第八章・中編
―白銀の盾、崩れぬ誓い―
「……ここを通すわけにはいかぬ」
低く響く声に、風が一瞬止まったように思えた。
ドゥラニエルは片膝をつきながら、傷だらけの体を起こし、剣を構える。剣の柄には乾きかけた血がこびりついていた。
(これ以上は持たぬかもしれん……だが、倒れるわけにはいかない)
眼前に立つのは、異形の戦士。
かつて人であった者の面影をわずかに残しながら、その身は異端の呪印に蝕まれ、肉体は膨れ上がり、血管が黒く浮き出ている。
「騎士風情が、一人でこの地を守る? 滑稽だな」
異形の声は嗤っていた。だがその心には、一抹の苛立ちがあった。
(なぜだ……こやつは、怯えもせず、恐怖にも飲まれぬ)
(なぜ、まだ立ち上がる?)
彼が相手にしてきた人間たちは、恐怖に膝を折り、絶望に声を上げた。だが、この騎士だけは違う。何度斬り伏せても、なおその瞳は消えぬ灯のように揺るがなかった。
「我が名はドゥラニエル。アルセリアの騎士にして、剣の誓約を背負う者」
静かな口調の奥に宿るのは、揺るぎなき覚悟。
名乗ることで己の存在と誇りを再確認し、立ち上がる力を得る。
(私は、誰かを守るためにこの剣を持った。誰にも、それを否定させはしない)
呪印の力を帯びた斧が唸りを上げて振り下ろされる。
ドゥラニエルは歯を食いしばりながら剣を構え、その一撃を真正面から受け止めた。
——ガァン!
甲冑が軋み、地面が砕け、足元の大地がたわむ。
(重い……全身が裂けるようだ。それでも、立つしかない)
「なぜ、抗う? いずれ、貴様も飲み込まれる運命だというのに……!」
異形の戦士の心にも、焦りと怒りが膨れ上がっていた。
(この男の魂……まるで“聖域”のように澄んでいる。
なのに、なぜここまで恐ろしく感じる?)
ドゥラニエルは反撃に転じる隙を探しながら、心の奥で問いかけていた。
(この者もまた、誰かを守るために剣を取ったのだろうか)
(ならば、なぜその力を……人を踏みにじるために使う)
「貴様にはわかるまい……神に見捨てられた者の業を!」
異形の叫びに、ドゥラニエルの眉がわずかに動く。
その言葉の中に、過去の絶望が滲んでいた。
(神に……見捨てられた?)
(我々が信じる神とは、本当に万人に光を与える存在なのか……)
ふと、彼の脳裏に浮かぶのは、成人の儀の神殿で感じた違和感。
そして、ノイラの言葉。あの時、彼女の瞳に宿っていた、何かを見透かすような静けさ。
(たとえ、神が正義とは限らぬとしても。
私は、共に戦う者を信じたい)
「貴様を……止めねばならぬ!」
ドゥラニエルの剣が光を放つ。
それは、魂の底から湧き上がった“意志”の輝きだった。
斬撃が敵の胸を裂く。だが、黒い血が噴き出すと同時に、異形の身体は再生し、禍々しい瘴気が噴き上がった。
「見よ、我が呪印は絶望そのもの……!」
だが、その時、ドゥラニエルの眼差しが鋭く変わった。
彼は静かに、だが確かに祈るように言葉を紡いだ。
「神よ、願わくば——この剣に応えたまえ」
剣が閃き、純白の光を帯びていく。
(これは奇跡ではない。祈りでもない。これは……私自身の“誓い”だ)
仲間の未来を、あの少年の理想を、ノイラの信念を……
守るために、命を削るその覚悟。
「これが、我がすべて!」
一閃。白銀の閃光が、敵の呪印を焼き尽くした。
咆哮が響き、異形の戦士が膝をつく。
「なぜ……我を、恐れなかった……」
その問いに、ドゥラニエルは剣を収めながら応えた。
「恐れていたとも。だが、己を信じられぬ者に、守ることなどできぬ」
最後の力を振り絞り、異形の男はわずかに笑った。
どこか懐かしい、救われた者のように。
——そして、崩れ落ちた。
戦いのあと、風が再び吹き抜ける。
ドゥラニエルは一度深く息を吐き、遠くで戦う仲間の方を見やった。
(ノイラ、ヴェリタス……生きて、また並んで戦おう)
その眼差しは、また歩き出すための“静かな勇気”に満ちていた。