第十章 聖なる月の巫女 ―前編―
月が満ちる夜、旅路を進むヴェリタスたちは、山間の静かな集落〈ルメイルの谷〉にたどり着いた。ここは五大国からも遠く離れた地にあり、空と風と星の流れを読む古の信仰が今も残る土地だった。
谷に入ると、どこか張りつめた静寂が辺りを包んでいた。空は澄み渡り、天の川のような星の帯が夜空に浮かぶ。
「まるで……空の中にいるみたいだな」
ドゥラニエルが感嘆の声を漏らす。
「この空気……ここ、何かが違う」
ノイラは風に舞う香の気配に目を細めた。微かに甘く、どこか懐かしい香り。だが同時に、心をくすぐるような違和感も含まれている。
そして、谷の中央にある神殿の前に、ひときわ目を引く存在が立っていた。
薄い銀のヴェールをまとい、静かに立つその女性は、まるで月光から生まれたような透明感を放っていた。
彼女はゆっくりと振り向くと、微笑みを浮かべた。
「……ようこそ、旅の御方。ラマシュの巫女、イサリナと申します」
彼女の声は穏やかで、どこか夢を語るような響きがあった。
年齢は二十代後半ほどだろうか。清らかな顔立ち、肩まで流れる銀混じりの亜麻色の髪、そして深い海のような青の瞳。
彼女の立ち居振る舞いは、まるで物語の中の登場人物のように幻想的だった。
「イサリナ様……どうして私たちのことを……?」
ノイラが口にすると、イサリナは目を細めて笑った。
「星が導いたのです。この谷に、遠き未来を変える者たちが訪れると。あなた方は……その光の先にいるのでしょう?」
その瞬間、ヴェリタスの胸に、不思議な既視感が走った。
どこかで見たことがあるような、感じたことのある光……彼女の声が、自分の過去に触れたような気がしてならなかった。
「……あなた、以前に……どこかで……」
「ええ……」
イサリナの声がわずかに震えた。
「ずっと昔、私は崖から落ちかけた小さな少女でした。あのとき――白い光が私を包み、助けてくれたのです。それが夢だったのか、現実だったのか……私には今も分かりません。ただ、その光の中に、青い髪の少年がいたのを覚えているのです」
ドゥラニエルとノイラがヴェリタスを見る。
ヴェリタスは困惑しながらも、何も言えなかった。ただ胸の奥に、冷たくも温かい記憶の欠片が疼いた。
その夜、彼らはイサリナの導きで神殿に泊まることになった。
神殿は簡素ながら清潔で、内部には星の軌道と月の満ち欠けを示す美しい天球儀が置かれていた。
イサリナは焚き火の前で語った。
「私は夢を見続けてきました。あの夜の出来事が、偶然ではないと……。そして、今夜……あなたが再びこの谷に訪れる日が来ると、ずっと……ずっと信じていたのです」
その目には、少女のような純粋さと、大人の女性の深い情熱が宿っていた。
言葉を選びながら話す姿、時折ふと遠くを見る仕草……彼女はまさに“ロマンチスト”だった。
一方、ノイラはその様子を静かに観察していた。
(……この人は、ただの夢追い人じゃない。何かを見てる。何かに導かれてる……)
焚き火の炎が揺れる中、イサリナの語る想いと、かつての記憶が少しずつ交差し始めていく。
――そして、月が天頂を越えたころ。
イサリナはふと、神殿の奥に視線を向けた。
「……この谷には、もう一つ“扉”があるのです。古の神と精霊たちが、ある使命を果たす者にだけ明かす“記憶の祭壇”が……。もしよろしければ、明日……そこへご案内しましょう」
その言葉に、ヴェリタスの胸の奥で、何かが静かに目を覚ました。