第八章・後編
―静謐なる狂炎―
闇に紛れるようにして現れた敵――それは、かつて神の祝福を受けた者の成れの果てのようだった。人の形をしていながら、目に光はなく、口元は常に歪んだ笑みを浮かべている。黒衣を纏い、禍々しい瘴気をまとう姿に、ヴェリタスの心は思わずざわついた。
敵は口を開かずとも、言葉が直接ヴェリタスの意識に響いてくる。
『おまえも、選ばれし者か……ふふふ、どれだけの“祝福”が呪いに変わったか、知っているか? わたしは知っている。甘美な光は、やがて魂を灼く焰となる……』
「……何なんだ、お前は……!」
ヴェリタスは剣を構えながらも、内心、言いようのない寒気に襲われていた。敵の言葉は理屈ではなく、心の奥底に直接染み渡ってくる――それが彼の“真実”を暴こうとしてくるように感じた。
『この力は……神々が人を見捨てた証だ。選ばれし者? ただの駒だ、切り捨てられる運命にある。お前もいずれ知る……力の本質を。』
「黙れ……!」
ヴェリタスは怒りに任せて斬りかかる。だがその斬撃は霧のように空を裂き、相手の輪郭を捉えられない。視線の先で、敵は不気味に微笑んでいた。
――まるで、俺の“迷い”を見透かしているかのようだ。
ヴェリタスの胸に、過去の記憶が浮かぶ。成人の儀で“何も起こらなかった”あの日。皆が神の祝福に包まれる中、自分だけが“空虚”だった。その空白の時間に見えたノイラのまなざし、彼女だけが気づいた“何か”。
『お前の中には深淵がある。光すら飲み込む深い闇だ。神はそれを恐れ、お前に沈黙を与えたのだ……』
「俺は……俺は……!」
ヴェリタスの両手に力がこもる。剣の柄が軋み、意識の奥底から熱が込み上げてくる。赤く光るその瞳は、たしかに神の力の発現を示していた。だがそれと同時に、彼の中の恐れ――自分が本当に“人”でいられるのかという不安が、心を蝕む。
――俺は、神に見捨てられたのか……? それとも、まだ見限られていないのか?
『迷え、選ばれし者よ。わたしはその迷いを喰らう。わたしこそが、“真実”なのだから――』
「……違う。たとえこの力が呪いでも、俺は……俺は、誰かを守るために振るう!」
叫びと共に、ヴェリタスの剣が光を帯びる。敵の瘴気と交差するその一閃は、真っ直ぐに魂を切り裂く――自らの迷いと恐れごと。
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空に薄雲が広がり始めた頃、戦場の静寂が戻りつつあった。焦げた草の匂いと、冷えた血の気配が辺りに残る中、ノイラは細く息を吐いた。魔力の流れが落ち着き、身体に張り詰めていた緊張がほどけていく。だが、気は抜けない。
「……二人は、無事かな」
独りごとのように呟きながら、ノイラは草をかき分け、戦場の縁へと足を運んでいく。途中、倒れた敵の亡骸を横目に見ながらも、その足は迷わなかった。彼女には確信があった。二人もまた、同じように闘い、生き延びたのだと。
しばらくして、樹々の間から、一人の巨躯が姿を現す。
「……ドゥラニエル!」
「……ノイラ。無事か?」
鎧の一部が砕け、右肩から血を流しながらも、ドゥラニエルは立っていた。疲労が顔ににじんでいたが、その眼差しは変わらぬ強さを湛えている。
ノイラが駆け寄ると、彼は微かに笑みを浮かべて言った。
「……おまえの光が見えた。安心したよ」
「うん……でも、あなたも傷が……すぐに癒さなきゃ……!」
ノイラが回復の術式を唱えようと手をかざしたそのとき、草を踏む足音がもう一つ、背後から聞こえてきた。
「二人とも、無事だったか」
その声に振り返ると、そこには剣を肩に担ぎ、炎に焼かれたような衣をまとったヴェリタスが立っていた。額には汗、剣先にはまだ微かな光が宿っている。
ノイラの表情が一瞬、強張る。ヴェリタスの目が赤く光っていたからだ。
だが、彼女はすぐにそれを受け入れるように頷いた。
「……うん。あなたも、ちゃんと戻ってきた」
「ギリギリ、な。あいつの声が、頭の中まで入り込んできて……でも、俺は負けなかった」
ヴェリタスの言葉には、どこか安堵と、わずかな自嘲が混じっていた。ノイラは静かに彼のそばに近寄り、傷の一つに手を伸ばす。
「もう少し、私を頼ってもいいのに……」
その優しさに、ヴェリタスは一瞬目を伏せた。
ドゥラニエルがゆっくりと二人の間に歩み寄り、戦場を振り返りながら口を開く。
「……今の敵は、ただの手先じゃない。あれは“意志”を持っていた。俺たちを試していたような……そんな目をしていた」
「わかる。あれは……人を壊して生まれた何かだった。言葉にできないけど……ひどく冷たくて、深い穴みたいだった」
ノイラの言葉に、ヴェリタスも頷く。
「奴は、俺の中にある“迷い”を見透かしてきた。でも……その声を超えて、今ここにいる」
「それだけで、充分だよ」
ノイラがそっと微笑む。ほんの少し、三人の間にあった距離が縮まったように感じられた。
やがて、三人は立ち止まっていた場所を後にし、次なる地を目指して歩み始めた。夜の帳が降りる前に、宿を探す必要がある。
だが、闘いを越えた今、互いの歩幅は自然とそろっていた。
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