第八章・前編
―黒き瞳に映るもの―
風が、森を駆ける。
木々の葉がざわめき、足元の草がざり、と鳴った。
ノイラは静かに腰を落とし、弓を構えていた。銀糸のように織られた装束がかすかに揺れ、彼女のブロンドの髪に絡む。漆黒の瞳は、目の前の影を正確に捉えていた。
敵はただの魔物ではない。
この地に古くから巣食っていた“異端の精霊”——かつて封じられたはずの存在。
人の心に取り憑き、悲嘆と憎悪を増幅させる、呪いの化身。
「……ここで逃がすわけには、いかない」
ノイラは一歩踏み出した。目の前に現れたのは、巨大な獣の姿をした影。だが、その目は人のそれに似ていた。悲しみとも怒りともつかない、濁った感情が澱のように沈む瞳。まるで——過去の自分を見ているようだった。
(あの夜を……忘れたことなんて、一度もなかった)
かつて故郷を襲った黒い炎。彼女の力が暴走し、全てを焼いたあの夜。自分を恐れ、離れていった人々。神の力を与えられながら、受け止めきれなかった罪。
「なら……今こそ、証明する」
その瞬間、瞳が染まった。
純粋な黒。深淵のような色に変わったその目に、精霊の姿が映る。
ノイラが引き絞った弓から、漆黒の光が奔った。矢は空気を裂き、敵の肩を貫く。しかし、それだけでは終わらなかった。影は咆哮を上げ、霧のようにその身を分散させ、ノイラの背後を取った。
(速い……!)
とっさに身を沈め、刃のような爪を避ける。しかし左腕をかすめた傷口から、黒い瘴気が滲み出すような感覚があった。体が少しずつ冷たくなっていく。
「私の中に……入り込もうとしてるの?」
――違う、これは“見せている”。お前の中の弱さを。
聞こえたのは、自分の声だった。
けれど、それは違う。もう私は、逃げない。
「……あなたの痛みは、私の過去。でも、私はそれを超える」
足元に精霊の印を刻む。瞬間、黒い弓が淡く光を放ち、矢が自動的に生成される。次の矢は“断ち切る”力を宿していた。
それは、ノイラが過去の罪と向き合い、受け入れた証。
(お願い……私に、もう一度——射抜かせて)
静寂の中で、矢が放たれた。
それは迷いのない光だった。
敵の胸を貫いた瞬間、影が崩れた。霧となって空に溶け、ただ風が吹き抜けるだけとなった。
ノイラはゆっくりと矢を収めた。
肩で息をしながら、視線を空へ向ける。
「——ヴェリタス、ドゥラニエル……無事だといいけど」
仲間たちの戦いを思い、胸の内に焦りが過る。
「私はまだ、足りない。でも、必ず追いつく……!」
彼女の中の黒き瞳は静かに消え、元の輝きを取り戻す。
けれど、それは“過去の延長”ではない。
新しい彼女が歩む、“光と影のはざま”の始まりだった。