ヴェリタスは迷いを振り切るように剣を振るった。
「そんな言葉に、惑わされるもんか!」
その一閃は、霧を裂き、魔の腕を断ち切る。彼の剣は、確かに“意志”を持っていた。
ノイラもまた、指先に光を集め、封じの術式を紡ぐ。
「……影よ、還れ。これはあなたのいるべき世界じゃない」
呪文が響くたびに、神殿の空間にひび割れのような光が走る。
一方、ドゥラニエルは黙々と前に出て、剣を真っ直ぐに突き出した。敵が何者であれ、彼の守るべきものは変わらない。
「仲間に手を出すな。俺の剣は、そういうやつを許さない」
重厚な一撃が魔を薙ぎ払う。その動きには、騎士として積み重ねてきた重みがあった。
そして、リシェル。彼女は小さく後ずさりながらも、目を逸らさなかった。恐怖を感じながらも、無力では終わらない。彼女の中にもまた、まだ知らぬ“力”が芽生えつつあった。
霧が再び吹き荒れ、神殿の床が軋む。
この戦いの先に何があるのか――それを知るには、まだ時間が必要だった。
だが、確かにこの瞬間、彼らは“何か”と向き合い始めていた。
そして、神殿の奥に残された、ただひとつの扉が静かに脈動していた。