第十章 聖なる月の巫女 ―後編―
翌朝。
霧が谷を包み込む中、神殿の奥へと続く細い道を、イサリナは静かに先導した。白く透ける衣が朝日に照らされ、彼女の後ろ姿はまるで夢の中の光景のようだった。
「この先にあるのは“記憶の祭壇”――古の契約が交わされた場所です」
イサリナの声は柔らかくも、どこか張りつめていた。
道の両脇には風化した石柱が並び、そこには精霊や星の図が刻まれていた。まるでこの地が、人と世界をつなぐ交差点であるかのようだった。
やがて、一行は祭壇にたどり着く。
古びた石造りの広間。中央には水晶のように透き通る祭壇が鎮座しており、その周囲には四つの方角を示す文様と、月の形を刻んだ石板が配置されていた。
「ここでは、訪れた者の中に眠る“過去”や“未来の可能性”が映し出されるのです」
ノイラは一歩引き、ヴェリタスに目をやった。
イサリナは彼に向き直ると、そっと手を差し伸べた。
「……あなたが、この扉を開く鍵を持つ者。そう感じます」
一瞬、風が止んだ。
躊躇いながらも、ヴェリタスは祭壇に手を触れた。
その瞬間、光が溢れた。
視界が反転するような感覚。
そして彼は、夢とも現実ともつかぬ場所に立っていた。
――目の前に現れたのは、燃えさかる都市、叫ぶ人々、崩れる神殿。
空を裂くような雷と、黒い影に包まれた巨大な存在。
「やめろ……っ!」
思わず叫んだヴェリタスの声は、霧の中に吸い込まれた。
そのとき、彼の背後に光が射した。
幼い頃に聞いた神の声……その記憶が、まるで答えるかのように響いてきた。
『汝、試練を越えよ。友を信じ、剣を掲げ、心を惑わす影に抗え』
ヴェリタスは息を呑んだ。
目の前に映る未来は“可能性”に過ぎない。
それでも、この世界が滅びへと傾きつつあることを、彼の魂は確かに悟った。
――ふと、視界にもう一つの光景が差し込んだ。
今の彼らと似た旅人たち。
しかし、その結末は、仲間の裏切りと世界の崩壊だった。
「……そんな未来、俺たちは辿らせない」
歯を食いしばってヴェリタスは心の中で呟いた。
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意識が戻ったとき、ヴェリタスは石の床に膝をついていた。
「……大丈夫?」
ノイラが手を差し伸べる。ドゥラニエルも傍らで静かに見守っていた。
イサリナは彼にそっと布をかけながら言った。
「見えたのですね。……未来の幻視。選ばれし者にのみ与えられる“視界”」
ヴェリタスは、ゆっくりと頷いた。
「……これから先、俺たちはもっと試される。けど……進むしかない」
イサリナは小さく微笑む。
「きっと、あなた方なら乗り越えられると、信じています」
その言葉に、ノイラは少しだけ目を伏せた。
(信じる……それはきっと、過去に救われた人にしかできない祈り)
イサリナは最後に、一つの銀色の紐を取り出した。
それは星の文様が織り込まれた、清めの結び紐だった。
「これは私の願いを込めた“結び”。旅の途中、あなたを守りますように」
そう言って、彼女はヴェリタスの手首にその紐を優しく結んだ。
ヴェリタスは何も言えず、ただその手を見つめるしかなかった。
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出発の朝、谷は再び静寂に包まれていた。
神殿の前で別れの時が迫る。
イサリナは三人を前に立ち、ゆっくりと一礼した。
「私は、いつかまたこの谷で、あなた方の無事を祈りながら待ちます」
ノイラは歩きながら小さく囁いた。
「……あの人、本当に誰かに助けられたのかな。もし、それがヴェリタスだったら……運命って、皮肉なものね」
ドゥラニエルがうなずく。
「けど、偶然じゃないだろう。あの清らかな祈りが、誰かに届いたんだ。だからこそ今、ここにいる」
ヴェリタスは黙って谷を振り返った。
銀の衣が風に揺れ、イサリナの姿が遠ざかっていく――けれど、彼女の祈りは、ずっと胸の中に残った。
新たな旅が始まる。
それは、記憶と幻視を超えて、本当の“未来”を選び取る旅――。